コーヒーの香りと君

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コーヒーの香りと君

ヤカンで水道水を沸かして、挽きたてのコーヒーをペーパードリップで丁寧に淹れる。 最初に少し熱湯をそそいでコーヒーに含ませ、30センチくらいの高さから3回に分けて熱湯をそそぐ。そうしていると厨房が華やかで優しい香りに満たされる。 淹れたコーヒーを魔法瓶に移して、蜂蜜を用意して──。 「こんばんは」 ちりん、というベルの音と一緒に控えめな声が聞こえてきた。毎日の同じ時間の彼女だ。 「こんばんは、今コーヒー淹れたところだよ。今夜もいい天気でよかったね」 「うん、──あ、これ。マフィン焼いたから持ってきた」 そう言いながら、彼女がすうっと息を吸い込むのが見えた。コーヒーの香りだろう。 「ありがとう、じゃあテラスに行こうか」 「うん!」 テラス席では星空がよく見える。田舎の喫茶店の贅沢だ。夜景はないけど、星空は賑やかで星が降ってくるように思えるほど、ちかちかと競いあい輝いている。 * * * 彼女と出逢ったのは半年ほど前だろうか、日が落ちて閉店の準備をしようかと思っていたらドアのベルが鳴った。 「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」 初めて見る顔だった。田舎の喫茶店に来る顔は皆滅多に変わらない。毎日同じ人が集い、一人でゆっくり一服したり数人で世間話をする。 「あ、はい……」 彼女は少し戸惑いながら、奥の窓際の席に座った。それまでの動作が、迷い子になってひどく歩き疲れたような表情を伴っていた。 「何になさいますか?」 メニューをじっと見ている彼女に声をかけながら、テーブルにお冷やを置く。彼女は僅かに首をかしげながら「じゃあ……ブラジルをホットでお願いします」と小さな声で言ってメニューを閉じた。 「はい、少々お待ちください」 厨房に入り、豆を挽く。豆は注文を受けてから挽くから客を待たせてしまうけれど、その分美味しく飲んでもらえる。 コーヒーを淹れて、ふと彼女の疲れた表情を思い出して、砂糖とミルクの代わりに他のものを用意した。テーブルに運ぶと、窓からの景色をぼんやりと眺めていた彼女は案の定やや驚いた表情になった。 「えっと……これは、どう飲めば……」 「レモン果汁と蜂蜜です。疲れがとれますよ」 「……そんなに疲れて見えましたか?」 「そうですね、明かりが見えた喫茶店につい入ってしまう程度には」 微笑むと、彼女が僅かにはにかんだ。 「じゃあ……いただきます」 「はい、冷めないうちにどうぞ」 彼女がそっとレモン果汁と少しの蜂蜜をカップに垂らしてスプーンでかきまぜ、香りをかぐ。それから口をつけて一口飲んだ。 「おいしい……」 コーヒーの香味と、爽やかでいてどこか懐かしい味わいに、思い詰めたように固かった彼女の表情がほうっとやわらぐのが分かった。 「すごいですね、こんなおいしいコーヒー初めて飲みました」 「ありがとうございます。閉店時間は決まっていませんので、ごゆっくり休んでいってください」 彼女の素直な感嘆に、心から微笑んで答える。客商売だから、常に穏やかな話し方を心がけていたけれど、なぜだろう、今までに出したことのないほど優しげな声が出た。 彼女は二十代半ばくらいだろうか。控えめなレースのついた白いブラウスにベージュのスーツを着ている。顔立ちは地味でも派手でもなく、薄化粧が透明感のある肌を引き立てていた。 「……あの、ここは煙草吸えますか?」 「はい、大丈夫ですよ。ただ今灰皿をお持ちします」 ちょっとした上目使いが、顔より若く聞こえる声と合わさって可愛く見えてしまう。不思議に思いながら厨房に戻り、臭い消しにコーヒーを淹れた残りの粉を盛った灰皿を用意して彼女の席に戻った。 「お待たせいたしました」 「ありがとうございます。