連鎖

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連鎖

 ゴールデンウィークの真っただ中、T大法医学教室の若き教授月見里流星は、今日も解剖室で遺体の入った極楽袋を前にしていた。  両手を合わせ、静かに目の前の極楽袋に頭を垂れる。色素の薄い髪が、ぱらりと額に掛かった。 「悪ィな、休みのところ」  背後からの声に振り返る。  そこには警視庁の刑事で、月見里の学生時代からの親友でもある高瀬が立っていた。  高瀬は言葉とは裏腹に悪びれたそぶりなどなく、スラックスのポケットに手を突っ込み肩をそびやかしている。  月見里は思わず笑ってしまった。こういう遠慮のない、なにより偉そうな所が高瀬らしさであり、そしてそれが似合っている。 「あ? なに笑ってんだよ」  高瀬は不機嫌そうに下唇を突き出した。この癖は学生の頃から変わらない。  身長178㎝と、月見里より拳ひとつ分小さいとは言え、彼は長身で、しかもなかなかのハンサムでありながら自分に無頓着だ。そのため、いつもボサボサの黒髪を手櫛で後ろへ流し、時には平気で無精ひげを生やしていた。  月見里は術衣にエプロン姿で肩をすくめた。 「いや、文孝は大変だなぁと思ってさ」  自分も十分忙しいのだが、月見里はあえて「文孝も」ではなく「文孝は」と言った。しかし、その気遣いに高瀬が気づく筈もない。  だろ? と言うと、鼻息を荒くした。 「世の中ゴールデンウィークだっつーのに、出ずっぱりだぜ? あ、宮下さん、お疲れッス」 「お疲れ様です、高瀬さん。相変わらず仕事熱心ですなぁ。休みなんか要らないって聞いてますよ?」 「仕事熱心ッスけど、休みは要りますって」  解剖のための器具を乗せたカートを押しながら入って来た検査技師の宮下は、ヨレヨレになった高瀬のスーツを見るやからかった。  ヨレヨレのスーツは、高瀬がここ数日家に帰っていない証拠である。  妻帯者であれば、妻が着替えを庁舎まで持ってくる姿がよく見られるが、如何せん、高瀬は独身だった。 「忙しいのはわかるけど、銭湯ぐらいは行った方が良いよ、高瀬さん」 「だよな。ウチの患者さんとイイ勝負だもん」  まだ20半ばと若いシュライバーの庄司とカメラ係の品川が鼻にしわを寄せる。品川が言う「ウチの患者」とは、言わずもがな。遺体袋の中で眠っている、治療の必要のない患者である。  臭いの種類は違うにしても、実際高瀬は臭かった。 「終わったらここのシャワー借りる」  更に高瀬は貧乏だった。庄司と品川に、ケチ、セコイと言われようが気にしない。  こうやってしょっちゅう高瀬は法医学教室のシャワーを使っているが、それでも法医学教室の面々に愛されているのは、なにも月見里の友人であるという事だけではないだろう。  月見里は、高瀬が人に囲まれている姿を見るとほっとした。  手前味噌になるが、学生の頃の彼は誰をも寄せ付けないような闇を纏い、棘があった。しかし、自分と付き合っていく中で彼は変っていったと思う。 「それじゃあ、出してあげましょうかね、先生」  宮下が人のいい笑みを浮かべ、月見里を促す。  この検査技師も実に不思議な人物だ。見えないものを見て、聞こえないものを聞いているかのように察する力を持ち、そしてそっと寄り添う。  この世を生きる人に。そして、生を終えた人に。 「そうですね。いつまでも狭い中じゃ可哀そうだ」  *   *   *  「イッ、ニイ、サンッ!」  いつものように、宮下の掛け声で遺体がステンレスの解剖台へと移動する。女性であっても遺体は重いものだが、今日は予想外に軽く、ふわりと持ち上がった。  運ばれてきたのは40代の女性であった。ブラウンのショートカットヘアが白い肌に似合っている。鼻筋はスッと通っていて、閉じられた目は長いまつげで縁取られていた。