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婚約者
最寄りの駅はいくつもの線が乗り入れている大きい駅で、そのせいか、クリスマスツリーはばかみたいに大きくて、駅中クリスマスの派手な飾りだらけだ。目がチカチカする。
周りを歩いている見知らぬ多くの人々が、寒いのに浮き足立っているように見えるのは、クリスマスの雰囲気のせいなのか?それとも俺のひねくれた嫉妬?
「あっ!おいおい、きみ!」
後ろのほうから大きいダミ声が聞こえてきた。
この雑踏で『きみ』って呼んで、返事する奴、いるのかよ。名前で呼べよ。まあ、俺には気安く呼ばれるようなおっさんの知り合いはいないから、関係ないな。
「待てよ、きみ!」
いきなり腕を捕まれ、あまりにも驚いた俺は、反射的にその手を振り払った。防衛本能とでもいうんだろうか。
「なんだよ、おっさん!」
振り返って睨みつけると、六十歳前後らしき、白髪混じりのおっさんがニコニコ笑っていた。
「石川君。久しぶり」
スーツの上に着古したベージュのコートを羽織った、いかにも疲れ気味のサラリーマンは、俺を『石川君』と呼んだ。
誰?石川君て。そして誰?このおっさん。
「保奈美との結婚の挨拶に来てくれた時以来じゃないか。全然顔出してくれなくて」
保奈美?結婚の挨拶?あ、なんか思い出してきた……かも。
確か、二月頃のことだった。
俺はある女性に、婚約者のフリを頼まれた。バイトだ。
彼女の実家に一緒に行き、両親の前で
「結婚させてください!」
と言うだけで二万円。一食おごり付き。
俺はそういう単発の?バイトを何件もやっている。
結婚式で友人代表の役。パワハラ彼氏と別れるための新しい彼氏の役。認知症が悪化して先が短い祖母に会いに来た孫の役。
弁護士役などは犯罪になりそうだから引き受けないが、依頼者を喜ばせるための役はたいていやる。
本業、というか、夢……は役者。俳優。しかし全然売れない。もう三十を超えた。叶わないかもしれない。
「顔は美しいんだけどなあ。芝居は全然うまくならないなあ」
ほとんどすべての現場でため息をつかれ、エキストラと変わらないような役しかつかめない。
そんなわけで、常に貧乏な俺は、単発のバイトで食いつないでいる。
そうだ。あのときの。彼女の父親だ。
「あ……お、お父さん。ご無沙汰してすみません」
瞬間で変身。俺は彼女の両親の前で緊張している婚約者。
走馬灯のように、記憶は十ヶ月前へ飛ぶ。
彼女は三十二歳。両親に結婚はまだか、と催促される日々に悩んでいた。
「特に母親がね。孫を早く抱きたいんですって。私は子供を産むマシンじゃないっての!」
打ち合わせで会った日。彼女は荒れていた。
「古い世代はね、マッチングアプリで知り合ったなんて受け入れられないの。ネットで知り合うなんてのが危ない出会い系だった時代に、結婚適齢期だったから。だから仕事の取り引き先の人ってことで。いい?」
「仕事のこと訊かれたら、どうすればいいんですか?」
「できるだけ私が話を変えるようにするけど……営業、とか」
営業?やったことない役だけど。まあいいか。
「一年後の二月。『やっぱり別れた、まだ婚姻届は出してなかった。傷ついたから、もう一生誰ともつきあわない』って両親に言う。あなたには迷惑はかけない」
コーラ、ポテト、コーラ、ポテト、コーラ、ポテト……。
ストレスを発散させるためだけに食べているような彼女を前にして、俺は呆然としていた。
早送りかよ……。金のない俺には、こんなもったいない食べ方はできないな。
「石川君。保奈美とは仲良く暮らしてるの?」
「え?あ、はい。大切にしています」
そうか、まだあれから一年経ってない。ということは、結婚前提の同棲期間中って設定だ。
「そうか。ありがとう。保奈美は気が強いから大変だろう」
「いえ。え……まあ」
おっさんに引きずられるように入ったコーヒーチェーン店は高いことで有名で、実は俺は人生で二度目だ。前回もバイトの打ち合わせかなにかで、相手のおごりだった。今回もおっさんがお金を出してくれた。
コーヒーの上に生クリームがのってて、その上にチョコレートまでかかってる。
ひと口飲んで、身体中のコリがバキバキほぐれていくような感覚を覚えた。
生クリームなんて、いつぶりだろう。こんな甘くて苦くて幸せな味。俺が普段食べる安い店の丼より高いコーヒー。
「あ、俺、普段こういう店に来ない人間なんで……なんか慣れてなくて。すんません」
俺は何を言い訳しているんだ。
しかしおっさんはニコニコ笑っていた。
「全然。私も久々に入ったよ」
それきり沈黙が続いた。
話すことが……ない。ない、というより、ほぼ、知らないおっさん。
「石川君はさ、本名はなんていうの?」
幸せのコーヒーの生クリームがほぼなくなってしまったカップを何度も覗き込み、俺の気持ちはしぼみ始めていた。だからおっさんの不意打ちに瞬間で反応できなかった。
「あー……あ?」
本名?