……何だか、すごく丁寧なんですね」 「個人営業ですから、自由にできてるだけですよ。でも、そう言って頂けると嬉しいですね」 「自由……いいな、落ち着きます」 何か訳ありでさまよい、訪れたのだろうかとも思ったけれど何も訊かずに笑みを返す。彼女はベビーピンクのシガレットケースから細い煙草を一本取りだし、口にして火をつけた。深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。ため息のような動作の後、目蓋を伏せた。 「……このお店、素敵ですね。BGMもなくて静かで……席を立つのが嫌になりそう」 「ありがとうございます。喫茶店冥利に尽きます」 言い回しがおかしかったのか、彼女がくすっと笑ってカップを口許に運んだ。一口ひとくちを大事そうに飲む姿は心を温かいもので満たした。 ──それから、彼女は毎晩同じ時間に来店するようになった。始めの何度かは彼女が注文したコーヒーを出していたけれど、いつしか、その時のお勧めに任されるようになった。 彼女はいつも喜んでくれた。 お勧めで任されるようになったのは、彼女が目の下に隈を作って訪れた夜だった。 「こんばんは、いらっしゃいませ」 「……こんばんは」 声には力がなかった。奥の窓際の席に座り、メニューを見るというよりは、ぼんやりと眺めている。 「今夜は僕のお勧めにしてみませんか?」 だから、申し出た。彼女は、その言葉にはっと顔を上げて「じゃあ、お願いします」と答えた。そこには微かな期待が生まれていた。それを嬉しく感じながら厨房に入った。 深煎りの豆を挽いて丁寧に淹れる。仕上げにリキュールを垂らして、生クリームを乗せた。 「お待たせいたしました」 「……カプチーノですか? あれ、でも香りが……」 「カフェ・カルーアです。気持ちがやわらいで眠りやすくなりますよ」 彼女はカップを見つめていた。絡まって止まってしまっていた心のなかの何かが、ふつりとほどけたようだった。それが、彼女の瞳から分かった。 「……お医者さんみたい。私のこと、一目で見抜いちゃうなんて」 少し表情を明るくして、スプーンで生クリームをかき混ぜてからカップに口をつける。凍えた何かを温めるように、両手でカップをおし包みながら飲んで深く息をついた。 「……おいしい。カルーアミルクなら飲んだことあるけど、香りが全然違いますね」 「ありがとうございます。今夜は眠れそうですか?」 「はい、こんなにおいしいお薬を飲めたら、嫌な夢も跳ね返してくれそうです」 「よかったです。どうぞごゆっくり」 ほんのカップ一杯分の元気。それをもたらすことができて、笑顔が自然とわいてくる。彼女はもう一口飲んで、一瞬動きを止め、それから顔をこちらに向けた。 「……あの、私コーヒーには詳しくなくて。これからはマスターにお任せしてもいいですか?」 喫茶店を始めて10年以上になるけれど、メニューを任されるのは初めてだった。大抵の客はお気に入りのコーヒーを見つけるまで何度か違うコーヒーを注文して、それからは「いつもの」と言うようになる。 でも、彼女の些細な変化を見てとり、そのときに合ったコーヒーを淹れることは面倒だと感じない。むしろ、楽しみになってきた。 「構いませんよ、やりがいのある仕事になりそうですね」 「ありがとうございます、早く明日にならないかなって思えてきました。明日のコーヒーが楽しみ」 彼女が顔をほころばせた。 ──それからは、毎日訪れる彼女の第一印象を見てコーヒーを淹れた。一番のお気に入りは、浅煎りの豆を使って蜂蜜を少しだけ加えたコーヒーだと分かるようになった。 コーヒーを飲むたび、彼女はうち解けていった。身の上話は一切しなかったけれど、その日その日のコーヒーについて話したり、この喫茶店について訊いてきた。 二人でテラス席に並んで座るようになったのは、彼女から丁寧語が抜けた頃のことだ。いつもの窓際の席からはテラス席が見える。冬の間はほとんど使われないけれど、今は春だから傍らにある桜の木が映えて楽しめる。 