目元や口元に多少の皺はあるも、生前はかなり美しかったと思われる。  また、死後間もないこと、自宅で眠った状態で発見されたこともあり、汚れ、臭いもなくきれいだ。  コットンのパジャマを着ているために、血の気を失い、やたらと肌が白い事を除けば眠っているかのようでもある。 「じゃあ、ちょっと撮らせてね」  品川は遺体に声をかけ、目元にかかる前髪をそっと流してやると、先ずは着衣の状態のままの遺体にレンズを向ける。  それを合図に、高瀬が所轄の刑事を促した。 「ええっと、我々が臨場しましたところ、女性は既に死亡しておりました」  刑事は姿勢を正すと、手帳を広げ話し始めた。  夫の話では、前日早めに帰宅したが体調が悪く、大丈夫かと妻が声を掛けてきたものの、気分が悪く苛ついていたため部屋へ直行。薬を飲んで直ぐに眠ってしまったという。 「え? なにそれ。奥さんが心配してんのにシカト?」  ペンを走らせていたシュライバーの庄司が、バインダーから刑事に視線を移し、信じられないと言った風に目を丸くした。 「本人がそう言っておりましたので……」  刑事は苦笑すると、先に進める事をためらう様子を見せたが、高瀬に促され、おずおずと続けた。 「翌朝──」  翌朝、いつも起こしに来るはずの妻がいつまで経っても来ない。  これでは仕事に遅れてしまう。仕方なく布団を出て台所へ向かうと、朝食の準備すらされていなかった。しかも、毎朝飲むことを習慣にしている野菜ジュースも冷蔵庫に入っていない。  夫は憤慨し、怠慢な妻を𠮟りつけてやらねば気が済まなくなった。  ダイニングで、おい! と怒鳴り声を上げたが反応がない。  益々腹が立った夫は、どかどかと、わざと大きな音を立てて階段を上った。  いい年をして、まだ躾が必要なのか。階段を1段上がるごとに怒りが増し、妻の寝室のドアを外れんばかりに勢いよく開けた。  妻はいまだ布団の中にいた。  激昂した夫は布団をはぎ取り怒号を浴びせたが反応がない。馬鹿にしているのかと睨みつけたところでようやく異変に気が付いた。  改めてよくよく見ると、妻は息をしていなかった。 「それで慌てて救急車を呼んだと」  刑事が危惧した通り、解剖室に微妙な空気が流れた。品川などは、小さく「キモ」と言って、庄司につつかれている。 「あの、嫁さんが起こしに来るまで布団の中で待っとったんですか?」  検査技師の宮下が不思議そうに言った。  自分も妻に起こしてもらうことはあるが、わざわざ起こしに来るの「待つ」ようなことはしない。 「ご主人はいつもそうなのかね? は~。変わった人だねぇ」  遺体に声を掛ける宮下に、刑事はカメムシでも踏んだかのような顔をした。  宮下はちょくちょくこうやって遺体と話をし、時に相槌を打つ。初めて目にする人には気味悪く映るのだろう。刑事は宮下と距離を置いた。 「既往歴は?」  月見里が刑事に聞いた。しかし妻には特段持病などもないようだと言うことだった。 「夫は突然死だと」  月見里はそれに何度か小さく頷いたが、鵜呑みにしているわけではない。  隣で不満そうな表情をしている高瀬に、どう思うか聞いた。 「あ? どうって?」 「この女性を見て、率直にどう思う?」 「どうって言われても……。うーん。なんつーか、痛そうな顔してる。それと、綺麗な人なんだけど……」  言って、まじまじと解剖台に横たわった青白い顔を眺める。そして、ポリポリと頬を掻くと言った。 「なんだろうな……。さっきの話のせいもあるんだろうけど、幸薄いっつうか、旦那はイイトコに勤めてるし経済状況も悪くねぇのに……生活に疲れた女の顔してるよな」 「そうだね」 「旦那があんなじゃな」  月見里も同意見だった。  遺体は死後、発見が早かったことで、未だ完全に硬直は解けていない。  そんな女性の顔には明らかに苦悶の表情の痕があり、そして、疲れが見えた。 