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第八話
スマートフォンに設定した目覚ましアラームが鳴る前に、私は目を覚ました。
白い天井を見上げながら、私はベッドの中で横たわったまま、しばらく動かずにいた。
薄暗い天井には、カーテンの隙間から差し込む灰色の光が微かに揺らめいている。
その淡い光が作る影が、ゆっくりと形を変えていく。
そんな様子をじっと見つめているうちに、私は気がついた。
外から聞こえてくる、繊細な雨音の存在に。
それに気づいた私は、両手を伸ばした。
そして、毛布の柔らかな感触を確かめるように、ゆっくりと指を動かす。
その感覚が、今この瞬間の現実を一つずつ確かなものにしていく。
朝の静けさに包まれながら、私は天井を見つめ続けた。
消えたままの白い室内灯が、まるで無機質な目のように私を見下ろしている。
その圧倒的な現実感が、波のように押し寄せてくる。
そのとき、不思議な感覚に襲われた。
この瞬間だけが特別で、それ以外の全てが溶けて消えていくような。
それは夢と現実の境界線に立っているような、そんな奇妙な感覚。
その感覚から逃れるように、私は視線を天井から動かした。
窓の外では変わらぬ霧雨が降り続き、カーテンの隙間から覗く空は鉛色に沈んでいる。
その薄暗い光が、私の部屋全体をぼんやりとした陰影で満たしていた。
ああ、起きないと…。
私は、ベッドから上半身を起こした。
そして、窓にあるカーテンを開けた。
窓から見える外の光景。
そこは相変わらずの霧雨が降り続いていた。
ガラス越しに見える外の景色は、灰色の空の下でぼんやりとしていた。
細かな雨粒が窓ガラスを叩く音が、この朝の静寂に響くかのようだった。
クローゼットのドアハンガーから、制服を手に取る。
制服に着替えながら、自然と私は昨日のことを思い出していた。
スズカさんの家での出来事、そして夕食時のカナとの会話。
もう思い出したくはない。
だけども、私の意思とは別に…。
私の脳裏には、昨日の夕食時にあった違和感が浮かんでいく。
カナとの会話、その時の妙な雰囲気。
それらの記憶は、とても鮮明なカナの周辺と、どこか現実味が欠けているような雰囲気。
忘れようと思えば思うほど…。
その奇妙な記憶が私の心に強く、強く残ってしまうようだった。
…いや、おかしなことなんて何もないはず。
私は白いセーラー服の襟元を整えながら、そう自分に言い聞かせた。
気のせいだ。
そう、それだけのこと。
鏡の前で制服姿の自分を確認する。
ショートボブの茶色い髪が、朝の光を受けて柔らかく揺れている。
スカートの丈を確認し、靴下を整えた。
着替えを済ませ、部屋を出る準備をした。
教科書とノートの詰まったカバンを手に取り、部屋のドアを開けた。
廊下に一歩踏み出す。
曇り空からの薄暗い光が廊下に満ちていた。
その廊下を通り、1階への階段を下りていくと。
階下から物音が聞こえてきた。
フライパンの音、お皿の触れ合う音。
そして、小さな鼻歌。
いつものように、カナが朝食の支度をしているのだろう。
その気配は、この家の朝の日課として、すっかり定着しているはずだった。
しかし、その音の一つ一つに、違和感がある。
いや、気のせいだ。
私はそう思い込みながら、リビングへと進んだ。
リビングのドアを開ける。
室内の光。
それによって、リビングは明るい。
