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第七話
玄関のドアを閉めた音が、スズカさんのマンションの廊下に響いた。
静かな余韻が、まるで別れを惜しむように、ゆっくりと消えていく。
エレベーターに乗りながら、私は七階から一階まで降りていく数字を眺めていた。
蛍光灯の光を受けて、私の茶色い髪が不思議な色合いを放っていることに気がつく。
そのとても綺麗なエレベータの中が、どこか非現実的に見えた。
降りきったエレベーターから出ると、ロビーの大理石の床が、私の足音だけを反響させた。
さっきまでのスズカさんの部屋での時間が、まるで夢のように感じられる。
マンションを出ると、相変わらずの霧雨が降り続いていた。
私は傘を開く。
紺色の傘に、細かな雨粒が静かなリズムを刻み始めた。
もう辺りは暗くなりはじめていて、住宅地の街灯が次々と灯されていく。
その光が、雨に濡れた道路を不規則に照らしていた。
光の粒が、まるで私の混乱した思考のように、ちらちらと揺れている。
スズカさんの部屋で過ごした時間が、まだ鮮明に残っている。
高級なダージリンの香り、大きな窓から見下ろした街の風景。
そして、なにより彼女の存在。
それらすべてが、どこか現実離れした色彩を帯びていた。
スカートの裾が霧雨で少し湿っていく。
制服の白いセーラー襟が、首元でじっとりとしてきた。
こんな天気の日は、やっぱりレインコートを着るべきだったかもしれない。
新興住宅地の整然と並ぶ家々の間を、私は歩いていく。
白い外壁の家々は、この暗闇と霧雨の中で、まるで同じ型紙から切り取られたかのように均一に見えた。
それでも、そのどれかが私の家なのだ。
通り過ぎる家々の窓からは、温かな明かりが漏れている。
誰かの家族の団らんを想像させる光景。
けれど、私の中では、さっきまでスズカさんと過ごした特別な空間の余韻が、まだ強く残っていた。
自分の家が見えてきた。それは、私がいつも見ている光景のはずなのに、今日は少し違って見える。
まるで、誰かが用意した舞台装置のように遠くに感じられた。窓からは光が漏れていない。
カナはまだ帰っていないのかもしれない。
レインブーツが、濡れたアスファルトの上でかすかな水音を立てる。
その音が、この静かな住宅街の空気を震わせた。
玄関に着くと、私はしばらくポーチの前で立ち止まった。
傘から落ちる雨粒が、玄関の照明に照らされて小さな光の粒となって消えていく。
その様子は、スズカさんの部屋での記憶が、少しずつ日常へと溶けていくようにも見えた。
鞄から家の鍵を取り出し、玄関の鍵を開ける。
重たい音を立てて、ドアが開いた。
「ただいま。」
私の声が、静かな家の中に吸い込まれていく。
予想通り、返事はない。
薄暗い玄関に足を踏み入れる。
蛍光灯のスイッチに手を伸ばすと、突然の明るさに目が眩んだ。
見慣れた玄関の風景が、急に浮かび上がる。
カナはまだ帰っていないようだ。
両親は、いつものように仕事で遅くなるはずだ。
休日でさえ仕事に出かけている両親の存在は、この家の中で、いつも薄い。
濡れた傘を傘立てに差し込み、レインコートを脱ぐ。
先ほどスズカさんの家で見た、あの洗練された玄関とは違って、ここはごく普通の家の玄関だ。
それでも、私は丁寧にレインコートをハンガーにかけた。
…せめて、今日くらいは夕食を作ろう。
今朝は全部カナに任せっきりだったのだから。
妹のことを思いながら、私はそう決意した。
制服の裾から、細かな水滴が床に落ちる。
私は急いで着替えなければと思い、自分の部屋のある二階へと向かった。
階段を上がる足音が、静かな家の中に響いていく。
この家の中で、私一人の存在だけが、どこか浮いているような気がした。