「おっけーっす」  カメラを下ろし、品川が手を上げた。 「よし。それじゃあ、始めようか」  月見里の声で、全員が遺体に手を合わせた。    *   *   *     宮下が優しく女性の頭を持ち上げ、木枕へ乗せる。と、宮下は「ん?」と眉を顰めた。 「どうしました?」 「ああ……、先生。この人、酷く頭を打ってますね」  小声でそう言うと、宮下が遺体の左側頭部を示す。  月見里がラテックスの手袋を嵌めた手を髪の中に差し入れると、そこには明らかな皮下血種が認められた。所謂たんこぶである。 「あれ? 左耳に擦過傷もありますよ」  後ろから覗き込んでいた庄司が指摘する。  ショートカットの髪に隠れて見えなかったが、確かに耳と耳の周囲に擦り傷がある。その傷を見た月見里は、暫し視線を外して何か思案する顔をしたが、直ぐに庄司に視線を移し頷いた。 「いいぞ、庄司君」  月見里のふわりとした笑顔に、庄司の頬も緩む。その嬉しそうな表情を、すかさず品川はカメラに収めた。 「庄司のだらしない顔、頂きました!」 「誰がだらしないんだよ!」  法医学教室の仲良し二人組は、今にもじゃれあいを始めそうな勢いである。  宮下はハイハイと手を打つと、二人を引き離した。 「外表検査だぞ~」 「はぁ~い」  ニヤニヤする品川をじろりと睨み、叱られた子供のように口を尖らせた庄司が、パジャマにそっと手をかける。  宮下も、「ちょっとごめんなさいね」と言いながら、庄司が袖を抜きやすいよう、優しく遺体の背に手を差し入れた。 「あっ」  パジャマの左袖を抜いた途端、庄司が声を上げた。遺体の左肩、そして肘にも打撲と擦過傷があった。  後ろの方に下がっていた高瀬も食い気味に前へ出ると、うわっと声を上げた。 「盛大にコケたか?」  高瀬は自分が転んだかのような痛い顔をした。それほどにその打撲は赤黒く変色し、腫れ上がっている。  遺体に触れた月見里の表情が曇った。 「転んだぐらいじゃ、こうはならないかな」 「こうってなんだよ。分かりやすく言え」 「この人の左肩は脱臼してるし、左肘は折れてる。何故この状態で病院に行かなかったのかな」  そういうと、月見里は肩と肘の擦過傷を観察し、宮下から受け取った綿棒で傷口を拭った。  そこには僅かながら砂と思しきものと、タオルと思われる繊維が付着していた。  パジャマに血痕はなかった。ということは、他の服を着ていた際、着衣がダメージを受ける程に受傷し、その後着替えたということだ。 「宮下さん、庄司君、引き続きお願いします」    *   *   *     全ての着衣を撤去し白い肌が露わになった遺体の前で、月見里と宮下は顔を見合わせていた。  女性の身体には他にも顕著な打撲痕があった。 特に左側腰部は赤黒く変色しており、強く打ち付けたことを物語っている。  そして右の骨盤及び右大転子部分。尻の横から足の付け根のでっぱりに相当する部分であるが、ここにも打撲痕があった。 「こりゃもう大怪我ですな」  宮下は赤黒くなった打撲痕を見て言った。ここまで腫脹と変色が激しいと、骨折も疑われる。まともに歩けたかどうかも疑わしい。  また、これだけの打撲と擦過傷があるとなれば、家の中での転倒は考えにくい。  しかも、右側にも打撲がある。いったいどのような状況で転倒したのか。そして、どうやってベッドで横になったのか。 「旦那だったりしてな」  高瀬が腕を組み、ぽつりと言った。その場に居る誰もが考えたことだった。  その夫は事情聴取の後に気を失い、そのまま入院したというが、先ほど聞いた夫の供述が皆引っかかっていた。不愉快だった。  子供がそのまま大人に、しかも独裁者にでもなったかのようだと、その場の全員が感じていた。 「ともあれ診せて頂きましょうか」  その声で室内がしんと水を打ったように静かになった。解剖台の上の換気システムの音がやけに響く。  