「きみが婚約者のニセモノだってことは、最初からわかっていたんだ」
ちょっと待って。このおっさん、なに言ってる?
「あの……お父さん?」
ダメだ。思考が追いつかない。
「もう隠さなくていい。別に警察に突き出したり、弁護士を立てて訴えたりしない」
「いや、あの……お父さん、なにか勘違いを……」
どうする?こんな展開聞いてない!とにかく誤解を解いて……って誤解じゃないけど。彼女の連絡先は……ああ、報酬をもらって、すぐ消したんだっけ。
「私の娘は『保奈美』じゃない。『香織』だ」
俺はすべて白状した。
こんなにうなだれること、オーディションで落ちたとき以上だ。
「二月に挨拶に来てくれた時にね、すぐにわかったよ。きみの目には強さが足りなかったからね。一人娘を奪っていく男の覚悟が、きみからは感じられなかった」
「……そうでしたか」
俺がオーディションで落ちまくっているのは、そういうことだったのかもしれない。気持ちの入れ方が甘い。役の解釈が浅い。上手い演技、上手い言い回し。そんなことばかりに気を取られて、役の中の人に対して気持ちが入っていない。
「さっき、駅のコンコースで俺を捕まえた時、『保奈美の結婚の挨拶』って仰ったのは……」
「ああ。あの時の、ニセモノの婚約者だって、すぐにわかったから。まあこれは答え合わせだな」
うわー。怖い。人って怖い。
俺は今更ながら、このバイトの恐ろしさを感じた。
「すみませんでした。あの、できれば……保奈美、じゃなくて、香織さん。香織さんに内緒にしておいてもらえませんか?俺、報酬を返す余裕がなくて……」
俺が肩をすぼめ、背中を丸めて謝る姿を見て、おっさんはクスクス笑った。
「大丈夫。言わないよ。どうせ香織が強くきみに頼んだんだろう」
この父親は、とぼけたフリをして、よく見ているし、よく理解している。自分の娘がバイトを雇って、親を騙すことくらい、軽く流せるのか。
「香織がきみに婚約者のフリを頼んだ理由、知ってる?」
おっさんはポロッと一筋、涙を流すと、俺にバレないように、サッとスーツの袖で涙を拭った。
「いいえ。事情には踏み込まないことにしてるんで」
「そうか……」
おっさんは窓際の客を眺めた。二十代くらいの女性二人が楽しそうに話し込んでいた。
「香織は女性と長いこと、一緒に暮らしてるんだ」
「ルームシェアですか」
「いや、たぶん違う」
俺は少し考えて、ああそういうことか、と思った。
「香織が女性を好きでも、別にいいんだ。好きな人と共に暮らせるなんて、これ以上幸せなことなんてないと思うんだ。ただね、子供は望めない。私の妻……香織の母親は、香織が産んだ孫がほしいんだ。切ないものだよ。妻は香織の分身のような孫がほしい。それは香織がかわいくて仕方ないっていう、愛情の表れなんだ。香織も母親の愛情はわかっているのに、叶えてやれない」
俺はなにも言えなかった。ただ、あの日コーラとポテトをガシガシ食べ続けていた彼女の、機嫌の悪い顔を思い出していた。
不意に涙が込み上げたおっさんと、あの時の彼女の目はとても似ていた。
おっさんと俺は店を出た。
同時に
「さむっ」
と首をすぼめた。
駅のコンコースはどうして風が強いのだろう。
「じゃあ、石川君」
おっさんは右手を出してきた。
俺は反射的におっさんと握手してしまった。
「俺、本当は『石川』じゃ」
おっさんは俺の言葉を遮るように、顔の前で掌を振った。
「言わなくていい。きみ、役者を目指してるんだろ?名前を聞いちゃったら、気になって、毎日検索しちゃうからさ。いつかきみが役者として成功したら、どこかで観られるんだ。それを老後の楽しみにするよ」
おっさんは相手を泣かせる術まで身につけていた。
「じゃあ石川君。元気で」
「お父さんも。お元気で」
俺達はそれぞれ、別の駅の出口へと向かった。
一度だけ、俺は振り返った。
大きなクリスマスツリーの脇を歩いていくおっさんの背中は、とても小さかった。
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