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夏の汗
「っくそ、ふざけるなよ」
俺に背を向けた悠さんが忌々しげに呟いた。
「黙っていつものアイスコーヒー持って来いっての」
「もうないって言ってるでしょう」
すかさず言い返すとぎろりと睨まれた。気が立っているらしい。ため息が出る。
出番の十分前だ。今日は真夏の野外ロックフェスに参加する。
ロックフェス、だけれども、全曲クラシックの選曲だ。悠さんなりの反骨精神らしい。
問題なのは、野外、ということだ。連日蝉が大合唱し、天気予報で猛暑が叫ばれる時期になった。日陰とは言え、演奏時の気温は想像もしたくない。そんな中で演じるのだから、せめて水分補給くらいはしっかりさせておきたいのが俺の気持ちだ。
しかし、予想以上に暑かった。十分に準備しておいたはずのアイスコーヒーはあっという間になくなった。
特設ステージに併設されたこの楽屋は、冷房が壊れているのかと思うくらい暑くて、ドアを開け放してわずかな涼をとっている。だから、喉が渇くのも分かる。
「はい」
「……、んだよ」
「麦茶です」
「だァから!!」
がたり、と椅子を鳴らして立ち上がった悠さんは勢いよく俺に迫る。
「俺は! 冷てぇコーヒーが!! 飲みてぇんだよ!!」
間近に見る悠さんの眉は、片方が、ひく、と引きつっている。これは相当苛ついている。
「飲み物はこれしかないんです。それに、自販機まで行っていたら、スタートに間に合いません」
「正論はいらん、誠意を見せろ」
ああ、久しぶりに超弩級のワガママだ。まったく、どうしろっていうのか。
「なぜコーヒーがいいんですか? この麦茶だってよく冷えてますよ」
「あのなぁ。俺がいつも本番前にコーヒー飲んでんの、知ってるだろ?」
それは知っている。だから、いつも好みの豆で煎れたコーヒーをたっぷり保温ボトルに入れて、会場に持ち込むのが俺の仕事だ。
「コーヒーがいいんだよ。カフェインを摂りたいの、俺は。頭ん中はっきりするし、気分も整うし。アレがないなら俺は弾かねぇぞ」
うーん……。この麦茶が、紅茶、せめて緑茶だったら。ゴリ押しで納得させたのに。
「か、」
「あぁ?」
悠さんが至近距離で凄む。ノースリーブのシャツから出た肩に、汗が滲んでいるのが見えた。
「カフェインの効果時間は、約四時間です。持ってきたアイスコーヒーを飲んだのは二時間前ですから、まだ効いてます」
「あのなあ! 今の俺が、気分良さそうに見えるか? 効いてねぇっつんだよ!」
ああ、これはクライマックスだ。怒りが最高潮に達してる。
どうしよう? 時計を見る。時間だ。
俺は怒り狂う怪獣の胸を、とん、と強めに押した。
不意をつかれた悠さんの背が壁につく。
怒りを含んだその漆黒の瞳を見つめながら、ごくごく間近に近づいて、ゆっくりと笑みを唇に乗せた。
「カフェインなんかより刺激的なもの、あげましょうか。刺激強すぎて乱れちゃうかもしれませんけど」
悠さんは口を開いたけれど何も言葉にならず、ただ視線は俺の唇を追っていた。
「ねえ?」
時間がない。促すと、悠さんは拘束から解き放たれたように動いた。
「……ッ」
俺の唇に、噛みついた。
「小原さん出番で、す……」
タイミング悪く楽屋に来たスタッフが、俺達を見て硬直している。修羅場だとでも、思われただろうか。
悠さんは無言でスタッフの脇を通って出ていった。
傍から見たら堂々と、実際は感情を押し殺した無表情でステージを横切った悠さんは、ピアノに向かうなり、会場に雷を落とした。
終了後にSNSを見たら、ブチ上がった、最高だった、と感想が大量に発信されていた。ジュ・トゥ・ヴーでブチ上がるとは……? 悠さんが天才なのか、特殊な訓練を受けた観客だったのか。やはり俺にはロックは解らない。
後に悠さんは『コーヒー欲しいって言ったらエネドリ飲まされた』と語った……。
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