月見里のゴーグルに手元のメスの光が反射する。  強い照明の下でひとつ大きく深呼吸をすると、月見里は迷うことなく、女性の身体をY字切開した。  次に開創器で開き、肋骨を外して中の臓器を取り出して計量を行うのだが、臍を避け、下腹部まで切開したところで異変に気付いた。  予想以上の血液が流れ出してきたのである。  血液は創部から体を伝い、たらたらと解剖台へと流れていく。 「凄く出血してる」  月見里は遺体から隣の宮下に視線を移す。宮下は少し腹腔を覗き込むと頷いた。  腹腔内は血溜まりだった。  開創器で切創を広げ、おたまで溜まった血液を掬い出す。血はいくらでもかき出せた。大量出血だった。  そのため、肺などの他の臓器は白くなっている。女性の肌が驚くほど白かったのも、恐らくこのせいだ。  そして、思った通り、左側の骨盤は骨折していた。そこからだらだらと大量に出血し、死に至ったのだ。  直接の死因は、骨折による出血性ショックだった──。    *   *   *     遺体の創部を縫い、清拭をした月見里は、着替えを澄ませて事務室に高瀬を呼んだ。  事務室の応接セットに向かい合って腰を下ろす。  それぞれの前には月見里の淹れたコーヒーが、100円ショップで買ったと思しきシンプルなマグカップで湯気を上げていた。 「ひょっとしたらなんだけど、あの女性は交通事故に遭ったのかもしれない」 「事故?」  月見里は憶測の域を出ないことを前置いたうえで、自身の見解を語った。 「ご遺体は特に左側に外傷が多かった。擦過傷には砂がついてて、傷もコンクリートやアスファルトで擦って出来るものに似ているんだ。つまり、左側を下にして転倒し、その時に地面で擦ったと思われる」 「なるほど」  高瀬も子供のころによく擦り傷を作ったから覚えがあった。  斜めにいくつもの傷が走り、そこから血に交じって砂や石が付いていた。  痛くてしょうがなかったが、バイキンが入ると思い、公園の水道で必死に洗い流したものだ。 「うぐっ……」  高瀬は思い出に浸りながら、月見里が淹れたコーヒーを一口啜って顔を顰めた。息を止め、顎を上げて薬でも飲むかのように流し込む。  うっかりしていたが、月見里が淹れるコーヒーは、この世のものとは思えないほど非常に不味いのである。これに比べれば、漢方薬ですらグラニュー糖だ。  いつもなら月見里の秘書の栞が淹れてくれるのだが、どうやら出かけているらしく不在であった。  高瀬はそっとマグカップをテーブルに戻し、月見里が資料に目を落としている隙に、脇に置いていたコーラを一気に飲み干し、盛大なげっぷをした。  流石にウシ蛙のようなげっぷに驚いたか、同じコーヒーを涼しい顔で飲んでいた月見里が、高瀬を見て目を丸くしている。 「あ、いや、続けてくれ……」  高瀬に促され、月見里は続けた。 「ええっと、これだね」  言って、左側腰部の打撲写真を示す。 「転倒した際に、酷く打ち付けて骨盤を骨折したんだろうね。それによって腹腔内に大量に出血して、結果的に命を落としたわけだけど、実は反対側にも打撲痕があって。これが問題なんだ」 「問題?」 「一般的な車両のバンパーまでの高さってどれくらいだと思う?」 「んま、多少誤差はあるだろうが、大体20~30㎝くらいかな」 「そうなんだよね。もし、さっき僕が言ったように、事故でということになると──」  これも1つの可能性の話なんだけど断ってから、月見里は女性は右側から来た車に接触し、飛ばされて左側を下に転倒したのではないかと話した。 「だけど、さっきも言ったように、バンパーの高さから考えると、膝辺りに打撲痕がないといけないんだ」 「うーん。でも軽トラとかミニバンとか、ハイエースとかだったらどうだ? 最近はグリルからバンパーまで、切り取ったみたいに真っ直ぐな車も多いぜ?」 「そうだね。