あなたと見る空は、いつも霧雨

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第九話  私はスズカさんと一緒に住宅地を歩いていた。  昨日から続く霧雨は、しつこく降り続いていた。  私とスズカさんは、レインコートを着て、傘を持っている。  スズカさんの持っている藍色の和傘は、この灰色の風景の中で艶やかな存在感を放っていた。 「ハルナ。このまま、ハルナの家へ向かうけども、大丈夫かしら?」  スズカさんが私に声をかけてきた。  それはどこか確認めいたものがあった。 「はい、平気です。」  私はそう答えた。  住宅地の通りを、私たちは静かに歩いていく。  両側に並ぶ家々の窓からは、明かりが漏れている。  その光が雨に濡れた道路に映り込み、ぼんやりとした光の帯を作っている。  私の紺色の傘に、細かな雨粒が静かなリズムを刻んでいる。  足元では、レインブーツが水たまりを踏むたびに、かすかな水音が響いた。 「あ、もうすぐです。」  私は前方に見える自宅を指さした。  新興住宅地の中でも比較的新しい木造二階建ての家だ。  窓から漏れる明かりが見える。  カナが帰っているのだろう。  玄関に着くと、私は鞄から家の鍵を取り出す。  スズカさんは静かに私の後ろで待っている。  その藍色の和傘が、玄関の照明に照らされて不思議な感じがした。 「ただいま。」  私が玄関のドアを開けると、すぐにリビングからカナの声が返ってきた。 「お帰りなさい、お姉ちゃん。」  カナの声には、いつもの明るさがあった。 「お帰り、カナ。」  私はそう返事をする。  そして、玄関で靴を脱ぎながら、深く息を吸った。  それから、レインコートを脱ぎ、傘を畳む。  横目でスズカさんを見ると、彼女は優雅な仕草で和傘を畳んでいた。  その姿は、この家の日常的な空間の中で、まるで別世界の住人のように見えた。 「お姉ちゃん、友達が来てくれたの?」  カナの声が近づいてくる。  廊下に響く足音。  そして、白いエプロン姿の妹が現れた。 「スズカさん、こちらが妹のカナです。」  私はカナを紹介しながら、スズカさんの反応を窺う。  スズカさんはカナをじっと見つめていた。  その眼差しには、何かを見極めようとする意志が感じられる。  まるで、カナの存在そのものを確かめるかのように。  この瞬間、時間が止まったかのような感覚があった。  思わず、私は息を呑んだ。  しかし、それはつかの間のことだった。  すぐにスズカさんの表情は、穏やかな微笑みへと変わった。 「初めまして、カナさん。いつも、ハルナのことを支えてくれてありがとう。」  スズカさんの声は、優しく響いた。 「こちらこそ、お姉ちゃんをいつも助けてくれてありがとうございます。」  カナは丁寧にお辞儀をしながら、そう答えた。  その態度は、とても自然で、違和感など全く感じさせない。  むしろ、完璧すぎるほどの自然さだった。 「いいえ、私も楽しいからハルナと一緒にいるのよ?」  そう言ったスズカさんの瞳には、いつもの優雅さの中に、何か真剣なものが宿っていた。 「ここで立ち話もなんですから、とりあえず…。リビングへどうぞ。」 「そうね。そうさせてもらおうかしら。」  カナとスズカさんの会話で流れが進んでいく。  私も、それに従う。  廊下を進んでいく。  カナが電気をつけているので、明るい。  まるで、ここが現実ではないような、浮遊感があった。 「では、ここでお待ちください。お茶でも入れてきます。」  カナはそう言って、キッチンへと向かおうとした。 「あっ、私も…。」  私はカナを止めようとした。  せめて、私も一緒に、お茶でも準備しないと。 「お姉ちゃん。お客さんと一緒に、お話しでもして待ってくれれば、いいよ?」  柔らかにカナはそう言った。 「…ええっと。」  私はなおも食い下がる。 「お姉ちゃん!ここは私が準備するから…。」  有無を言わせない様子で、カナはそう言った。 