0人が本棚に入れています
本棚に追加
第四話
「いただきます。」
「いただきます。」
目の前にある定食を食べ始めた。
私は毎日、こうしてスズカさんと食堂で一緒に食事をしているのだけれど。
何も変わりない日、そのはずなのに。
既視感とは微妙に違うような、新鮮さがあった。
それを説明するならば。
今とは、似て異なる状況を繰り返していたかのような、既視感だ。
それは、どこか新鮮さを感じる感覚に通じていた。
私は、その二つの奇妙な感覚を感じていた。
でも、何か変わったことは、特にないはずだ。
特に…なにも…。
「ハルナ、そういえば…。」
箸を進める手が止まっていた。スズカさんは、薄い桃色の唇に自らの細い指を当てる仕草をしている。
その様子は、とてもスズカさんらしい。
お嬢様らしいもの。
「はい、なんでしょうか?」
「この前に話した夢の話、覚えてる?」
「…夢、ですか?」
「ええ。夢はその人の記憶を整理している状態だと言われているんだけど。それだけじゃないって話よ。」
そういえば、確かに。
私は、スズカさんとそんな話をした気がした。
でも、それを話したのはいつだっけ?
窓の外では相変わらずの霧雨が降り続いている。
その音が、食堂の喧騒を不思議なほど遠くに感じさせた。
「たとえば、真っ暗な場所で、何か懐かしいような感じの夢を見たとして。」
私は動きを止めた。
確かに、今朝、それを見た夢はそれだった。
母胎にいたような、不思議な浮遊感。
でも、それをスズカさんに話したことはないはずだ。
「ハルナ?」
スズカさんの声で我に返る。食堂の蛍光灯の光が、定食のトレイの上で妙に眩しく感じる。
「あ、すみません。つい、うっかりして…。」
箸を持ったまま、申し訳なさそうに答える。
「本当に大丈夫かしら?」
スズカさんは自分の箸を丁寧に置いた。
お嬢様らしい流れるような動作。
制服の袖がすらりと動く。
次にスズカさんは手を私の顔に伸ばす。
長い黒髪が、その動きに合わせて静かに揺れた。
額に触れる指先が、優しく冷たい。
「熱はないわね。」
彼女はそう言いながら、手を戻した。
「はい、大丈夫です。気のせいだと思うので。」
「そうならいいんだけど。」
スズカさんは考え込むようにしていた。
ちょっと思い悩むかのよう。
切れ長の目は心配そうにこちらを見ている。
「まあ、いいわ。」
改めて、スズカさんはこちらを向いた。その姿だけが、食堂の喧騒の中で、妙にくっきりと見えた。
「そう、さっきの話なんだけど。私はね、夢には特別な意味があると思うの。」
突然、スズカさんはそんなことを言い出した。
このお嬢様は、時々こういう不思議な話を持ち出す。
オカルトが好きだと聞いていたけれど、まさか夢の話にまで及ぶとは…。
「特別な…意味、ですか?」
「ええ。例えば、暗闇の中で浮かぶ夢。それは記憶の整理だけじゃないのかもしれない。」
スズカさんはそこで、言葉を止めた。
その表情には、何か言いたげな色が浮かんでいる。
長い睫毛の下で、漆黒の瞳が不思議な光を帯びていた。
まるで、私の心の奥まで見通そうとしているかのように見えた。
「ハルナ。集合的無意識って知っている?」
私は少女漫画や恋愛小説は読むけれど、そんな難しそうな言葉は初めて聞いた気がする。
いや、どこかで目にした気もするけれど…。
正直、私には分からない。
「ええと。ごめんなさい。」
私は正直にそう言ってから、少しだけ後悔した。
どうして、私はいつもこうなんだろう、と。
少しでも、スズカさんの話に合わせられるだけの知識があればいいのに…。
「ああ、そう?ハルナ。じゃあ、説明するわ。その集合的無意識というのは…。人類全体で共有している深層心理のことなのよ。」
私のことなど、気にしない、ゆっくりとした口調でスズカさんは説明を始めた。
「これは、ユングという心理学者が提唱した概念なの。個人の意識や無意識の下に、人類という種全体で共有している心の層があるという考え方でね?」
スズカさんは、さも面白いものを見たかのように、説明を続けている。
私はじっと、それを聞いていた。
「その集合的無意識は、夢を通して私たちに語りかけてくる場合もある。特に、暗闇の中での夢は重要な意味を持っているわ。」
暗闇の夢。
私は、今朝見た夢のことを思い出していた。
まるで子宮の中にいるような、あの不思議な感覚。
世界との境界が溶けていくような浮遊感。
そして、誰かに見守られているような安心感。
「夢には二つの種類があるの。一つは日常的な記憶の整理。そして、もう一つは…。」
スズカさんは一瞬言葉を切った。
窓の外では霧雨が強くなり、ガラスを激しく叩く音が響く。
その音が、私たちの会話を包み込むように響いていた。
食堂の喧騒さえ、どこか遠くに感じる。
「もう一つは、集合的無意識に触れる夢。特に、暗闇の中で見る夢は、現実世界と『向こう側』の境界線上にある時に見るものだと言われているわ。」
向こう側。
その瞬間、私の背筋に小さな震えが走った。
その言葉には、どこか引き寄せられるような、でも怖いような、そんな感じがした。
「向こう側、ですか?」
思わず、私は聞き返してしまった。
「ええ。集合的無意識は時々、夢を通して、私たちに大切なことを伝えようとする。」
窓の外の霧雨が、私たちの会話を包み込むように降り続いている。
その音に紛れるように、スズカさんは静かに付け加えた。
私たちの周りにいる他の生徒の姿が、まるで霧の向こう側のように遠く感じられる。
「だから、ハルナの見る夢にも、きっと特別な意味があるはずなのよ。」
でも、お嬢様のスズカさんが、なぜこんな神秘的な話を?
