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第六話
「ここよ。」
スズカさんは、マンションのエントランス前で足を止めた。
霧雨に煙る街並みの中。
その建物は、はっきりと私の目に映る。
白を基調とした外壁に、大きなガラス窓が整然と並んでいる。
この新興住宅地らしい、そんな綺麗なマンションだった。
「このマンションに住んでいるの。」
スズカさんは、藍色の和傘を軽く揺らしながら言った。
私は小さく頷く。
見た目から察するに、このマンションは築年数も新しいみたいだ。
本当に綺麗な建物で、それはどこか高級感すら感じられた。
スズカさんのような人が住むには、ふさわしい場所なのかもしれない。
だけど、私一人でこんな場所に初めて来るとなれば…。
どうしても緊張してしまう。
「あの、スズカさん…。」
「大丈夫よ、ハルナ。案内するから。」
私の緊張を察したのか、スズカさんは優しく微笑んだ。
その柔らかい表情に、私の心が少しだけ和らいだ。
スズカさんは、エントランス前にあるインターフォンに番号を打ち込んでいる。
細く長い指が、スラスラと動いて、数字のパネルを押していく。
打ち込み終わった後、エントランスのガラスドアが開いた。
どうやら、オートロック式のマンションのようだ。
私たちは傘を畳み、レインコートの裾から伝う雨粒を払いながら中へ入った。
玄関ホールは広々としていて、大理石のような床材が柔らかな光を反射していた。
まるでホテルのロビーのような雰囲気だ。
壁には大きな観葉植物が飾られ、その緑が白を基調とした空間に温かみを与えていた。
その植物の葉は、どれも艶やかで、丁寧に手入れされているのが分かる。
「エレベータはこっちよ。」
スズカさんが先導する。
私は少し離れて後ろを歩く。
レインブーツが光沢のある床を踏むたび、かすかな音が響く。
その音が、この清浄な空間の中で妙に目立つように思えた。
天井からの柔らかな照明が、私たちを映し出している。
それは、まるで私たちの存在を確かめるかのようだった。
エレベータの前で、スズカさんはカバンからモノを取り出そうとする。
彼女がバッグからごそごそとモノを取り出す音が、静かな廊下に響く。
そして、カードキーを取り出した。
それを使って、エレベータを呼び出す。
扉が開くと、埃一つ落ちていないエレベータが現れた。
隅々まで清掃の行き届いた、清潔そうな空間。
そして、内装は高級そうなもので、壁面はキラキラと輝いているかのようだった。
制服姿の私と、その隣に立つスズカさん。
私は、そこにいると認識すると、改めて緊張した。
「ハルナったら、そんなに緊張しなくていいのよ。」
スズカさんは、そう言って小さく笑った。
その声には温かみがあって、少しだけ私の緊張が解ける気もする。
エレベータは静かに上昇を続ける。
デジタル表示の数字が次々と変わっていく。
その間、私は自分の鼻息が聞こえるくらいに息を潜めていた。
まるで、この密閉された空間が、私を別の世界へと運んでいくかのようだった。
「着いたわ。」
七階で扉が開く。
廊下に一歩踏み出すと、落ち着いた色調のカーペットが足音を吸い込んでいく。
両側に並ぶドアには、それぞれ控えめな色調の金属プレートで部屋番号が示されていた。
どれも同じような扉なのに、その中のどれかが、スズカさんの生活空間なのだと思うと不思議な感じがした。
「こちらよ。」
スズカさんは廊下を進み、一枚のドアの前で立ち止まった。
705号室。
カードリーダーがある。
スズカさんはカードリーダーにカードキーをかざす。
電子音。
カチッ、という音。
どうやら施錠が解除されたようだった。
「さあ、どうぞ。」
ドアを開けながら、スズカさんはそう言った。
「え、えっと。…お邪魔します。」
ちょっと戸惑いながらも。
小さな声で挨拶をする私。
スズカさんよりも一歩先に玄関に入る。
その玄関に一歩踏み入れると、そこにはスズカさんらしい清潔感のある空間が広がっていた。
玄関の床は、光沢のある大理石調のタイルで、その上に落ちる照明が柔らかな雰囲気を作り出している。
「靴は、そこに置いてね。」
玄関には木目調の靴箱があり、その横にスリッパが整然と並んでいる。
木製の傘立て。
そして、縦置きのハンガーがあった。
そのハンガーは、デザイン性の高い金属製のもので、マンションの雰囲気に溶け込んでいた。
「レインコートは、そこにあるハンガーにかけてね。それと、傘立ても使ってね。」
レインコートハンガーだったらしい。
スズカさんは、それを差しながらそう言った。
彼女は、私の後ろでレインコートを脱いでいる。
