6人が本棚に入れています
本棚に追加
02話「距離が縮まる時間」
包丁の音がキッチン台に小気味よく響く中、一つだけ場違いな音が混ざった。
「うわっ、手、手、危ないわ!」
その声に遥が振り向くと、奏多が慌てて包丁を置いていた。隣で見守っていた主婦の女性が溜息交じりに笑っている。
「奏多くん、だから何度も言ったでしょ。野菜はちゃんと抑えて切らないと危ないわよ」
「いやー、気をつけてるつもりなんですけどね……包丁って難しいですね」
「難しいじゃないわよっ。今時、小学生でももう少しマシに切れるわ」
主婦の的確な指摘に周囲の生徒たちから笑い声が上がる。奏多は頭をかきながらと素直に謝罪を行うと、さらにその場の空気をさらに和ませた。
「篠原さん、大丈夫ですか?」
遥が近づき奏多の持っていた包丁を受け取る。そして、軽くため息をつきながら野菜を一つ手に取り、丁寧に包丁を動かしてみせる。
「こうやって、刃を野菜に滑らせるように切るのがコツです。あと力任せではやく、しっかり安定させるのが大事ですよ」
「あ、なるほど!」
奏多はその様子を目を輝かせて見つめていたが、その視線がいつの間にか遥の顔に向けられていることに気づいた遥は、少しだけ表情を曇らせた。
「……あの。じっと見られると、集中できないです」
「あ、すみません。先生、やっぱり格好いいなって思って、つい」
奏多の無邪気な褒め言葉に、遥は思わず苦笑するしかなかった。
料理教室の後片付けは、自然と生徒たちが分担して行うのが常だった。
しかし、ちらほら生徒たちが帰宅する中、奏多は未だに滞在をしている。
「先生、手伝いますよ」
そう言って、奏多はシンクに積まれた洗い物に手を伸ばした。
「っ、大丈夫ですよ。篠原さんは、今日は初めてで疲れているでしょう?」
「いやいや、俺、体力には自信がある方なんで! ……それにまだ残ってれば先生と話せる時間が増えますから」
軽い調子で言われたその言葉に、遥は少しだけ眉をひそめた。
「もうっ、そんな理由で無理しないでください。片付けは慣れていますから」
「無理じゃないです。本気です!」
奏多は冗談めかした明るい声とは裏腹に、視線だけは真剣そのものだった。その眼差しに、一瞬遥は言葉を失う。
「先生って、料理を誰かのために作ったりすることあります?」
何気ない風を装った質問だったが、その意味するところを察した遥は、少しだけ間を置いてから答えた。
「そう、ですね。……昔はそういうこともありました。でも、今は自分のためがほとんどですね」
「へぇ……。誰か、特別な人に作ることもあったんですか?」
彼の無邪気な問いかけに、遥は思わず曖昧に笑って誤魔化す。
「それは企業秘密です。ほら、洗い物を終わらせて帰りましょう」
「えー、そこ大事じゃないですか!」
軽口を叩きながらも、奏多の視線には『もっと知りたい』という気持ちがはっきりと見える。
そのまっすぐな眼差しに、遥は少しだけ心を揺らされるのだった。
最初のコメントを投稿しよう!