0人が本棚に入れています
本棚に追加
* * *
夜のオフィスに、カタカタとキーボードを叩く音だけが響いていた。絵莉花は書類の山に埋もれるように置かれたノートPCと格闘していた。彼女の顔には、疲労の色がにじんでいた。
定時を数時間も過ぎ、会社のほとんどの人間が退社した後でも、絵莉花は仕事を続けていた。明日までに仕上げなければならない資料が複数あった。新しい課長から、急に頼まれたものだ。
「お疲れ様、絵莉花」
軽い調子の声に、絵莉花はハッと顔を上げた。そこには、派手な私服姿の早苗が立っていた。カジュアルなシャツにジーンズという、ラフな装いだ。
「早苗? 戻ってきたの?」
絵莉花が問いかけると、早苗はにこりと笑いながら椅子を引き、隣に腰を下ろした。
「同期の頑張りを労おうと思ってさ。はい、これ」
その声色は、労いというより嘲笑のように聞こえた。早苗は缶コーヒーを絵莉花の机に置いた。
「ありがとう……でも、随分前に会社、出たよね?」
「ちょっと伝えておきたいことがあってね……長谷川さん、新しい仕事見つかったらしいよ」
その名前を耳にした瞬間、絵莉花の手が止まった。
課長の長谷川が突然退職してから2か月が経過していた。課長の顔が脳裏に浮かぶ。自分を一人前に育ててくれた人。退職理由は公表されていない。彼女は胸騒ぎを覚えた。
「退職の理由、知ってる?」
早苗が小声で問いかけた。
「知らない……」
早苗は口元に薄い笑みを浮かべ、絵莉花に顔を近づけた。
「セクハラだったらしいよ。匿名通報サイトに投稿があったんだって」
「そんな……愛妻家の長谷川さんが信じられない」
「誰が通報したんだろうね?」
絵莉花の頭は真っ白になった。匿名通報サイト……社内で誰もが恐れるその窓口。
「そんなの分からないよ。通報は匿名でできるし」
絵莉花は怯えた目つきで早苗を見た。早苗は不気味な笑みを浮かべる。
「そういえば、絵莉花、前の部署でも課長が退職したよね。噂ではパワハラが通報されたって」
絵莉花は息を呑んだ。仕事でヒートアップしていた脳に、冷たい風が吹き抜けたような感覚。
「何が言いたいの?」
「実を言うとさ、長谷川課長のセクハラ通報、私がしたんだよね」
「えっ!! なんで……?」
絵莉花の声は裏返っていた。
「絵莉花が困ってると思って。だって、あなたは自ら通報なんてしない。飲み会で、長谷川課長が太ってた頃の写真見せたって嫌そうに言ってたじゃない?」
「私はそんなこと、頼んだ覚えはないよ! あれは……ただの笑い話。私は嫌な気持ちになんて……」
実際、絵莉花は不快に感じていなかった。むしろ、笑えたくらいだった。
「でも、セクハラだって感じる人もいるかもって言ってたじゃん。だから、少し誇張して投稿しておいたのよ」
早苗は平然と言ってのけた。罪悪感など微塵も感じていないかのような軽やかさだ。
絵莉花はその無邪気さの裏にある何かに気が付いた。
「それ、本当に私のため?」
絵莉花は、声を震わせて問いかけた。
「もちろん、違う……違うに決まってるじゃない」
早苗は急に表情を変え、冷たい笑みを浮かべた。
「あんた、いつも真面目で、優秀で、上司からも気に入られて。私より、いい大学出てるのも鼻につくのよ。でも今は違う。長谷川のあとに来た桂課長は、私に目を掛けてくれている。雑用を全部、絵莉花に押し付けてって言ったら、その通りにしてくれたし。これって、いい感じじゃない?」
勝ち誇った早苗の表情を見て、絵莉花は愕然とした。
「桂課長、今、私と付き合ってるんだよ。妻子ある身でそんなことして、いいのかしらね?」
早苗は挑発するようにケラケラと笑った。
「そう……前回のパワハラの通報もあなたが……」
絵莉花は、これまでの違和感が全て繋がるのを感じた。前の部署で上司が突然、退職したこと。移動先で再び早苗と一緒になり、長谷川課長が去ったこと。早苗は全て計画していたのだ。
「そうだよ。前の部署でもやった。あんたが叱責されてるのを見て通報したの。上司は降格になり会社を去って、あなたの評価は落ちた。すぐに通報するヤバいやつだってね」
目の前の早苗が怪物に見えてきた。絵莉花は冷静さを保とうと深呼吸した。
