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第10話 記憶
「理由ねえ……」
蘭は少し考えながら、ほっけを箸でほぐして口に入れる。脂の乗った海の味が口中に広がった。
居酒屋の中は、相変わらずお客が笑う声や、注文する声が聞こえ、様々な和食の優美な香りが漂っている。
「2つかな。1つは私に『オーラセックス』をしてくれたのは、もう5年前に付き合っていた彼だった。あの頃の私は25歳だったけどね。25歳が何を言っているのかと思われるかも知れないけど、私は初めてセックスの悦びを知って……女性としての官能の悦びを味わったの。それまでしていたセックスなんてまるで小学校のお遊戯だった。彼の手が触れるだけで私は官能したし、あの時は毎日が体の芯から熱くて、彼がいなくても肉体の底からずっと彼を求めていたのよ。……仕事はちゃんとしていたけどね」
蘭は遠い記憶を思い出すように、少し下を見ながら言った。
「知っています。都築さんですよね」
ため息をつきながら、本田は口を開いた。
「そう。都築さん。心と体を愛して愛されるって、最高に幸せなことなんだって教えてくれた人だったわ。5歳年上だけとも思えない人間味や温かさがあって、仕事でも頼りにされて本当に優しい人だった。だからあの人が海難事故で亡くなった時は、私の人生も終わりの様に感じた。1年しか付き合ってないのに、勝手に死んでしまってさ。それも海でおぼれた人を助けようとして亡くなるなんてね。でも正直に言えばその人よりも私の方を優先して欲しかった。……だからなのかな。時間がたっても彼が私に与えてくれた性愛の悦びを忘れられないの。これが1つ目。」
蘭はそう言って、少し笑った。だが目元に涙がにじんでいるのが本田には見えた。
「都築さんが亡くなってから、何人かと付き合って体を重ねたわ。でも皆、自己中心的で痛くて、とてもじゃないけど一夜限りで別れる事になった。それで恋愛やセックスに懲りて、少しはましかと思った相手と付き合ったらこの有り様ってこと。だから……」
「だから?」
本田は興味を持って尋ねた。
「だから2つ目としてはね。都築さんの様な人が現れるのを待っていても無駄なんだって思ったの。スパダリなんてのは幻想に過ぎないし、金持ちの男って最悪だと良く分かったわ。彼の遺品の本からあれが『オーラセックス』と分かってから考えてたの。私自身が『オーラセックス』を学んで、将来性のある素直で素敵な男性に教える。それで性愛を深めて幸せになりたい。『オーラセックス』をすることで、70代でもセックスしている女性もいるんでしょう?」
蘭は今度はハイボールを注文しながら答えた。今日は飲みたいのだ。
「なるほどねえ……素晴らしいと思いますよ。実際に高齢になっても『オーラセックス』をしている方は居ます。もちろん若い時のような激しい動きは無理ですが、年齢に応じたセックスの素晴らしさはありますからね。あとスパダリは高級なクラブで散財したりするのにはお金を使いますが、自分達を高めて女性の心身を悦ばせる為にはお金は使いません」
本田は蘭に感心しつつも、神妙に答える。
「なんで?」
「彼らは女性は金でどうにでもなると考えてますから。だが人間的なレベルで言えば……性愛を深めようと努力し、それを実践している人達。しようとしている蘭さんの方がはるかに上だと私は思いますよ。どうします? 早ければ来週からトレーニングは開始出来ますが」
本田は爽やかに笑いながら尋ねた。
「ありがとうございます。善は急げ。来週からお願いします」
蘭の気持ちは決まった。もう彼女の目には迷いはなく、居酒屋の明かりがその目を美しく照らしていた。
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