だとしたら、もっと広範囲にわたって打撲痕がないとおかしくないかな」  高瀬は唸った。確かに、遺体の右側は骨盤周囲だけ、ピンポイントで打撲痕が存在し、腕などには見当たらなかった。 月見里も腕を組み、天井を仰いでいる。思考が堂々巡りを繰り返し、一向に突破口を見出せない。 その時、重苦しい空気を一掃する、涼やかな声が2人の思考を断ち切った。 「お疲れ様でーす」  月見里の秘書、深田栞だった。  華奢な腕に、膨れたビニール袋を提げて入ってくる。 「オッ! 栞ちゃーん!」  途端に高瀬の表情も緩む。彼女はこの法医学教室の清涼剤だ。  童顔で、23歳とは思えない程に愛らしく、どんな時もニコニコと笑顔を絶やさず、甲斐甲斐しく皆のサポートをしている。 「買物? 重そうだね。持つよ」  月見里が立ち上がり、栞の腕からビニール袋を受け取る。中には缶ジュースが入っていた。 「有難うございます。皆さんも野菜ジュース飲まれます? 今日特売だったから、いっぱい買っちゃいま……先生? どうしたんですか?」 「これだ……」 「えっ?」 「これだよ栞! 有難う!」  月見里は栞をかき抱いた。月見里の腕の中で、栞の顔が熟れたトマトのように真っ赤になっている。今にも気を失いそうである。  なにしろ、月見里本人は鈍いために気付いていないが、栞はずっと月見里に恋焦がれているのだ。  そうとも知らず、月見里は栞の頭を子供にするようにくしゃくしゃと撫で、高瀬を振り返った。 「文孝! 彼女は買い物に出ていたんだ! 買物袋を、さっきの栞みたいに、こう、曲げた肘に下げてたんだよ!」  月見里は興奮気味にそう言って、ビニール袋を肘に引っ掛けて腕を曲げた。 「中には何か硬いものが入ってて……それが車両と彼女の間にあった。だから、膝よりうんと高い位置に打撲痕が出来たんだ!」  一気に事件が動き始めた瞬間だった。    *   *   *  「あー、うま。やっぱ栞ちゃんが淹れてくれるコーヒーが世界一美味いわ」 「タダだし、でしょ」  法医学教室のソファーに我が物顔でふんぞり返ってコーヒーを啜る高瀬に、すかさず品川が突っ込みを入れる。その場にドッと笑い声が渦巻いた。  今日高瀬が法医学教室を訪れたのは、先日法医学教室に運ばれた女性の事件の報告の為だった。 「あれから寝室を調べたら、潰れた缶ジュースが入った買い物袋が発見されてな」  レシートは見当たらなかったが、買い物袋に印刷された店名から店を特定。最近では珍しく、無償で買い物袋を提供する24時間営業のドラッグストアの物だった。  すぐに店の防犯カメラを確認すると、あの女性が映っていた。白いTシャツに長いタイトスカートという地味な服装でありながら、その容貌から目立っており、当時レジに立っていた男性も、女性を覚えていた。記録されていた時間から、夫が眠った後であることも分かった。  買物袋から見つかったのは、夫の好きな銘柄の野菜ジュースであった。  それが切れていることに気付いた妻は、夫に叱られることを恐れ、こっそり家を抜け出して買いに走り、その帰りに事故に遭ったと思われる。 「店から自宅までの間にあるカメラのデータを調べたら、買い物袋を下げて歩く彼女が映ってたよ。上手い具合に事故の瞬間もな。月見里の見立て通り、彼女は野菜ジュースの缶がいくつも入ったビニール袋を、折った肘に下げてた。そこへ車が接触してたよ」  女性が事故に遭ったのは、自宅からほど近い、人気のない交差点だった。  防犯カメラには接触した車両のナンバーも映っていたため、該当車両は直ぐに特定出来、運転していた加害者男性に事情を聞くことも出来た。  車両は正面に凹みが確認され、女性の打撲痕があった場所と高さも一致したと言う。 「加害者男性は直ぐに被害者を助け起こし、病院へ連れて行こうとしたが、本人が断ったって言うんだよな」 「断った? そうなのかね」 「え。