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その言葉を聴いた時、私の中で何か大切な糸のようなものが、ぷっつりと切れてしまった気がした。父は、私が分からなくなってしまっていたのだ。
こうして一年、父の病室に通い続けているが、父が私を思い出したことは無い。いつも初めて見るような目で私を見つめ、決まって同じセリフを吐く。
「お前さんは、誰だったかな?」
あなたの息子だ、と何度も伝えた。その度に父は、「ほうほう、そうか」と興味なさげに頷いて黙ってしまう。気まずい沈黙に耐えかねてこちらから口を開くと、今初めて私が居ると気付いたような目で再び言うのだ。
「お前さんは、誰だったかな?」
何も覚えていないのか? 私を殴ったことも、私や母の人格を否定し続けたことも、しつけと称して私を夜通し家の外に追い出したことも、その他の理不尽な仕打ちも、何もかも全部。
それをはっきりと認識した時、私の中にあるひとつの決意が生まれた。
そして今夜、それは果たされるだろう。
私は敢えて、眠り続ける父の顔を凝視し続ける。
醜い顔だった。憎い顔だった。だがそれは、紛れもなく私の父に違いなかった。
窓の外で、ざあざあという音が更に太く、大きくなる。風雨が更に激しさを増したようだ。ふとそちらを見てみると、病室の頑丈な窓ガラスを大粒の飛沫がバシバシと叩いている。打ち付けられて下に垂れてゆく雫が、赤い色に染まっているような錯覚が、一瞬だけだが、確かに感じた。
私はゆっくりと父に顔を戻し、生ける屍のように横たわる姿を目に焼き付ける。
視線を固定したまま、そろそろと手をコートの内側に持っていく。そこにある硬い感触を二、三度指で確かめてから、しっかりと握り込む。
先程階段を上がった時のように手は震えだし、呼吸も大きくなる。激しい動悸も当然のように伴って。
頭の中で何度も繰り返した行程を、今一度シミュレートする。
――大丈夫だ。さあ、やるんだ。
「お見舞いの方ですかな?」
突如、背後から投げかけられた言葉が、燃焼しかけた私のメンタルに水を浴びせた。
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