「……あの、外の席で飲んでみていい?」 「いいよ、じゃあ少し待ってて」 興味深そうに窓からテラス席を見ながら切り出した彼女に頷いて、喫茶店の二階にある自宅に行く。大きなブランケットを出して喫茶店に戻った。 「まだ夜はちょっと冷えるから、これ使って」 「わ、ありがとう! 外の席気になってたの」 「テラス席はハードル高いよね。一度試してみると穏やかな気候なら気持ちいいんだけど。今夜は晴れてるから、夜桜と星空が楽しめるよ」 立ち上がった彼女をテラス席に案内しながら話すと、彼女は弾んだ足取りでついてきた。胸元で両手を組んで顔を輝かせている。 「すごい、夜空がひらけてる……星空っていうと冬の第三角形くらいしか思いつかなかいけど、春でもこんなに星が出てるんだ……」 「空気が澄んでるから一年中綺麗に見えるよ。左手側には桜が街灯に照らされてる。今の季節の昼間はテラス席が人気あるかな」 テラス席の一番奥に着いた彼女の膝にブランケットをかけながら説明する。彼女は子供のようにはしゃぎながら夜空と夜桜を交互に見つめて、感嘆の息をついた。 「ありがとう。……綺麗……夢みたい」 「喜んでもらえたらよかったよ。じゃあ、コーヒー淹れてくるから一服しながら待ってて」 テーブルに灰皿を置いて、嬉しそうにシガレットケースを取り出す姿を見てから厨房に入る。何にしようか考えて、熱いコーヒーを長く楽しめるように魔法瓶に詰めることにした。 お気に入りのコーヒーと煙草と星空と夜桜。彼女にとって、小さな幸せを味わえる特別なひとときになればいい。 「お待たせ。のんびり楽しんでいって」 「ありがとう!……あの、マスターも一緒に見ない?」 彼女の誘いに僕は破顔し、ためらいなく頷いていた。 * * * それは、日常のなかの昼下がりだった。 「マスター、まだ結婚しないのか」 杖をついて毎日来店して、普段から人懐っこく話しかけてくる男性客がカウンター席から笑い混じりに訊いてきた。 「こればっかりはご縁ですからね」 何度か繰り返したやりとりだ。確かに、年齢的には結婚して子供がいてもおかしくはない。友人の大半は既婚者だ。呑みに行くと、子供の写メを見せてきたり、ちょっとした愚痴を聞かされたりする。 「何だ、つまんねえな。うちの孫でも紹介してやろうか」 「お孫さん、まだ中学生じゃないですか」 本気で言っているわけではないと分かっているので、こちらも笑って返す。いつもなら、それで話は終わるはずだった。 「でも、付き合ってる子ぐらいいるんだろ?」 「企業秘密です」 コーヒー豆を挽きながら冗談めかしてごまかす。不意に毎晩訪れる彼女の顔が浮かんだ。 その時、テーブル席で顔馴染みと世間話に花を咲かせていた初老の女性客が声を飛ばしてきた。 「あら、お付き合いしてる人ならいるんでしょう? うちの旦那が夜に犬の散歩してたら、外の席で若い女の子といい雰囲気だったの見たって言ってたもの」 「え? 何だよマスター、やるなあ」 迂闊だった。店の前の通りは、昼間なら軽いハイキングコースへの入り口に続く道だけれど、夜はあまり人が通らない。でも、犬の散歩には便利な道でもある。 「あの方はただのお客様ですよ」 そうだ、“お客様”だ。言い聞かせながら否定する。けれど、一度盛り上がった常連客の人達は収まらなかった。 「そんな、照れなくてもいいのよ。うちの旦那ったら挨拶するの遠慮したってくらい仲よさそうに並んで座ってたって話してたわよ」 「そうかあ、独身貴族のマスターにもついに春が来たってわけか。どんな子だ?」 「それが、暗いからよくは見えなかったみたい」 「じゃあマスターに訊くしかないってことか」 「いえ、だから彼女は……」 交際はしていない。艶めいた会話を交わしたこともない。晴れた夜に二人で星空を眺めながらコーヒーを飲むだけで、互いの名前さえ知らない。 「恥ずかしがる年でもないだろ、マスター」 常連客からの言葉に困り果てながら、今さらになって彼女のことを何も知らない自分に胸が詰まった。 