覆水盆に返らず

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覆水盆に返らず

「ま、ま、待って!待って!」 若い男の人が走り込んできたの。  膝に手を当て、ゼーゼー言ってるあの人は、時々来ては先輩犬を勝手にジロウって呼んでた人だ。 「引っ越しました!だからジロウ、一緒に帰ろう?な?」 店員さんに話してたのに、最後は先輩犬に話しかけてた。  先輩犬は今度は嬉しさで泣いてた。 人間には見えないかもしれないけど、ポロポロ嬉し涙が流れてた。 「なんだ、ジロウ、安心したのか?そんなに泣くなよ」  この人間には見えたみたい。 メガネを取って腕でゴシゴシしながら、人間も泣いてたけど。 と、まあ、ジロウさんは間一髪、ドラマみたいに救われたけど、私はどうかしら。  いつまでたっても可愛いって言ってくれないから、ちょっと拗ねた気持ちですんってしちゃってたら、目の前のおじさん、ふ~って溜息ついてすたすたと歩いて行ってしまった。 「あ、……」  ちょっと後悔。いや、だいぶん後悔。 もっと愛想よくすれば良かった。最後のチャンスだったかもしれないのに。  その夜は眠れなかった。生死の境にいるのわかってたのに、変なプライド持っちゃった。もっとなりふり構わず可愛いアピールをすればよかった。  覆水盆に返らず。だわ。 本気の、マジで。  翌朝、 まぶしい、朝の光じゃないのよ、蛍光灯が点灯したの。  水が変えられ、餌が放り込まれた。 扱いがどんどん雑になっていく気がするのは僻み根性からかしら。    今日は平日。人はそこそこだけど、週末ほど「よし!犬を買おう!」って意気込みを見せる人間は多くない。  
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