「はい、分かりました。」
私は言われるがままに従う。
レインコートを脱ぎながら、私は部屋の中を見渡す。
玄関から真っ直ぐに伸びる廊下の先には、リビングらしき空間が見える。
その向こうには大きな窓があり、霧雨の街並みが一望できそうだった。
「ああ、あと。そこにあるスリッパを適当に使ってね。ハルナ。」
スズカさんにそう言われた。
レインコートをハンガーにかけた私は、横にあるスリッパを使わせてもらうことにした。
清潔感のある白いスリッパ。
それは新品のようにきれいで、まるでホテルのアメニティのような印象すら受ける。
そのスリッパに履き替える。
床に足を置くと、ふかふかとした感触が伝わってきた。
「リビングへ行きましょう。」
私は、スズカさんの後について歩を進めることにした。
廊下は、フローリング。
壁や天井の内装は、清潔そうな白色。
その白さが、室内の明るめの光を受けて、どこか神々しいような雰囲気さえ醸し出している。
その廊下を抜けると、そこには予想以上に広いリビングが広がっていた。
天井まで届きそうな大きな窓からは、霧雨に煙る街並みが見渡せる。
高層階からの眺めは、まるで別世界を見下ろしているかのようだった。
「座って。」
スズカさんはふかふかとしたソファを指差した。
灰色のファブリックソファが柔らかな印象を与えている。
その色合いは、窓の外の霧雨の景色と不思議と調和していた。
「失礼します。」
私が、慎重に腰を下ろすと、体が心地よく沈み込んでいく。
ソファの座り心地は想像以上に良く、思わずため息が漏れそうになった。
「お茶を入れるわ。少し待っていて。」
スズカさんはキッチンへと向かった。
私は遠慮がちに周囲を見渡す。
リビングの壁には本棚が設えられ、哲学書が整然と並んでいる。
その隣には、オカルトや怪談に関する本も見受けられた。まさにスズカさんらしい。
本の背表紙を眺めているだけでも、スズカさんの知的な興味の広がりが伝わってきた。
窓の外では、夕暮れが近づいていた。
霧雨は相変わらず降り続き、遠くの街並みをぼんやりと霞ませている。
高層階からの眺めは、まるで別世界を見下ろしているかのようだった。
建物の輪郭が霧の中でぼやけ、街灯が徐々に点り始めている様子は、どこか幻想的だった。
キッチンからは、お湯を沸かす音や、カップの触れ合う音が聞こえてくる。
それらの音が、この静かな空間の中で不思議と心地よく感じられた。
まるで、日常のメロディーのかのよう。
「お待たせ。」
スズカさんが、優雅な足取りでティーカップを載せたトレイを運んできた。
白い磁器に描かれた繊細な模様が、彼女の立ち振る舞いにぴったりと調和している。
トレイの上には、高級そうな茶葉の入った茶こしも添えられていた。
「紅茶にしたけど、いいかしら?」
「はい、ありがとうございます。」
テーブルの上に、二つのカップが置かれる。
「ダージリンよ。」
スズカさんは丁寧にカップを差し出した。
琥珀色の液体から立ち上る香りは、高級なお茶葉を思わせる芳醇な香りだった。
そこから立ち上る湯気。
それが窓の向こうの霧雨と重なって見えた。
だけど、その湯気には違いがあるように思えた。
それはそう…。
ピントが合っているのかどうか、とでも表現するしかない、奇妙な違い。
そもそも、この室内は、その全てが艶やかに質感があるような感じだ。
「いただきます。」
私は慎重にカップに手を伸ばす。
温かな感触が指先に伝わってくる。
カップを持つ手が少し震えているのが分かった。
一口飲むと、上品な香りと味わいが口の中に広がった。
私は紅茶に詳しくはない。
だけど。
これはいい高級品なんだろう、と分かった。
「美味しい、です。」
「よかった。」
スズカさんは嬉しそうに微笑んだ。
その表情には、無邪気さが混ざっているように見えた。
いつもの優雅なお嬢様の雰囲気とは違う、素直な喜びの表情。
それは仲良くなった私にしか、見せることがない彼女の一面なのかもしれない。
窓の外では、霧雨がガラスを優しく叩いている。
七階という高さのせいか、その音は地上で聞くよりもずっと繊細に響いていた。
街の喧騒は遠く、まるでこの空間だけが別世界のようだった。
スズカさんは、ゆっくりと自分の紅茶を口に運んだ。
リビングの空気は、紅茶の香りで満たされていた。
その香りは、徐々に室内に馴染んでいき、まるでスズカさんの部屋の一部になっていくかのようだった。
「ねえ、ハルナ。」
紅茶を一口飲んだ後、スズカさんが静かに話し始めた。
「この紅茶、どう?香りが良いでしょう?」
スズカさんは、自分のカップを優雅に持ち上げながら尋ねてきた。
「はい。とても良い香りです。でも、私、紅茶のことはよく分からなくて…。」