彼女は──何だろう? 当たり前に接してきた“客”じゃない。 * * * 常連客の人達に散々ひやかされた日の夜、心が混乱して落ち着きなくテーブルを拭いたりしながら今夜はもう店を閉めようかとさえ思っていると、彼女がどこか晴れ晴れとした表情で訪れた。 「こんばんは、マスター」 「あ、こんばんは。いらっしゃいませ」 「……? マスター、どうしたの?」 「えっ……」 「難しい顔してる」 あからさまに顔に出ていたのかと動揺する。 「いや、昼間ちょっとお客さんにからかわれただけで……駄目だな、接客業なのに」 苦笑いで曖昧に答えると、彼女が笑って「マスターだって人間だもん、そういうこともあるよ」とフォローしてくれた。 今夜の彼女は、いつもより綺麗に見えた。袖の先がフリルになっている白いカットソーに、レース模様の黒いチュールスカートと可愛い花のついたパンプス。雑誌のモデルが飛び出してきたようだった。髪もゆるくカールされて輝いている。 「あ、……今日は随分おしゃれしてるね。出掛けた帰り?」 正直、真っ直ぐ見るのが照れくさい。昼間のことのせいで、どうしても意識してしまう。更には今夜の彼女が眩しくて追いうちをかけている。 「ううん、ただ、今日は記念日だから」 「記念日?」 わざと自分を浮き立たせるような笑顔で、彼女は提げていた紙バッグを掲げてみせた。 「これ、いつものコーヒーに入れたらおいしいかなって」 言いながら中身を取り出す。大きな賞を取ったこともある有名なウイスキーのボトルだった。しかも25年ものだから、結構な値段だったはすだ。 「贅沢なコーヒーになるね」 「でしょう? 今夜もよく晴れてるし、とびっきりの時間がすごせるかなって」 「いいね、じゃあコーヒー淹れてくるから待ってて。灰皿はもう置いてあるから」 「ありがとう、今日はあんまり煙草吸えてないから助かる。コーヒー楽しみにしてるね」 今にも鼻歌を歌いそうな雰囲気で彼女がテラス席に向かう。席に座ると、すぐにシガレットケースを取り出して煙草に火をつけた。背もたれに身を預けて長く煙を吐き出す。張り詰めていたものが弛緩したような仕草だと感じた。 そこで、仕事も忘れて彼女に見入っていたことに気づき、慌てて厨房に入る。雑念を振り払いたくて、ひたすら丁寧にコーヒーを淹れた。 でも、引っ掛かる。記念日──何の記念日なのだろう? 見当もつかなかった。 「──お待たせ」 コーヒーを持って行くと、彼女が新しい煙草に火をつけているところだった。灰皿には、既に三本の吸い殻がある。 「今日は煙草結構吸ってるね」 「うん、ようやく区切りがついたと思うとね」 どこか遠い目で笑い、煙を吸い込む。細く長く吐き出した煙は、夜風に紛れて消えていった。 「区切り? 記念日と関係あるとか?」 隣に座り、カップにコーヒーを注いでウイスキーを香りづけに垂らして手渡す。いたずらな夜風が彼女の甘くほんのりとした匂いを届けさせて心臓が跳ねた。 「うん、そうだね……ねえマスター、聞いてくれる? 楽しい話じゃないんだけど」 「? いいよ、気にしないで」 視線が合わさり、彼女の瞳が何かを訴えているように見えて頷く。僅かな緊張を孕んだようなそれは、初めて見る表情だった。 「……今日で、離婚して半年になったの。相手は大学の頃にサークルで知り合った先輩でね。いつも明るくて、一緒にいると楽しくて……すぐに付き合うようになってた」 コーヒーに蜂蜜を混ぜながら一息に話す。コーヒーの香りをかいで、そっと一口飲んで、灰皿に置いていたまま灰の進んだ煙草をもみ消した。 「……おいしい。それでね、私が妊娠して……もう卒業して就職してた彼が結婚しようって言ってくれて……幸せだったんだけど……籍を入れてすぐに、流産しちゃって」 「それは……悲しかったね」 「うん、悲しかった。毎日泣いて泣いて……彼は何とか励まそうとしてくれてたんだけど、私が悲しみすぎて受けつけなかったの。