その光の中で、キッチンに立つカナの姿がくっきりと見えた。
「お姉ちゃん、朝ご飯の準備ができたよ。」
白いエプロンを着けたカナの後ろ姿。
黒髪が艶やかに輝いているかのような。
…いや、気のせいのはず。
私は、視線を朝食へと移す。
テーブルには、出来立ての朝食が並んでいた。
こんがりと焼けたトースト、黄身の鮮やかな目玉焼き、みずみずしい野菜のサラダ。
いつもと変わらない朝の光景。
でも、なぜだろう。
その日常的な風景が、まるでショーウィンドウの中の展示品のようにしか感じなかった。
カナの仕草も、テーブルの上の料理も、すべてが作り物めいて見える。
まるで誰かが丹念に作り上げた、完璧すぎる朝の情景のようだった。
「お姉ちゃん?」
カナの声で私は我に返った。
彼女の黒い瞳が、心配そうに私を見つめている。
「え?ええと。何?」
私は辛うじてそう答えた。
「もう、最近、ぼっとしていることが多いね、お姉ちゃん。」
「ごめん。」
私はカナにそう言って、謝る。
たしかにそうだ。
霧雨の音を聞きながら、私とカナは朝食を取り始める。
「そういえば、お姉ちゃん?」
「なに?」
じっと、カナがこちらを見ていた。
「お姉ちゃんって、スズカさんとだけ仲がいいの?」
唐突な質問。
呼吸が止まりそうなった。
「え?」
「他のクラスメイトとは話さないの?」
妹らしい素直な質問。
その元気な雰囲気は変わらない。
しかし、その瞳はまっすぐと私だけを見据えていた。
周囲が止まったかのように見えた。
「まあ、そうかな…。」
曖昧な返事をするしかなかった。
そう答える私をカナは。
黒い瞳でじっと見つめていた。
深く黒い瞳。
その視線には、私の心の奥底にある何かを、引きずり出そうとしているかのように。
…気のせい。
そう思い込むことでしか、私はそれに対抗することができない。
まだまだ、朝食の時間は続いていた。
だから、目の前にいるカナはいつものように話しかけてきていた。
けれども、私の意識はもはや、そこにはない。
私は何かを答えていた。
それは適当な答え。
その中で、気を紛らわせるために、私は周囲を見た。
いつものリビング。
いつものカナとの朝食。
そして、会話。
しかし、完璧すぎる情景に、どこか違和感が拭えない。
ああ、なんだろう。
これは。
私は深く考えることを辞めた。
すると、いつの間にか、朝食が終わっていた。
そして、いつものように。
私とカナは、学校へ向かう支度を始めた。
私の心はどこか、この現実から遊離しているかのような。
浮遊感があった。
だけども、この現実は夢ではない。
それは確実に現実なのだった。
それから、私は、カナと一緒に学校へと登校したはずだった。
いつもと同じように。
だけど。
どこか掴みようがないような、その記憶。
先ほどまで、カナと一緒に学校に登校して。
パステルカラーの傘。
カナの元気な姿。
彼女と昇降口で別れて、私はこの校舎に入ってきたはず。
その後、私は教室でスズカさんと話をして。
時間が流れて、今は授業中。
けれども、私の意識は昨日から続いている、何とも言えない違和感から離れなかった。
窓からは相変わらずの霧雨が降り続き、教室の空気をどこか重たく感じさせていた。
そう。
客観的には何も起きていない。
あるとすれば、私が感じる現実の質感のような…。
その違和感なのだ。
気のせい。
でも、本当に?