「じゃあ、ごめん。お願いするね、カナ。」 「はいはい!」  元気よく、カナがそう答える。  そして、キッチンへカナが向かっていった。 「よくできた妹さんね?」 「ええ、感謝しています。」  スズカさんにそう答える。  ただ、今回、スズカさんがここに来た理由は…。 「それはそうと。」  スズカさんは、こちらをじっと見ていた。  その姿に、思わず私は背筋を伸ばす。 「ハルナの言っていたことはこれから、分かると思うわ。」 「はい。」  私とスズカさんはそれから、リビングにあるテーブルで向かい合った。  私の家にスズカさんがいる、それは新鮮なことだったけれど。  ただ、そこで私たちは、いつもと同じような怪談話をしていた。  しばらくすると、キッチンからカナが戻ってきた。  白いエプロン姿で、トレイを両手に持っている。  そこには、上品な磁器のティーポットと、湯気の立つカップが載せられていた。 「お待たせしました。紅茶です!」  カナの声は明るく弾んでいた。  でも、その明るさが、どこか作られたもののようにも感じられた。  そんな様子のカナは、ティーポットとカップをテーブルへと置いていった。 「ありがとう、カナさん。」  私の前に座っているスズカさんは、静かにそう答えた。  その声には、何か試すような響きが含まれているように思えた。  カナはお茶を注ぎ始める。  琥珀色の液体が、静かにカップへと注がれていく。  その音だけが、妙にはっきりと耳に届く。  窓を叩く霧雨の音が、その様子を見守るかのように響いていた。 「私たち、仲良くしましょうね?」  カナはそう言って、微笑んだ。  その笑顔は、いつも見ている妹の笑顔のはずなのに。  今日は違って見える。  まるで、完璧に作られた人形の表情のように。 「そうね。」  スズカさんの返事は短かった。  その瞳は、じっとカナを観察しているようだった。  私は黙ってその様子を見ていた。  目の前で交わされる会話が、まるで舞台の上の演技のように感じられる。  それには台本があって、役者がいて、舞台や小物が用意されている。  本当とは違う、全てが作られたもの。  でも、それを指摘することはできなかった。  そんなことを言えば、今のこの奇妙で不思議な均衡が壊れてしまいそうで。 「お姉ちゃんとスズカさんは、本当に仲が良いんですね。」  カナは、お茶を注ぎ終わると、そう言った。  その言葉には、どこか意味ありげな響きが含まれていた。  私は、カナの言葉に戸惑いを覚える。  確かにスズカさんと私は仲が良い。  でも、それをカナに指摘されることに、どこか違和感があった。  …いや、そもそも。  どうしてカナはスズカさんのことを知っていたのだろう?  今まで、私がカナへスズカさんのことを話題にすることは、なかったはずなのに。 「私たち、仲が良いのかしら?」  スズカさんが、私のほうを見ながら、意味ありげな口調でそう言った。  その声には、いつもの優雅さの下に、何か鋭いものが潜んでいるように感じられた。 「ええ、そうですよ。お姉ちゃんは、もう、スズカさんのことしか見ていないみたいですから。」  カナの言葉に、私は思わず息を呑んだ。  その言葉には、どこか非難めいたものが含まれていたような気がする。  いつもの明るい妹の声とは違う、何か冷たいものを感じた。  窓の外の霧雨が、一層強くなったように見える。  ガラスを伝う雨粒が、室内の照明を受けて不規則な影を作り出している。 「私たち、ずっと一緒なのに。」  カナの声が、突然トーンを変えた。  その言葉が、リビングの空気を凍りつかせるように響いた。  スズカさんの表情が、一瞬だけ強張った。  その変化は、ほんの僅かなものだったけれど、私には確かに見えた。 「ずっと一緒?」  スズカさんは、静かにそう問いかけた。  その声には、何かを確かめようとする意図が感じられた。 「そう。私たちは、ずっとずっと一緒なの。」  カナの声が、少しずつ変化していく。  