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狂ったキッチン
毎朝五時に起きて朝食と夫のお弁当を作る。料理は好きだ。
今朝はとろみの効いたオムレツに野菜と果物のスムージー、トーストしたバケットに発酵バターを塗り、浅煎りの豆を使ったアメリカンコーヒーを用意した。
そして六時半、寝室でまだ寝ている夫に声をかける。
「政弘さん、起きて。もう時間だよ」
夫は低血圧だから、何度か繰り返し声をかける必要がある。なるべく優しい声音で、そっと、けれど根気強く。
「政弘さん、朝ご飯できてるよ。今朝はオムレツが綺麗に焼けたの」
「……んー……あと五分……」
夫はミノムシのように布団にくるまっている。寒いほどエアコンをかけながら布団を被って寝るのが癖だ。
「だーめ。起きて? ご飯食べる時間がなくなっちゃう。食べないで出たら力が出ないよ?」
夫の仕事は高校の教員だ。若い生徒に囲まれて教鞭をとるのはエネルギーを使う。たまに若さにあてららる時もあるらしく、家に帰ってきてから少しぼんやりすることもある。部活の担任も受けているから、なおさらだ。
だからこそ、朝はしっかり食べて元気に出勤して欲しい。
「政弘さん、ほら起きて。今朝はコーