うつろひ菊

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うつろひ菊

「あけて」 「なんで?!」 叫ぶような声がインターホンから飛び出る。それでもエントランス扉はするすると開いた。俺はぴたぴたと雫を落としながら、勝手知ったるエントランスホールを横切って、エレベーターに乗った。 「あけて」 玄関扉は錠がおりている。ずぶ濡れの身には、ここで放置はきつい。 分厚い扉は、中の音を通さない。しんとした夜だ。 そのまま時間が過ぎる。もう一度ドアチャイムを鳴らしてみる。反応はない。絶望感が襲ってくる。どうしよう。 恋に焦がれる身には、ここで拒まれるのはきつい。 唐突に扉が開いた。外開きだからがつんと額に当たる。目の前に星が散った。 「…おひさしぶりです」 彼女は無表情にそう言うと同時に、俺の顔にタオルを押し付けた。 「遅いよ。待ち長かった」 あんまりな仕打ちにすこしだけ文句を言ってみる。タオルの上からちらっと眼だけ出して窺うと、彼女は眼を吊り上げてタオルを取り上げ、俺の頭をがしがしと擦り始めた。首がぐらぐら揺れて目が回る。あわあわと意味の無い音が口から出る。 彼女は苛立ちをぶつけるように乱暴に腕を動かす。 「連日あなたに会えない、メッセージもない、既読もなかなかつかない。芸能ニュースなんかであなたの生存だけ確認する日々。それを待った私の辛抱なんてどうせ、わかんないでしょう。玄関扉を開ける間ですら待ち長いあなたなんかには」 彼女の声の端が潤んで、タオルを握った手が止まる。俺はそっとその手を掴み、タオルから顔を出した。 玄関の段差はちょうどいい。俺より少し背の低い彼女に、こんなふうにキスできる。 「待たせてごめんね」 至近距離で囁くと軽く殴られる。 「今日は仕事で近くまで来たんだ。ほんとは五駅前にホテルもとってもらってたんだけどさ。駅のホームで、ちょうど来た電車が君の路線で、これに乗ったら会えるんだと思ったら、なんか体が勝手に動いちゃって」 「マネージャーさんは?」 「今ごろ慌ててるだろうね」 苦笑が漏れた。俺のメッセージ嫌いを苦にしているのは、なにも彼女だけではない。今のは意図的なものだけど。 彼女は俺のジャケットを脱がせながら、良いスーツが台無しじゃないですか、と溜息をつく。 「傘も持ってないのに駅から走ったの?」 「買う暇も惜しくて」 すかさずそう言うと睨まれる。 「みみっちい点数かせぎしないで」 「ばれましたか」 なんだか笑いが止まらない。やっと会えた。こうして顔を合わせて喋る時間の、なんと得がたいことか。 「ずっとあいたかった」 ぽそりと言うとうっすらと染まる頬を、うっとりと眺めた。 「とにかくシャワー浴びてください。さっきお湯張り始めましたから湯船使いたかったらどうぞ。風邪ひきますよ」 早口でまくしたてる彼女に、はいはいと返事をして、あがるのはたぶん再びふたりの部屋になる、彼女の部屋。 嘆きつつひとりぬる夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る 藤原道綱母
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