彼女の切れ長の瞳には、いつもの優雅さとは違う、何か強い意志のようなものが宿っていた。
私は目の前の味噌汁から立ち上る湯気を見た。
その白い煙が、朝見た夢の記憶のように、すうっと消えていく。
「もしかしたら、ハルナの見る夢は、この世界の一面の真実を映し出しているのかもしれないわね。」
スズカさんの声には、まるで自分に言い聞かせているかのような響きがあった。
その言葉の重みが、私の心に深く沈んでいく。
「たとえば…。夢占いなんてのは、もともと危険な夢や無害な夢を分類する過程で生まれたものなの。」
「そうなんですね。」
私はスズカさんの知識の広さに驚いた。
普段から不思議な話を好むとは思っていたけど。
夢に関しても、ここまで詳しいとは思っていなかった。
「それによれば、別の世界との接触という夢もあるって言われているの。」
私は思わず、今朝見た夢のことを思い出していた。
母胎の中にいるような、あの不思議な浮遊感。
まるで、この世界とは別の場所にいるような感覚。
でも、それを思い出そうとすると、記憶が霧のように薄れていく。
「それは暗闇の中での夢、それがそうかもしれない、ということね。そういう夢を見るとき、私たちの意識は、向こう側に触れているのかもしれない。」
スズカさんの声が、いつもよりゆっくりとしているように聞こえた
それは、どこか神秘的な響きを感じさせた。
「昔の人は、夢は異界への入り口だと考えていたそうよ。特に、暗闇の中で感じる浮遊感。それは、私たちの世界と、もう一つの世界の境界線上にいる時の感覚だってね。」
スズカさんは、まるで自らが解読した世の真理かのように、すらすらと静かに言葉を紡いでいる。
その姿は、いつもの高貴なお嬢様とは違う、何か神秘的な雰囲気があった。
「ハルナは、そういう夢を見る?真っ暗な場所で、でも確かに何かを感じるような。」
私は小さく頷いた。今朝の夢のことを話すべきか迷う。
でも、スズカさんの真剣な眼差しに、思わず口を開いてしまう。
その瞳に吸い込まれるように。
「はい。今朝…、暗闇の夢を見ました。でも、内容は全然覚えていなくて。ただ、なんだか懐かしいような…。」
「とても興味深いわ。」
スズカさんの瞳が輝いた。
その黒髪が蛍光灯の光を受けて、不思議な輝きを放っている。
その輝きは、まるで私の答えに何か特別な意味を見出したかのよう。
私には理解できない、でも確かにそこにある何か。
「その夢には、特別な意味があるわ、きっと。特に、今言ったように、暗闇の中での夢は。」
窓の外で霧雨が一層強くなり、ガラスを伝う水滴が、まるで私たちの会話を遮るかのように流れていく。
食堂の喧騒が、まるで別世界の出来事のように遠く感じられた。
「でも、それって怖くないですか?夢が何かを伝えようとしているなんて。」
私は素直な疑問を口にした。
制服のスカートを少し握りしめながら。
「怖いことばかりじゃないわ。」
スズカさんは、どこかを懐かしむような表情を浮かべて、静かに語る。
「時には、大切な人との約束を思い出させてくれるかもしれない。それは、決して忘れてはいけない、でも忘れてしまった。そんな大切な約束を…、なんてね。」
最後にスズカさんは、そう言って笑った。
ただただ、霧雨の音だけが、私たちの間に静かに降り続いていた。
「私には、難しすぎる話な気がします。」
思わずそう言ってしまった私に、スズカさんはいつもの優雅な微笑みを浮かべていた。
「あの、スズカさん。どうしてそんな?」
「ただの興味よ。私、不思議な話が好きなの。」
そう言いながら、スズカさんは私をじっと見ている。
好奇心。
そして、私への関心。
彼女からは、そう言ったものが見て取れた。
「スズカさんって、本当にそういう不思議な話が好きなんですね。」
「ええ。ハルナは興味ないの?」
「うーん…。私は怖い話とか、あまり得意じゃないんです。」
正直に答えると、スズカさんは楽しそうに微笑んだ。
その表情にある、彼女の切れ長の瞳の奥には、何か深い想いが宿っているようにも見えた。
いや、それは私の気のせい…、だろうか?
「そう。それは、そうよね。」
なぜだろう、スズカさんの言葉には。
まるで私のことをとてもよく知っているかのような、確信めいた響きがあった。
「でも、こうやってスズカさんと話をしているのは、楽しいです。」
思わずそんな言葉が口をついて出る。
スズカさんの目が少し大きくなり、そしてすぐに柔らかな微笑みへと変わった。
「ありがとう、ハルナ。」
スズカさんの声には、嬉しそうな響きがあった。
長い黒髪が蛍光灯に照らされて、静かな輝きを放っている。
その姿は、この食堂の喧騒の中で、まるで別世界の存在のように見えた。
周囲の会話や食器の音が、どこか遠くで鳴っているように感じる。
まるで私とスズカさんだけが、透明な膜で包まれているかのように。
「あの、スズカさん?」
「なあに?」
スズカさんは、私の声に耳を傾けるように、少し体を前に傾けた。
「私、スズカさんと話していると、なんだか不思議な気持ちになるんです。」
私は自分でも驚くような告白をしていた。普段なら決して口にしないような。
「それは、どんな気持ち?」
スズカさんの声が、優しく問いかけてくる。
難しい質問を投げかけられて、私は言葉を選びながら答えた。
「えっと…。まるで、スズカさんとだけ、特別な空間にいるような…。」
そう言いながら、自分の言葉の不思議さに気づく。
普段の私なら、こんな不思議なことを口にすることはないはずなのに。
「他の人の声とか、食堂の音が遠くに聞こえて。スズカさんのことだけが、はっきりと見えるんです。」
私の言葉に、スズカさんの瞳が微かに揺れたように見えた。
「それは、どう?怖い?」
スズカさんの声には、どこか慎重な響きがあった。
まるで、私の答えを確かめるような…。
「いいえ。むしろ…安心します。」
私は素直にそう答えた。
「なんだか、ずっと昔から知っているような。でも、それって変ですよね?私たち、入学してからの知り合いなのに。」
そして、思わずそう付け加えてしまった言葉に、スズカさんの表情が一瞬だけ変化したように見えた。
「ハルナ…。」
スズカさんは、ゆっくりと私の名前を呼んだ。
霧雨は一層強くなり、ガラスを激しく叩いている。
その音が、まるで彼女の言葉を遮るかのようだった。
私は、目の前の定食を見た。
もう冷めかけている味噌汁から立ち上る湯気が、まるで朝の夢の記憶のように、ゆっくりと消えていく。
「ハルナ、その感覚を大切にしてね。」
スズカさんは、突然そう言った。
「感覚、ですか?」
私は、自分の手のひらを見つめる。
制服の袖から覗く手首が、蛍光灯に照らされて白く見える。
「ええ。あなたの感じていること、それはとても大切なことなのよ。」
スズカさんの長い睫毛が、ゆっくりと瞬いた。
そこまで言って、スズカさんは一度深く息を吐いた。まるで、何か大きな決心をしたかのように。
「私ね、ハルナの見た夢のことを、とても気にかけているの。」
その言葉には、これまでの会話とは違う、何か特別な重みがあった。
「それは…どうしてですか?」
私の問いかけに、スズカさんの黒髪が静かに揺れた。
「それはね。」
いつになく、真剣な表情。
「…秘密。」
そう言って、スズカさんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「えっと。」
スズカさんに遊ばれている。
完全に私は、脱力してしまった。
「ふふっ、早く食べましょう?冷めちゃうわ。」
スズカさんのいつもの気まぐれな態度に、少し呆れながらも、どこか安心感を覚えた。
「もう、スズカさんったら…。」
箸を持ち直しながら、私は小さな抗議の声を上げる。
スズカさんは、そんな私の反応を楽しむように微笑んでいる。
「ごめんなさい。でも、ハルナの困った顔も可愛いのよ。」
そう言って、スズカさんは生姜焼きを食している。
スズカさんの食事風景は、優雅そのもの。
ナイフとフォークで、生姜焼きを小さく切り分ける様子は、まるで高級レストランでディナーを楽しむかのようだ。
「あの…。」
私は言いかけて、また言葉を飲み込んだ。スズカさんが私のことを可愛いと言うたびに、どこか居心地の悪さを感じる。それは、彼女の圧倒的な存在感の前で、自分がとても小さく感じられるからかもしれない。
窓の外では相変わらずの霧雨。その音が、私たちの間の沈黙を優しく埋めていく。
「ハルナ、食べないの?」
スズカさんの声に、私は慌てて箸を動かし始めた。
冷めかけた味噌汁から立ち上る湯気が、まるで私の混乱した思考のように、ゆらゆらと揺れていた。
最初のコメントを投稿しよう!