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『鬼さんこちら、手の鳴る方へ』
その夜は、久しぶりに子供の頃の夢を見ていた。
毎日のように皆で遊んでいた鬼ごっこ。
嫌だって言えなくて、いつも私が鬼だった。
足が遅い私は、結局最後まで誰も捕まえられなくて。
いつの間にか皆は違う遊びをしていて、その度に寂しい思いをしたっけ。
「待って」
やっと触れられたと思った織原さんが去って行く。
必死に追いかけても距離は縮まらない。
それでも走ることを諦められなかった。
「織原さん……」
そう呼びかけた自分の声で目を覚ます。
目の前にどアップの彼の寝顔があって、絶叫しそうになるのをすんでのところで堪えた。
「………………」
まずいまずいまずい。
一晩明けてやっと本当の意味で冷静になり、みるみるうちに血の気が引いていく。
酔った勢いとは言え、なんてことをしてしまったんだろう。
いくらこんなチャンスは二度とないからって、暴走しすぎてしまった。
うっすら覚えている、卑猥な声を出して身悶える自分の醜態が蘇り枕に顔を埋めた。
……これからどんな顔して彼に接したらいいの。
とにかく、とにかく服を着なきゃ。
慌ててむくりと起き上がり彼に背を向けた瞬間、背後から抱き包まれる温もりを感じ心臓が止まるかと思った。
「………………」
ゴクリと固唾を呑み、恐る恐る振り返る。
彼は昨晩と同じ恍惚とした表情で私の顔に自分の顔を擦り寄せた。
「まだ早いから、もう少しこのままでいよう?」
蕩けるような甘い囁きに目眩がしそう。
織原さんは優しいから、行きずりの相手もぞんざいに扱わないタイプだ。
だからこそすごく切ない。
これ以上彼の優しさに勘違いしたら虚しいだけだ。
そう悟って、いつもの可愛げのない真顔を作る。
「……そういうのいいですから」
「春野さん……?」
呼び方が美子から春野さんに戻っていることに内心寂しさを覚えつつ、強がって悪態をついてしまう。
「私達、一夜限りの関係ですよね。そこは後腐れなく、割り切って行きましょう。私そういうの平気なんで」
本当はちっとも平気じゃない。
今も肌に彼の温もりが残っていて、恋しくて悲鳴を上げてしまいそうになるほど。
胸が張り裂けそうに痛いけれど、これも全て自分がした選択だ。
覚悟を決めて吹っ切ろう。
その方が、織原さんも気が楽だろうから。
「……ごちそうさまでした。私、シャワー浴びてきますね」
平然を装って近くにあったバスローブを羽織り、直ぐさまバスルームに向かう。
一人になったところで、やっと静かにため息をついた。
……本当に素敵な夜だった。
その場限りの行為にしてはもったいないほど、優しく触れてくれて。
長年根づいていたセックスのトラウマもすっかり払拭され、心ときめくような経験へと変わった。
……こんなの、益々好きになってしまう。
「……好き」
シャワーを浴びながらじわりと涙が滲んだ瞬間、カチャリとドアが開く音がして硬直する。
まさか……
「……俺も一緒に浴びていい?」
さっきの私の言葉を理解していないのか、涼しげな微笑みでユニットバスのカーテンを開ける織原さん。
途端に露わになった逞しい肉体が目に入り、卒倒しそうになる。
「きゃー!」
思わず叫ぶ。
昨日は暗がりだったしお酒が入っていたからまだ耐性があったけれど、明るい環境、冴え冴えとした脳みその状態で目の当たりにすると威力が果てしない。
「ダメです! 順番! 向こうで待っててください!」
「寒いから無理」
やっぱり質問の意味がない。
織原さんは、優しいのにこういう時だけ強引だ。
お湯がたまっていないバスタブの中に、あれよあれよと入って来る。
たるんだ身体をハッキリと見られて引かれたくない。
必死に腕で隠し背を向ける。
お尻を見られるのも死ぬほど恥ずかしいけど、背に腹はかえられなかった。
「…………ちょっと……」
後ろからそっと抱き包まれて、急激に心臓が高鳴る。
こちらは忘れようと必死なのに、どうして私に触れるの。
「織原さん、さっきの話聞いてました? こういうのやめましょう」
尚も強がって毅然と訴える私から、織原さんは離れない。
「……俺はまだ君に触れていたい」
そうやって耳たぶを優しく甘噛みするのだった。
もしかしたら織原さんは、優しいけれど無自覚に狡い人なのかもしれない。
耐えきれずに振り向くと、途端に唇を奪われて深いキスが始まる。
熱いシャワーに打たれながら、私達はお互いを激しく求めるように抱き締め合って何度も口づけを交わした。
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