それは、きっとスズカさんの部屋での不思議な時間の余韻のせいなのだろう。
早く日常の感覚を取り戻さなければ、と思いながら、私は自室のドアに手をかけた。
リビング。
キッチンに立って、私は夕食の支度を始めていた。
今朝、朝食を全部カナに作らせてしまったことが気になって。
せめて、夕食くらいは私が作ろうと思った。
まな板の上でキャベツを千切りにしながら、私は考える。
妹のカナのことを。
なぜだろう、さきほどスズカさんと一緒に帰っていたとき。
私は、どこか妹と顔を合わせたくないような気分だった。
そして、今もどこか複雑な心境が残っていた。
それは、スズカさんの家で過ごした不思議な時間の余韻が、まだ私の中に残っているからかもしれない。
あの特別な空間での出来事を、日常の中に持ち込みたくない。
そんな気持ちなのかもしれない。
包丁でキャベツを切る音が、静かなキッチンに響く。
その単調な音が、私の中にある違和感をより一層際立たせているように感じた。
キッチンの窓からは、相変わらずの霧雨が見える。
細かな雨粒が、外灯の光を受けて幻想的な光景を作り出している。
「ただいま!」
突然、玄関からカナの声が響いた。私の手が少し止まる。
「おかえり。」
私は、作業の手を止めずに返事をした。
キッチンまでカナの足音が近づいてくる。
廊下を歩く、その音が周囲に反響する。
「お姉ちゃん、夕食作ってるの?」
カナが、キッチンに顔を出した。
制服姿の妹。
黒髪の彼女は、私に似た容姿を持っているはずなのに、やっぱり私とは違う雰囲気だ。
「うん。今朝は、カナに任せっきりだったから。」
「私、お姉ちゃんの料理に作るの、好きだよ?」
カナはそう言って、キッチンに入ってきた。
私の横に立ち、手を洗い始める。
水の音が、静かなキッチンに響く。
私は横目で、カナの様子を見る。
いつもと変わらない妹のはずなのに。
私には、どこか展示品のように見えた。
まるで、完璧に作られた人形のような。
「お姉ちゃん、お手伝いする。」
「ありがとう。でも、今日は私一人で大丈夫だから。」
「えー、でも…。」
カナは少し寂しそうな表情を見せた。
その表情が、なにか妹ではないような、偽物の…。
どこか、作り物めいて見えてしまう。
私は、そんな自分の感覚に戸惑いを覚えた。
「じゃあ、私は着替えてくるね。」
カナはそう言って、キッチンを出て行った。
私は、その後ろ姿を見送る。
妹の姿が、照明に照らされていた。
私は気を取り直して、調理へと集中することにした。
そして、しばらくして。
テーブルには、私の作った料理が並んだ。
カナが作る料理ほど手の込んだものではないけれど、それなりに見栄えの良い夕食になったと思う。
「お姉ちゃん、いい匂い。」
着替えを済ませたカナが、リビングに戻ってきた。
私服姿の妹。
テーブルを挟んで向かい合って座った。
いつもの光景のはずなのに。
ああ、どういうことだろう。
今に限っては、まるで初めての出来事のように感じられる。
それを、気のせいだと。
半ば強引に、私はそう思い込んだ。
「いただきます。」
カナの声が、リビングに響いた。
「いただきます。」
私も、小さく呟く。
部屋の照明が、私たちの夕食を照らしている。
その光の下で、カナの存在だけが妙にくっきりと見えた。
周囲の家具や壁が、どこかぼんやりとしているのに対して。
「お姉ちゃんの料理、久しぶりな気がする。」
「そうかな?そんなに間が空いてたっけ。」
「うん。そういえば最近、私がずっと作ってたからかな?」
カナは箸を進めながら、そう答えた。
確かにそうかもしれない。
でも、私が最後に料理を作ったのはいつだっけ?
一昨日?
先週?
いや、いつからだろう?
