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『いつとばされてもおかしくないこと、肝に銘じておけよ』
退勤し、オフィスのカフェコーナーで一人ホットコーヒーを啜る。
……今日の部長の言葉は流石にこたえた。
自分でもわかっている。
広報部において今の私は能力不足だ。
今まで置いてもらえたことが奇跡に思えるほど。
自分なりに日々勉強し仕事に昇華させてきたつもりだけれど、それでも追いつかない。
職場では愛想もなく人徳も人脈もない。
残された時間は限られている。
他部署に異動になる前に、せめて青木さんの問題だけは解決しないと。
「……春野さん」
低く穏やかなバリトンボイスが耳に響き、途端に胸が高鳴った。
振り向くと、やっぱり思い描いていた人が佇んでいる。
「お疲れさま」
「お疲れさまです、織原部長」
なんてことだ。仕事終わりに織原さんが声をかけてくれるなんて。
織原さんは、33歳という若さで経営企画部部長に就任したやり手のエリートだ。
高身長でスラッとした出で立ちに、色素の薄い艶やかな髪や男性とは思えないほど綺麗な肌。
茶色い瞳が印象的な、芸術品のように完璧な美しい顔立ちをした、まさに少女漫画から飛び出してきたような男性だ。
それだけでも目立ち憧憬の的なのに、彼には社内でも有名な特徴がある。
「春野さん、先月の広報も拝読しました。素晴らしい着眼点で、インスピレーションを受けることも多かったです」
織原さんは、誰に対しても分け隔てなく接してくれる、とても物腰柔らかな聖人君子だ。
いつも優しげな笑みを浮かべ、自分から率先して社員達とコミュニケーションをとっている。
仕事が凄まじくできるのに全く威張らず謙虚で、男女関わらず人望が厚い。
「ありがとうございます。励みになります」
真顔で一礼するだけの、全く可愛げのない私にも声をかけてくれるくらい良い人だ。
……この人なら、青木さんの問題も親身になってくれるかもしれない。
そう光が見えた瞬間、彼は私に僅かに近づいて微笑んだ。
「……ずっと思ってたんですけど、春野さん、髪綺麗ですね」
「え!?」
びっくりして、みるみるうちに顔が熱くなる。
実は密かに大切にしていた長い黒髪。
会社では邪魔になるから特別拘ることもなく後ろでひとつに結んでいたけれど、まさか織原さんに褒めてもらえるなんて。
心の中では歓喜に震え万歳をしているけれど、実際の私は緊張で1ミリも口角を上げられなかった。
「そういうこと言うの、よくないと思います」
そして思わず憎まれ口を叩いてしまう馬鹿な自分。
いつもそうだ。織原さんがどんなに優しく接してくれても、素直になれずいつものように無愛想な態度になってしまって。
自己嫌悪に陥る私に、尚も彼は微笑んでくれる。
「ごめんなさい。セクハラになっちゃいますね」
そんなことありません!
嬉しかったです!
「そうですよ。最近この手のことは厳しくなってるんで、気をつけてください」
私の大馬鹿者!
錯乱状態だからって、生意気な口聞くなんて。
「はい。気をつけますね」
それでも嫌な顔ひとつせず微笑んでくれる織原さんは仏すぎる。
「じゃあ、お疲れさまです」
そう言って去って行く織原さんの背中をいつまでも見つめていた。
彼に片想いを続けて、もう何年になるんだろう。
「沙月! 帰ろ!」
織原さんに駆け寄る美しい女性に、周りの女性達がうっとりと声を上げた。
「お似合いの二人だね」
まさにその通り。緩やかなパーマがかけられた栗色の髪が揺れる、表情豊かで可愛らしい、ずっと見ていたくなるような笑顔の女性。
二人が並んでいると壮観だ。
「織原部長、秘書課の金子さんと付き合ってるってホントだったんだ」
「結婚間近らしいよ」
「……金子さんって、親会社の社長の令嬢でしょ?」
「部長、未来の社長候補じゃん!」
そんな噂話がチクリと胸を刺す。
彼には素敵な相手がいる。
だからこの気持ちは、ずっと胸にしまったままいつか消えるのを待つしかない。
美しい二人が去って行くまで、私はその場を動けなかった。
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