その女子社員は、モンスター

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その女子社員は、モンスター

――明朝、人事部に来てください。職場には顔を出さないように。  長谷川は、妻子が寝静まったあとの薄暗いリビングで、スマートフォンの画面を見つめていた。  そこには、人事部長の熊川からのメールが表示されていた。短い文面に理由は一切書かれていない。長谷川の胸には不安が広がっていた。  熊川は人事部長だ。多様性本部の本部長も務めている。昨今の女性登用の追い風もあって、鳴り物入りで昇進した。  最近の業務や言動を思い返してみても、思い当たる節はない。それでも、この手の呼び出しが良い知らせでないことは、社会人経験の長い彼にはわかっていた。  翌朝、長谷川はいつもより早く出社した。  人事部のフロアは静まり返っており、熊川のデスクにも気配はない。長谷川がそわそわと時計を見ていると、背後から女性の声がした。 「長谷川課長、お呼び立てして申し訳ありません。こちらへ」  熊川が現れ、冷ややかな表情で彼を会議室に案内した。口調は丁寧だが、声色に硬さが混じっていた。先に長谷川を通すと、熊川は会議室のドアを閉めた。  着席すると、熊川は厳しい目つきで長谷川を見据た。 「実は、社内の匿名通報サイトに、長谷川さんに関する報告がありました」  長谷川の頭が真っ白になる。  誰もが……特に役職者が恐れる通報窓口。それが長谷川が務める商社で運用されている『匿名通報サイト』だ。あらゆるハラスメントについて、匿名で受け付ける。通報されると極秘裏に内定調査が行われる。その活動は周囲に知らされない。  長谷川が呆然としていると、熊川の声が響いた。 「内容はセクハラ行為です」 「セクハラ? それは何かの間違いです。身に覚えがありません」  長谷川は我に返り、慌てて言い返した。  熊川は鞄から書類を取り出すと、ペラペラとめくりながら説明を続けた。 「部署の飲み会で、長谷川さんが性的な写真を見せたとの通報がありました。その行為が対象者に深いストレスを与え、眠れないほどの苦痛を訴えています」  長谷川は混乱の中で記憶を掘り起こした。  最近の飲み会を思い返す。確かに、課のメンバーと飲み会があった。男性4名、女性1名。楽しい雰囲気だったはずだ。その時、自分が見せた写真……思い出した。大学時代に太っていた頃の写真を、話のネタにと見せたのだ。 「あの写真か……」  長谷川は声を震わせた。 「確かに見せましたが、性的嫌がらせをする意図はありませんでした。ただ、笑いを取ろうと思っただけで……」 「差し支えなければ、その写真を見せていただけますか。判断のためで、この場で私に提示したことを、とがめることはありません」  長谷川はスマートフォンを取り出して、写真を検索して熊川へ差し出した。長谷川は大学時代、太っていた。にもかかわらず、体に密着したTシャツを好んで着ていた。 「これは、ギリギリですがアウトです。Tシャツが薄すぎて、身体のラインが露骨に見えています。乳首も透けていますね。被害者が不快感を覚えるのに十分です」  長谷川は愕然とした。  まさか、こんな些細なことが、ここまで大ごとになるとは。しかし、熊川の視線は鋭く、言い訳を許す空気ではなかった。 「通報者は、絵莉花さんでしょうか?」  長谷川が恐る恐る聞くと、熊川は眉をひそめた。 「その質問はやめたほうがいいです。通報者の特定を試みる行為は、自分を不利な立場に追い込むだけです」  他部署で聴取を受けた課長に話を聞いたことがあった。通報者は完璧なほど守られていると。下手に詮索すると、自分が不利になるのでやめろと言っていた。その課長はもう、会社にいない。  長谷川は無言でうなずいたが、心の中では複雑な思いが渦巻いていた。  絵莉花は2年間、手塩にかけて育ててきた部下だ。基礎から応用まで丁寧に教え、一流の営業マンに育てようと尽力してきた。  あの飲み会の場で女性は一人。男性が通報するとは思えない。だとすると絵莉花が、自分を裏切ったと考えるしかない。 「絵莉花さんは、前の部署にいたとき、パワハラで通報したことがあるとの噂がありましたね」  口をついて出た言葉に、熊川はため息をついた。 「ここでは関係のない話です。話せば話すほど、不利になりますよ」  熊川の態度は一貫して冷たく、長谷川を一層追い詰めた。まるで、検察の取り調べだ。  たかが……たかがと言ってはいけないのかもしれないが、服を着ている写真でもだめなのか。相手が不快に思ったのなら、それが正義なのか? 「私の処分はどうなりますか?」  しばらく黙っていた長谷川は、意を決して問いかけた。  熊川は数秒間、長谷川と視線を合わせてから低い声で答えた。 「自主退職をおすすめします。このまま在籍を続けると、会社として厳正に処分しなければなりません。ですが、自主退職であれば、会社は今回の件を公にしません。転職に不利な情報も残しません」  長谷川は3年前に結婚して、子供は1歳。働き続けるしかない。 「もし、自主退職しなければ?」 「社内外に公表の上、解雇となるでしょう」  長谷川は椅子に深く沈み込んで、天を仰いだ。  営業一筋、10年。同期の中では最速で課長に昇進した。残業をいとわず尽くしてきた会社から、退職を迫られるという現実が信じられない。  心に広がるのはやりきれない怒りと、悲しみ、そして深い虚無感だった。 「……分かりました」 「本日以降は、有給とします。このまま職場に寄らずに帰宅してください。明日以降、出社は禁止します。会社の者への接触もしないように。今後の流れは書面で送ります」  会社を出る長谷川の足取りは重かった。  これまで積み上げてきたものが、たった一つの行動で崩れ去るとは思ってもみなかった。自分の中で何かが壊れる音がした。築き上げてきたキャリアも人脈も全て。  誰にも会わないように、一つ先の駅まで歩くことにする。  その途中、ふと立ち止まる。街路樹が朝日に照らされて揺れていた。その光景を見つめながら、長谷川は心の奥底で問いかけた。  なぜ、絵莉花が?  長谷川は拳を握り締めた。  長谷川には女性の部下が2名いた。絵莉花と早苗。彼女たちは同期だ。  物静かで頭が切れる絵莉花。反対に派手めで口数が多い早苗。2人には、均等に目を掛けてきたつもりだ。それぞれの特性を考慮した指導をしてきた。性別を意識することなく、とにかく営業スキルを高めてもらえるように育成をしてきたつもりだった。  先日の飲み会には早苗は来なかった。彼女から、何度か個人的な誘いがあったことを思い出す。妻子ある身で疑わしい行為をする訳にいかず断ったが……こんなことになるくらいなら、誘いに乗ってもよかったか。もし、明るい彼女が飲み会の場にいれば、結果は別のものになったのかもしれない……。  もう、どうでもいい。考えても仕方がない。  このまま終わってたまるか。俺の人生は、ここで終わりじゃない。転職活動を開始しよう。そう心に誓いながらも、握った拳は小さく震えていた。
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