私は思い出そうとするけれど、はっきりとしない。
テーブルの上には、私の作った夕食が並んでいた。
カナの朝食ほど丁寧ではないけれど、それなりに見栄えの良い献立。
…まあ、いいや。
私は思考を止めた。
「お姉ちゃん、今日は何かあった?」
カナが、いつものように話しかけてくる。
日常的な会話のはずだ。
「普通かな…。」
私は曖昧に答えた。
スズカさんと過ごした時間のことは、なぜだか話したくなかった。
それは、この空間には似つかわしくない出来事のような気がした。
「お姉ちゃんって、スズカさんとだけ仲がいいの?」
どうして?
スズカさんの名が?
突然のカナの質問に、私は動きを止めてしまう。
「え?」
「だって、他のクラスメイトとは、あまり話さないでしょう?」
カナの黒い瞳が、じっと私を見つめている。
その視線は、一切の嘘を許さないかのような。
まるで、私の心の奥まで見透かそうとしているかのようだった。
「ええ、ええと。そうね」
辛うじて、私はそう言った。
どうして?
どうして、カナが私のクラスのことなんて知っているんだろう。
私たちは学年も違うし、そもそもカナが私の学校生活を知る機会なんて、ほとんどないはずなのに。
だけども、その疑問を口に出すことができない。
それを聞いてしまうと、なにかが崩れてしまうような気がして。
「お姉ちゃん。」
「なに?」
「スズカさんのこと、好き?」
突然の問いに、私は動きを止めた。
スズカさんの家での出来事が、まるで走馬灯のように頭の中を巡る。
高級な紅茶の香り、あのマンションから見える景色、そして彼女の存在。
「え?どうして、そんなこと…。」
「だって、いつも一緒にいるでしょう?」
カナの声には、何か聞き出すというよりも。
まるで、私とスズカさんの関係について、何か知っているかのような。
そんな感じだった。
「そんなことないわ。ただの、友達よ。」
私は慌てて否定する。けれど、その言葉が嘘のように感じられた。
確かに、スズカさんとの関係は特別なものかもしれない。
でも、それは一体どんな特別なのか、私にも分からない。
「お姉ちゃん、私たちずっと一緒だよね?」
ぽつりと、カナがそう言った。
私は思わず顔を上げる。
テーブルも、壁も、窓も、すべてがぼんやりとしているのに…。
カナの存在だけが異様なまでにはっきりと艶やかにしている。
照明に照らされた妹の姿が、周囲から浮き上がって見える。
「…そう、ね。」
私は答えた。
そう答えるしかないような雰囲気だった。
「お姉ちゃん、ご飯が進んでないよ?」
カナの声で我に返る。
目の前には、半分も手をつけていない夕食が並んでいた。
夕食は冷めかけている。
立ち上る湯気が、まるで私の混乱した感情のように、揺らめいているようだった。
カナはじっと私を見ていた。
まるで、私の心の中を覗き込むような。
その視線に、私は居心地の悪さを感じた。
「…ええ、そうね。」
辛うじて、私はそれだけ口を出した。
そして、なんだか…。
このまま、カナと会話を続けることが、怖くなってきた。
何か大切なことが抜け落ちている。
だから、こうもチグハグになっているのかもしれない、と。
カナはいつも様子のままだ。
彼女が一言、二言と話しかけてくる。
そして、どこか艶やかな雰囲気に満ちていた。
だから、私は話を広げることが出来なかった。
どこか、チグハグな雰囲気のまま。
私とカナは、食事を淡々と続けた。
窓の外では、霧雨が静かに降り続いていた。
その音が、私たちの間の沈黙を埋めていく。
そして、一通り食べ終わる。
すると、カナはテーブルの上の食器を片付け始めた。
「お姉ちゃん、あとは私が片付けておくから、お風呂に先に。」
私が何か言いかける前に、カナは立ち上がった。
そして、キッチンへと向かっていく。
しばらくして、キッチンから食器の触れ合う音が聞こえてくる。
蛇口をひねる音。
水の流れる音。
それらの生活音だけが、しっかりとした現実のように感じられた。
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