03話「あの日から」

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03話「あの日から」

 まだ高校生だったあの日、あの瞬間のことを奏多は忘れたことがない。  兄に誘われて何気なく入ったカフェ。  夕方の店内は混み合い、スタッフたちが忙しそうに行き交う中、テーブル席に腰を下ろしていた奏多は暇そうに店内を見渡していた、 「――お待たせしました。アイスコーヒーとオレンジジュースでお間違いないですか?」  ふいに耳に入った落ち着いた声に、奏多は顔を上げた。  目に映ったのは当時の遥だった。  茶色い髪がわずかに汗で額に張り付き、少し早足で動いていたせいか、額にはうっすらと疲労の色が見えた。それでも、奏多に向けられた笑顔には何一つ陰りがない。 「……あ、すみません。オレンジジュースの氷、少し溶けてしまったかも……急いで取り替えて」 「大丈夫です! このままでも飲めますので」  忙しい中の僅かな気遣いに奏多の心臓が小さく跳ねた。  ――この人、すごい……。  店内に鳴り響く呼び出し音や客と店員の声音に交差され、奏多は反射的に断りを入れる。 「っ、承知しました。また何かございましたらお呼びください。ごゆっくり、どうぞ」  ただの接客だと頭ではわかっている。それでも彼のほんの一瞬の笑顔と、静かで丁寧な仕草が、妙に胸に残った。  遥が去った後も、奏多は無意識にその背中を目で追う。 「おい、ジュース飲まないのかよ」  隣の兄の声にハッとして奏多は慌ててストローを口に運んだが、遥の姿が視界から消えてしまったことになぜか寂しさを感じた。  その帰り道、ふと兄に尋ねた。 「さっきの人、誰? 飲み物届けてくれた人」 「え? 天宮のこと? まあ、俺のクラスメイトだよ。真面目で頼れるやつだけど、あんまり笑わないっていうか、接客向いてなさそうって思ったけど案外イケてたな」 「ふーん……」 「ははは、今度からかってやろうーっと」 「……ほどほどに、ね」  ――いつか、もう一度会いたい。  その瞬間、遥に恋をしていたことを奏多はまだ知らなかった。 ☆ ☆ ☆  料理教室のキッチンから漂う出汁の香りが、奏多を現在へと引き戻した。 「――もう奏多くんってば、まーた鍋を見ないで天宮先生のことばっかひ見つめて。本当に先生のこと好きなのね」  主婦が笑いながら言うと、奏多はすぐに口を開き同意する。 「もちろんです! 先生と結婚するためにここに来たんですから!」  冗談めかしたその言葉に、生徒たちが笑う中、遥は眉をわずかにひそめた。 「篠原さん、大袈裟なことを言わないでください。他の生徒さんが困りますよ」 「いやいや、大げさじゃないですよ! 俺、本気なんで」  笑顔を浮かべながらも真っ直ぐな目。その視線に遥は一瞬たじろぎ、そっと視線を逸らした。 「……とにかく、調理に集中してください。今日は野菜を焦がすのは避けましょう」 「了解です!」  奏多の返事は軽快だったが、その裏に隠された本気が透けて見えるようで遥の胸の中が少しずつざわつき始めていた。  教室終了後、片付けが終わる頃になっても奏多はまだ教室に残っていた。 「先生、ちょっと話してもいいですか?」  奏多の声に、遥は洗い物を終えて振り返る。 「……何かありましたか?」 「先生、俺、本当に先生が好きです」  不意打ちの告白に、遥は思わず動きを止めた。 「また君は……篠原さん、そういうのは軽々しく言うものじゃないですよ」 「軽々しくなんか言ってません。何度も言ってますが本気です!」  遥が何か言おうとしたが、奏多の目に映る真剣さに飲み込まれた。自分を見つめるその視線には迷いも遠慮も一切感じられない。 「……これは私の勝手な受け取り方ですが。君の好きはその……ライクではなく、ラブという意味ですよね?」 「そうです! 俺は先生のことが結婚したいって自然に思うくらい大好きなんです」 「……」 「俺、料理を習って、先生の胃袋を掴んで。幸せな家庭を築きたいんです」 「幸せな家庭? ……けど、男同士ですよね。普通、そういうのは……」 「だから何ですか?」  奏多の問いは鋭く、遥の胸に突き刺さる。 「俺にはそんなこと関係ありません。先生が男でも女でも、好きになったのは天宮先生なんです」 「っ……!」  力強い言葉だった。遥はそれ以上何も言えず、ただその場に立ち尽くした。  奏多がまた明日も来ますね、と笑顔を残して教室を出て行った後、遥は一人キッチンに取り残された。  カウンターに置いた手が僅かに震えている。  ――本気、だとでも言うのか。  そう想うだけで胸の奥がざわつく。その感情の正体を知りたいのか、知らないままでいたいのか、遥には自分でもわからなかった。  過去の記憶が、静かに心の底から顔を出す。 「……俺が、また傷つくのが怖いだけだろ」  誰にも聞かれることのないよう、消え入りそうな声でつぶやく。  遥の視線は遠く、そこに浮かぶのは過去に手放した何かの残像だった。
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