その調子には、どこか異質なものが混ざり始めていた。  まるで、別の存在が彼女の中から顔を覗かせ始めたかのように。 「お姉ちゃんとずっと一緒なの。ずっと、ずっと…。」  カナの言葉が、異様な反響を伴って響く。  その声は、もはや妹のものとは思えないほど変わっていた。  エプロン姿の彼女の姿が、照明の下で妙に浮き上がって見える。  私は、思わず身を縮めた。  目の前で起きていることが、現実とは思えない。  でも、確かにそこにカナはいて、そして、おかしな様子で言葉を繰り返している。 「カナさん。」  スズカさんの声が、静かに、でもはっきりと響いた。 「もう遅いわ。そろそろ、お開きにしましょう?」  その声には、どこか強い意志が込められていた。  カナが固まった。  ピタリ、といった様子だ。  完全に硬直していた。 「……ええ、ああ。そうですね。」  カナは、そこでふと自分を取り戻したように。  そう声を出した。  すっかりいつもの様子を取り戻していた。  たった今まで、異様な様子で言葉を繰り返していた妹とは思えないほど、自然な振る舞いに戻っている。  私はリビングのソファに座り、カナの淹れたお茶を前にして、なんとも言えない気持ちを抱えていた。  窓の外では霧雨がますます強くなり、ガラスを打つ音が不規則なリズムを刻んでいた。  その音が、異様に気になった。 「それじゃあ、楽しい時間だったわ。ねぇ、ハルナ?」  スズカさんは立ち上がりながら、私にそう声をかけてきた。 「…へえっ?ええ?」  私は思わず、変な声を出してしまう。  周囲の二人は、すでに立ち上がっていて。  これからスズカさんは帰る雰囲気。  慌てて、私も立ち上がる。  目の前で起きたことが、まるで夢のようで、でも確かに現実だった出来事。  その感覚に戸惑いを覚えながら。 「紅茶、ごちそうさまでした。」  スズカさんは丁寧にお辞儀をしている。  いつもの優雅さのある雰囲気だ。 「いいえ。こちらこそありがとうございます。」  カナは丁寧に対応していた。  どこか社交儀礼のような挨拶をし終わると、リビングを抜ける。  私たちは、玄関へと進む。  玄関。  スズカさんとカナがいる。  それは、いつもの日常の中にある、非日常的な光景。  レインコートを着るスズカさんの姿を見ながら、さっきまでの出来事が本当にあったのか、疑問に思えてくるような。 「また、来てくださいね?」  カナは、さっきまでの異様な雰囲気が嘘のように、普通の妹の様子で答えた。  白いエプロン姿で、愛らしく微笑んでいる。 「ええ。また来るわ。」  靴を履き終えたスズカさんも、そう答えている。 「ハルナ。」  藍色の和傘を手にしたスズカさんが、最後に私の名を呼んだ。 「また、会いましょう。」  その言葉には、どこか特別な意味が込められているような気がした。  まるで、私に何かを約束するかのように。 「はい。」  私はそう答えることしかできなかった。  そのまま、スズカさんは、玄関を出た。  私は玄関に立ったまま、スズカさんの後ろ姿を見送る。    玄関のドアが閉じられた。  スズカさんはもう見えない。  それはどこか、これまでいた彼女の存在が断ち切られたかのような。  そんな重々しい感じすらした。  閉じられたドアを見つめながら、私は立ち尽くしていた。 「お姉ちゃん?」  背後からカナの声がした。  振り返ると、いつもの妹が立っている。  その周囲、蛍光灯に照らされた玄関の空間が、どこか現実感を欠いているように感じられた。 「お風呂にする?それとも夕ご飯?」  その言葉は、私たちの日常でよく交わされる会話。  先ほどまでの異様な雰囲気が嘘のように、そこにはいつもの妹の姿があった。  窓の外では、霧雨が静かに降り続けている。  その音だけが、この不思議な空間で、確かな現実として響いていた。
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