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ぎこちない動きで声がした方を振り返ると、病室に居たもう片方の住人が、いつのまにかむっくりと起き出して私達を見つめていた。
「もしや、そちらの方の息子さん?」
「え、ええ、まあ」
内心で舌打ちしながらも、私はその患者に向き直る。暗くてはっきりとは分からないが、こちらも結構な高齢のようだ。
高齢の老患者は、顎に手を当てながら何やらうんうんと頷き、薄闇の中で私の顔をじっと凝視している。
「そうかあ、あんたさんがね。色々話は聴いとるよ。そこの彼、病気で頭の方がやられちまっとる上に普段から寡黙なんで最初は辟易したが、頑張って打ち解けてみるとこれが中々話せる人でねえ」
「はあ……」
私は曖昧に相槌を返した。どうもこの患者、やけに人懐っこい人のようだ。老人の陽キャだろうか。
「そんで、お互いに私生活のことも話すようになったんだが、彼と言えば一にも二にも息子さんのことばっかりでねえ」
「そうでしたか。父の話し相手になって下さって、ありがとうございます」
どうせ内容は悪口だろう。そう思って深く訊かないようにしたのだが、その老患者は勝手に続けた。
「息子は俺の自慢だ、ひとり親で苦労を掛けて申し訳ない。……そんな風にいつも言っとったな」
私は思わず、息をするのも忘れた。呆然と見つめる先で、老患者は感慨深そうに言葉を紡ぐ。
「自分は生来の癇癪持ちだ。その所為で感情をコントロール出来ずに息子に辛く当たってしまった。母親が居ないというだけでも、あの子にとってはきつい環境だった筈だ。自分はそんな息子を気にかけるどころか、度々ストレスのはけ口にしてきた。息子が自分を見捨てたのも当然だ。最近、あの子の顔が思い出せない。どんな声をしていたかも、分からない。それどころか、名前まで。けど、確かに居るんだ。自分には、大切な息子が。今頃、何処で何をしているんだろうか。お腹をすかせて、泣いていたりしていないだろうか。……とまあ、毎回こんな感じに懺悔しとったな。あまりに何回も聴かされたんで、すっかり覚えてしもうた」
私は思わず父の顔を見た。病気で頭をやられ、記憶を壊されてしまった父。
父にとって、今の私は息子では無い。成長して、大人になった私は父を避けていた。父の思い出にあるのは、子供だった頃の私の姿。それももう、朧気になってしまっている。
それでも、息子に対する想いだけは、今もはっきり残っているというのか。
不意に、父と過ごした昔の記憶が蘇ってきた。
まだ未明の中、父の運転する車に乗って一緒に海へ魚釣りに出かけた記憶だ。
夜明け前の空気がもたらす冷たさに震え、上手く針に釣り餌を付けられないでいる私を、父は笑って手伝ってくれた。自分の釣り竿を使って手本を示した後、私の手を取って、優しく作業の仕方を手ほどきしてくれたのだ。
東の空が橙色の朝焼けに染まる中、父と肩を並べて釣り糸を垂らした。何時間も、ずっと。
初めて釣った魚は、小さいながらも活きの良いアジだった。その時の父は、普段の憑き物が落ちたかのような晴れやかな笑顔で、私を褒めてくれたのだ。
「おや、もうお帰りになるのかね?」
「はい、そろそろ面会時間も終わりますから」
私は老患者に会釈をし、振り返らずに病室を後にした。
臆病風に吹かれたわけでは無い。薄闇の中だったが老患者には顔を見られただろうし、そもそも受付で身分を明かしている。父に心を囚われて、これからの人生を棒に振るのは馬鹿らしい、と冷静な思考力が戻ってきたに過ぎない。
だというのに、足取りは自分でもびっくりするほど軽かった。
また、近い内に訪れるだろう。その時は、ちゃんとした差し入れでも添えて。
父が、私を思い出す日が、絶対に巡ってこないとは限らないのだから。
病院の玄関を潜り、傘立てから傘を取る。
あれほど強かった雨は、いつの間にかぴったりと止み、風も既に収まっている。
見上げた空には、黒々とした陰鬱な雲だけが、夜の闇に溶け込むようにして残っていた。
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