家のなかの空気はかなり重かったと思う。彼は子供ならまた作ろうって言ったけど、失なった命は返らないじゃない、また流産するかもしれないじゃないって言い返して泣いて……どうしようもなかった」 その頃を思い出したのだろう、彼女の声が微かに震えて表情が翳る。酒を呑むようにコーヒーを飲み、煙草に火をつけた。情けないけれど、気のきく言葉がなかなか浮かばなかった。ただ、彼女の話を聞いた。 「……そうしているうちに、彼は耐えられなくなったのかな、会社の同僚と浮気しちゃって……浮気が本気になっちゃって……別れたの。その日だった、初めてこのお店に来たのは」 ああ、と思った。だから最初に訪れたあの夜、彼女はあんなにも心細いような、疲れた顔をしていたのかと。 彼女は息をつく所作で煙を吐いて曖昧に笑った。 「それで、離婚して……今日で半年になったの。これで晴れて自由の身ってわけ」 女性は離婚しても半年は再婚できない縛りがある。彼女が言っているのは、そのことだろう。 「じゃあ、うちに初めて来たときは……」 「離婚した次の日かな。仕事帰りに電車に乗って、今まで何だったんだろうって考えてたら終点まで乗り過ごしちゃって……乗り換えて帰るにも、あの一人きりの部屋に帰るのが虚しくてね。駅を出てぼんやり歩いてたら、このお店の明かりが見えたの。……とにかく休みたかった」 「……辛かったんだね」 からになった彼女のカップにコーヒーを注ぐ。彼女はウイスキーのボトルを持ち、少し多めに垂らした。蜂蜜を加えて、そっと飲む。 「……でも、このお店を見つけられてよかった。毎日のコーヒーがおいしくて、ゆっくり休めて」 そう言って笑う顔は朗らかで、苦いものを乗り越えた安堵が見えた。どうしてか、それが心をときめかせた。胸が苦しいのに、弾んでいる。 「マスター、いつも私を見抜いて気遣ってくれたでしょ? 癒されるって、こういうことなのかなって」 気遣う。なぜ、自分は彼女の日々の様子を見てきたのだろう。なぜ、それが楽しかったのだろう。自問していると、彼女が前を向いて夜空を見上げた。 「ねえ、……月が美しい」 月が美しい──夏目漱石が“I love you”を和訳した言葉だ。初めて知ったときには、意味が分からなかったけれど、今なら分かる気がした。月は温かいように輝いている。それが彼女を美しく照らしている。 自分の感じ方は飛躍しすぎているのかもしれない。思い違いかもしれない。彼女がこちらに向き直る。瞳があやしく月のように輝いている。 胸の高鳴りは、もう抑えられなかった。 「そうだね、……“月が美しい”」 言霊に籠めた心は、通じたのだろうか? 二人の間にだけ働く引力が距離を縮める。彼女の顔が近くなり、間際に瞳を閉じるのが見えた。 重ねた唇は柔らかかった。 触れるだけの口づけを繰り返し、ついばむ。微かにコーヒーの香りがした。それを追い求めるように口づける。 テラス席は外だ。また犬の散歩をしている人にでも見られるかもしれない。でも、そんな心配は吹き飛んでいた。見られてもいい。今の彼女を手離したくない。 一瞬の口づけを何度もしてから名残惜しく唇を離すと、彼女はとろけるように笑った。 「……何か、今日は帰りたくないな。もっと一緒にいたいの」 彼女が声を低めて囁く。今にも抱きしめたい衝動に、心臓がどきどきと早鐘打った。 「僕も……帰したくない。もっと……触れていたい。嫌?」 押し出した声は緊張に掠れていた。 「嫌じゃない。嬉しい……ねえ、今さらだけど、名前教えて? 私は明日香」 「明日香……いい名前だね。僕は幸哉」 「ゆきや、さん……」 そこで、ふと彼女が僕の手を取って頬にあてた。なめらかな肌の感触は吸い付くようで、ウイスキーのせいか温かく心地よかった。その流れで見つめあい、また唇を重ねた。 口づけは、どこまでも求めあい深くなってゆく。狭間に触れる彼女の吐息は湿っていて、洩れる短い声が艶かしく情欲をかきたてた。 その夜、僕らは結ばれた。