なんで宮下さん、俺に聞くの?」  隣の庄司がきょとんとした顔で言う。  宮下は、ハハハと笑うと缶コーヒーを啜った。 「彼女は、大丈夫だから自宅まで送って貰えればそれでいいと言ったそうだ」 「大丈夫? あの状態で? マジかよ……」  品川は自分が撮った彼女の受傷部を思い出し、眉尻を下げた。 「そう、あの状態でだ。まあ、彼女の心情については後で触れるとして、ともかく加害者男性は車で彼女を家まで送り、言われるまま彼女を背負って部屋まで連れて行った。そして帰り際に、何かあったら連絡をしてほしいと電話番号を置いて行ったが連絡がなかった。ってか、彼女ははなっから連絡する気なんか無かったんだろうな」  高瀬は肩をすくめた。なにしろ部屋のごみ箱から、男性の電話番号のメモが出てきたというのだ。また、クローゼットからは女性が着ていた白いTシャツと黒のスカートが発見されたということだった。  彼女は恐らく部屋にあったタオルで傷口を吹くと、自分で何とか着替えて横になったが、出血のためそのまま死に至ったのだ。 「あ~あ。そこで病院に行ってりゃ死ななくて済んだかもしれないのに……」  品川はため息をついた。 「彼女の夫はモラハラだったのかな?」  黙って高瀬の報告を聞いていた月見里はそう言うと、勿論本人にそんな自覚はなかっただろうけどと付け加えた。 「ご名答」  短く答え、高瀬はコーヒーで口腔内を潤し続けた。 「彼女の友人に連絡が取れてな。彼女が夫の事で思い悩んでいた事が明らかになった」  友人の話によると、彼女の夫は酷いモラハラ(モラルハラスメント)夫で、理不尽なルールや王様の如き態度で常に彼女を押さえ付け、侮辱し、そして支配していた。  彼女には厳しい門限もあり、行動も自由にならず、家の中で籠の鳥の如き生活を送っていた。  当然家事はワンオペで、それにもかかわらず、何ひとつ家事をしない夫のルールに則り行わなければならず、不満を言えば言葉の暴力を振るわれ、何日も、何か月もシカトされた。  その為歯向かう事を諦め、出来るだけ自分の心を守るために夫に従う生活を送り続けてきたのだった。 「離婚は出来なかったのかね」  遠慮がちに宮下が言葉を挟む。 「俺には分からんですけどね、彼女の友人が言うには、それをするだけの余力も、既に彼女の心にはなかったのだろうと。それほどまでに彼女の心は疲れ切っていたのだと。実際、夫は知らなかったが……彼女、精神科にも行ってたよ。その頃は失声症になってたようだ。相当酷いストレスだったんだろうな」 「俺なんか供述聞いただけでストレスでしたもん」  庄司が不愉快そうに眉間に皺を寄せ、品川も、分かる分かると同調した。 「んで、ここからはまだ憶測でしかないが、家を抜け出し買いに出たこと、まして事故に遭ったことをモラハラ夫に知られれば何を言われるか分からないと恐れ、痛みを我慢して布団に入り……」 「そのまま、骨盤の骨折による出血性ショックで亡くなった」  月見里がそう結び、高瀬は頷いた。 「そういう事。俺には理解しがたいが、彼女は追い詰められてたんだろうな」 「過剰適応からの適応障害だったんだろうね」 「あの……」  部屋の隅で静かに話を聞いていた栞が、おずおずと聞いていいかと高瀬に声を掛けた。 「旦那さんは、今回の事どう思ってるんですか?」 「そうだよ! 旦那のせいじゃん!」 「間接的だけど、そうだよな!」  庄司と品川もそう言って頬を膨らませた。 「旦那は、潰れた野菜ジュースを見た途端大号泣したよ。んでこう言った」  お母さんには言わないで──。 「まさか。そうなのかね?」  この時、宮下だけが、ずっと隣に立っていた彼女の声を聴いた。  ええ──。夫の母も、モラハラなんです──と。 ──了。
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