正直に答えると、スズカさんは楽しそうに微笑んだ。
「ダージリンは、紅茶の中でも特に香りを楽しむお茶なの。この透明感のある琥珀色も綺麗でしょう?」
スズカさんは、カップを窓際の光にかざした。
夕暮れの光を通して、確かに美しい色合いが浮かび上がる。
「まるで、宝石みたいですね。」
思わずそう言ってしまった私に、スズカさんは嬉しそうな表情を浮かべた。
「そうね。でも、この色は時間とともに少しずつ変化していくの。それもまた素敵なところだと思うわ。」
窓の外の景色が徐々に暗さを増していくように、カップの中の紅茶も微妙な色の変化を見せている。
その様子は、まるで時間そのものを映し出しているかのようだった。
「スズカさんは、紅茶に詳しいんですね。」
「ええ、好きなのよ。特にね。こうして、ゆっくりとお茶を飲みながら話すのって、素敵だと思わない?時間がゆっくりと流れていくみたいで。」
私はそう言われて、気がついた。
確かにそうだった。
この部屋で過ごす時間は、不思議なほどゆっくりと流れているように感じる。
どこか、特別な時間の流れ方。
「はい。本当にそうですね。」
私の言葉に、スズカさんは満足そうに頷いた。
「ねえ、ハルナ。これからも、こうして一緒にお茶を飲まない?」
その言葉には、単なる誘いを超えた、何か切実なものが感じられた。
まるで、永遠にこの時間を共有したいという願いのような。
私は小さく頷いた。
断る理由が見つからなかったというよりも、どこかで承諾したい気持ちがあったのかもしれない。
それは、この不思議な空間で紅茶を飲みながら過ごす時間が、どこか特別なものに思えたから。
窓の外では街灯が次々と灯り始め、霧雨の中で幻想的な光の点となっていく。
その光は、私たちの紅茶の色と不思議と調和していた。
「分かりました。」
「ありがとう、ハルナ。」
スズカさんの表情が、パッと明るくなる。長い黒髪が、その動きに合わせて揺れた。
蛍光灯の光を受けて、その髪が静かな輝きを放っている。
私たちは、しばらくの間、紅茶を飲みながら穏やかな時間を過ごした。
時折、スズカさんが本棚の本について語ってくれる。
哲学についての解釈や、オカルトについての見解。
その話題の広さと深さに、私はただ聞き入るしかなかった。
窓の外では夕暮れが近づき、霧雨の向こうで街の明かりが徐々に灯り始めていた。
オレンジ色の街灯が、雨に濡れた空気の中で幻想的な光を放っている。
高層階から見下ろす景色は、まるで別世界のようだった。
「もう、こんな時間…。」
私は不意に時計を見て、声を上げた。
気がつけば、随分と長い時間が過ぎていた。
スズカさんも時計を確認する。
「本当ね。送っていくわ。」
「いえ、一人で大丈夫です。」
「でも…。」
「大丈夫です。それに、もうすぐ家なので。」
私は立ち上がった。スズカさんも続いて立ち上がる。
その動作には、いつもの優雅さがあった。
でも、その表情には何か言いたげな色が浮かんでいる。
「また、来てね。」
玄関で、スズカさんはそう言った。
その声には、どこか切なさが混ざっていたような気がした。
まるで、私の存在が離れていくことに恐れているかのような。
その大げさな切なさのようなものが、私の心にも伝わってきた。
それは、どこか胸が締め付けられるような感覚になった。
私は頷いて、レインブーツを履き、レインコートを着る。
ハンガーから外したレインコートには、まだ少し湿り気が残っていた。
その雰囲気に飲まれてしまう前に、私は傘を手に取る。
「お邪魔しました。」
最後にそう言って、私は部屋を後にした。
エレベータに乗り、一階まで降りる間、さっきまでの不思議な時間が夢のように感じられた。
エレベータの階層を示す表示が、どこか非現実的に見えた。
マンションを出ると、霧雨は相変わらず降り続いていた。
街灯の明かりが、細かな雨粒の中で優しく揺らめいている。
その光は、まるでスズカさんの部屋の温かな明かりの名残のようだった。
私は傘を開き、自宅へと戻る道を進みだした。
後ろ髪を引かれるような感覚。
それと共に、先ほどまでの時間が、どこか特別なものに思えた
それは、スズカさんという存在が、私へもたらす不思議な色彩のようなものだといえるのかもしれない。
霧雨の中、私の足音が静かに響く。
街灯の光が、私の前で揺れていた。
振り返ると、スズカさんのマンションの窓に灯りが見えた。
七階の一つの明かり。
それは、この霧雨の街で、どこか特別な輝きを放っているように見えた。
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