ふと、前を見る。
私の席の前では、スズカさんは真面目に授業を受けているようだ。
その長い黒髪が、時折窓からの光を受けて静かに輝く。
彼女の存在だけが、この教室の中でくっきりと見えた。
放課後の授業が終わり、教室から生徒たちが次々に帰っている。
私は机に向かったまま、今朝のカナとの朝食時の記憶を反芻していた。
教科書のページをめくる音も、私の耳には遠く感じられた。
ノートを取る手も、どこか他人のもののように思える。
「大丈夫?」
休み時間、スズカさんが後ろを向いて、私に声をかけてきた。
その切れ長の瞳には、いつもの優雅さの中に、何か深い懸念が潜んでいるように見えた。
昨日と全く同じ白いエプロン姿で、同じ言葉を繰り返すカナ。
その存在が、どこか展示品のように感じられて仕方がない。
「はい、ただちょっと…。」
私はそこまで話してから、気がつく。
どう説明したらいいのか分からない。
家族であるはずのカナの存在が、まるでガラスケースの中の展示品のように感じられること。
朝食を作る姿も、会話も、すべてが作り物めいて見えてしまうこと。
スズカさんは静かに私を見つめていた。
その視線には、まるで私の心の中を覗き込むような深さがあった。
一瞬の沈黙。
「そう?分かったわ。何かあったらすぐにいってね。」
「はい。」
スズカさんの優しい言葉に、私は頷いた。
その日は、どこかフワフワとしたまま、一日を過ごしていた。
一緒にいるスズカさんとの会話も、どこか別の現実のように思えた。
そうして時間が過ぎ、気がつけば放課後。
教室の空気が、少しずつ変化していく。
授業中の緊張感から解放された生徒たちの声が響き始める。
机を動かす音、カバンの開閉音、下校の支度をする音。
それらが重なり合って、放課後特有の雰囲気を作り出していた。
私は机に突っ伏すようにして、ぼんやりとしていた。
「ハルナ、まだ帰らないの?」
スズカさんの声に、私は机から顔を上げた。
ああ、そうだ。
今は放課後だった。
窓の外は薄暗い空が広がり、相変わらずの天気。
霧雨。
教室はすでに人が少なくなっていて、残った生徒たちも帰り支度を始めている。
蛍光灯の光が、次第に暗くなる外の景色と対照的に、より明るく感じられた。
「ええっと。」
私がそう声を上げると。
スズカさんは、心配そうな表情を向けてきた。
「何か悩み事かしら?」
「実は…。」
私は、少し考える。
そんな、私にスズカさんは急かしたりもせず。
私へ微笑みながら、次の言葉を待っているかのようだ。
「あの、ですね…。」
私は言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。
「最近、妹のカナと話していると。その…。どこか現実感がないのです。」
私のどこか混乱したような言葉ぶり。
けれど、スズカさんは、何も言わずに、じっと私の話を聞いていた。
「朝起きると、妹のカナが朝食を作ってくれて。でも、なんだか、その光景が展示品みたいに見えて…。」
ようやく言葉にした瞬間、これまで私の中で渦を巻いていた違和感が、より確かなものとして形を成していく。
自分でも気づかなかった不安が、スズカさんの前で形になっていく。
一瞬、教室に流れる空気が止まったかのように感じた。
スズカさんは一瞬、考え込むような表情を見せた。
「カナさん…?ああ、妹さん、ね。」
スズカさんは、自分に言い聞かせるように、それだけ口にした。
そのスズカさんの後に、どう言葉を続ければいいのか。
私には、分からなくなった。
会話が途切れてしまう。
「…あの。ごめんなさい、聞き方が悪かったわ。」
スズカさんは、私に謝る。
どうして、謝るんだろう?
私には分からない。
だけど、蛍光灯の光を受けて、スズカさんの黒髪が静かな輝きを放っていた。
私がそれに見とれていると、彼女は少し体を傾けて、私の顔をのぞき込むように質問を続けた。
「ハルナの家には、ご両親はほとんどいないのね?」
「ええ、そうです。」
私は反射的にそう答えた。
確かに両親は仕事で忙しく、家にいることは少ない。
でも、なぜ今そんなことを…。
「実施的に、一人暮らしみたいなものかしら?」
「えっと。私、妹のカナと二人で…。」
言葉が途切れる。
スズカさんは静かに、でもどこか確信めいた表情で私の言葉を聞いていた。
「ハルナ、その妹さんに会わせてもらえないかしら?」
突然のスズカさんの言葉。
「私も…確認したいと思うのよ。」
その言葉に込められた意味を、私は完全には理解できなかった。
けれど、スズカさんの優しい口調に、どこか安心感を覚える。
まるで、私の中にある漠然とした不安を理解してくれているかのような。
「…分かりました。」
私はそう答える。
この違和感を誰かに共有してほしいという気持ち。
それに、スズカさんの言葉には、どこか抗えないような説得力があった。
「ありがとう、ハルナ。」
スズカさんの表情が、パッと明るくなる。
だけど、本当にうれしくなったのは私だったのかもしれない。
そう、これで…。
最近の、どこか非日常的な日常が解決できるのかもしれないと。
そう感じた。
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