彼女の体は窓からの月明かりに美しく照らし出され、熱かった。 * * * 「幸哉さん、おはよう」 「おはよう、まだ寝ててもよかったのに」 「でも、コーヒー飲みたくて、つい」 朗らかに笑う明日香が二階から降りてきてカウンター席に座る。最近は砂糖も蜂蜜も入れないカフェラテを出している。 初めて結ばれてから四か月が経つ。あれから彼女は僕の家に引っ越してきて、それからすぐに煙草をやめた。本当においしそうに吸っていたから、吸いたくならないのと訊くと、溜め息の代わりだったから今はもう要らないと笑った。 そして、彼女のお腹には二人の間に授かった命が育っている。 「はい、どうぞ」 「ありがとう、いい香り」 毎日の同じやりとりだけど、毎回新鮮な喜びを交わす。彼女は幸せを隠さない。僕に見せる至福の表情はコーヒーの甘い香りと相まって二人の時間を特別にする。 「……おいしい。幸哉さんのコーヒーは幸せの香りがするんだよね。初めて飲んだ時から思ってた。幸哉さんの香り」 「ありがとう。……明日香の為だけに淹れてるからかな。開店時間中はあれだけど」 でも、店にも小さな変化があった。彼女が日常生活に加わってから、コーヒーの味にまろやかさが増したと褒められるようになったのだ。 自分の幸せが、他の人にプラスに作用して喜んでもらえる。幸せは増幅して広がる。喫茶店をやっていてよかったと思えて、もっと頑張れるようになる。 「明日香、これ今日のモーニングセット」 「わあ、おいしそう!」 ふんわりと、とろみの効いたスクランブルエッグにエシレを塗った薄切りのトーストに温野菜のサラダをワンプレートでまとめて彼女の前に置く。彼女は嬉しそうに手を合わせて「いただきます」と言った。まず、サラダを口にする。 「おいしいね。ドレッシングの味変えた?」 「よかった。そうなんだよ、これは明日香だけの配合。お腹の赤ちゃんも喜ぶように」 「ありがとう……幸哉さん、きっといいお父さんになるね」 そう言う彼女があまりにも幸せそうだったので、幸せが伝播して思わず涙がにじみそうになった。ごまかして「カフェラテのおかわりは?」と明るく問いかける。 「うん、飲みたい。ねえ、幸哉さんも一緒に飲もう。もう少ししたら忙しくなっちゃうでしょ?」 「そうだね、そうしようか」 彼女にはカフェラテ、自分にはアメリカンを淹れる。周囲がコーヒーの香りに満ちる。“幸せの香り”だ。 コーヒーの香りは昔から好きだったけれど、彼女と出逢ってからは、もっと特別なものになった。二人を結びつけた天使の一杯だ。 「……明日香、ええと……ずっと一緒にコーヒー飲もうな」 だから、愛していると言う代わりにそう語りかけた。 「……うん。ずっと一緒にね。たまには喧嘩することもあるかもしれないけど、そうしたら二人でコーヒー飲もう。すぐに仲直りできるよ」 「そんな時は思いっきり気持ちをこめて淹れるよ」 「ええ? 喧嘩するのも楽しみになっちゃうよ」 彼女にカフェラテのおかわりを出して、隣に座る。湯気が優しくたちのぼっている。 ……なあ、明日香。 君がこの喫茶店に辿り着いて、僕が少しでも元気づけられるようにコーヒーを淹れて。 それは、今までの日々を幸せに結びつけるための運命だったんだと思うんだ。 例えば、もしこの世界からコーヒーがなくなっても人は生きていけるだろう。でも、コーヒーは人に安らぎをもたらす。少なくとも、コーヒーは僕たちの人生をより豊かに優しいものにしたんだ。僕に、誰かを思いやる気持ちと、そうすることで返ってくる喜びを教えてくれた。 コーヒーはささやかな幸せを生み出す愛の飲み物だと言ったら、君は笑うだろうか? きっと、笑いながら頷いてくれると信じている。 アメリカンを口に含み、芳香を確かる。 今日も心を潤すコーヒーを淹れられることを確かめて、彼女と大切なひとときをすごした。 【完】
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