他人になりすまし、思い通りに周囲を操る。通報を武器に上司を飛ばし、ライバルの評価を落とす。
「長谷川課長にも色仕掛けで迫ったけど、全然なびかなかった。平等に育ててる? そんなの嘘よね。ひいきする上司も、ひいきされるあんたも大っ嫌い。上司が入れ替われば、いつか、私に合う人がくる。色仕掛けでコロッと落ちる上司がね」
早苗の言葉は、絵莉花の心臓をえぐった。早苗の内面には、冷酷な計算と、歪んだ欲望が渦巻いていたのだ。
「あなた、結局、何がしたいの?」
絵莉花は絞り出すように言った。早苗は「あなたを見下したいだけ」と答えた。
早苗は、長谷川を退職に追い込んだ。そして、新しい課長である桂と、密かに付き合っている。桂は、明らかに絵莉花よりも早苗に目を掛けていた。雑用は全て絵莉花に押し付けていた。
早苗は絵莉花を疎ましく思い、巧妙な策略を巡らせてきたのだ。そして、策略は見事に成功した。
「あなたがどんな人間かよくわかった。私はモンスターの餌になるつもりはないから」
絵莉花はそう言い放ち、鋭い目つきで早苗を睨みつけた。その視線は、静かだが強烈な怒りを帯びていた。
早苗は一瞬だけ怯んだが、すぐに視線を鼻で笑うように受け流し、椅子にふんぞり返った。
「何よ、その目。そんなことしても、何も変わらないわよ」
早苗は足を組み、涼しげに言い放った。
絵莉花は机の引き出しからメモ用紙を取り出した。ペンを握ると、短い言葉を走り書きした。それを折りたたみ、早苗のほうへ滑らせる。
「何よ?」
早苗は眉をひそめ、メモ用紙を広げた。その瞬間、彼女の表情が一変した。
「ふざけるな!」
早苗は怒りで顔を真っ赤にし、立ち上がると絵莉花の首根っこ両手で締め付けた。
「く、苦しい! やめて!」
絵莉花は潰れたような声をあげた。その声に、早苗はハッとして後ずさりした。そして、自分の手をじっと見つめる。
「桂課長は私の虜よ。あなたの悪口、散々吹き込んであるんだから。もうここにあなたの居場所なんてないのよ!」
早苗は髪をかき上げながら吐き捨てると、ヒールの音を鳴らしながらオフィスから出て行った。扉が閉まる音が響くと、オフィスは再び静寂に包まれた。
「ほんと、バカな子……」
絵莉花は乱れた髪を手で整えた。一人残されたオフィスで、絵莉花は静かに息をついた。心臓は、まだ激しく鼓動していた。
机の上に目をやると、本の隙間にスマートフォンが立てかけてあった。
絵莉花はそれを手に取り、画面を確認する。そこには早苗とのやりとりが、一部始終が鮮明に録画されていた。妻子ある上司と付き合っていること、怒りに駆られて絵莉花の首を締めたこと、全て。
「これで十分……」
絵莉花は静かに微笑んだ。
机の上に放置されたメモ用紙を手に取る。早苗の怒りをかき立てた紙。
『あなたみたいな、脳みそが足りない人間が同期なのは恥』
この紙は、早苗の逃げ道を塞ぐ切り札だった。おかげで、暴力と言う行動に出てくれた。
絵莉花はメモ用紙を破って丸め、鞄に入れた。音声ではなく文字にしたのは、動画に余計な証拠を残さないためだ。
絵莉花は椅子に深く座り直し、ノートPCを操作し始める。『匿名通報サイト』を開きキーボードに文字を打ち込んだ。
『同じ部署の塩崎早苗さんは、妻子ある上司と不適切な性的関係を持っています。また、他人になり替わって、パワハラやセクハラの匿名投稿を繰り返しています。私は、被害者の一人です。この投稿は匿名ではなく記名で行います』
入力欄にカーソルを移動させると、絵莉花は少し指を止めた。そして、意を決して自分の名前を打ち込んだ。
絵莉花の心に達成感が広がっていく。早苗が匿名通報サイトへ投稿したと確信していたが、証拠がなかった。そこで、通報しそうなネタを提供し続けてきたのだ。
早苗が、長谷川の退職理由が「セクハラ」だと言った時、絵莉花は計画の成功を悟った。
「ごめんなさい、長谷川さん……でも、仕方がなかったの」
薄笑いを浮かべる絵莉花に、罪悪感の色はなかった。桂に頼まれた資料は作り終えていなかったが、ノートPCのディスプレイを閉じた。
――早苗も桂も、これで終わり。
絵莉花は立ち上がって窓から外を眺めた。
「ふー、モンスター退治、完了」
(了)
最初のコメントを投稿しよう!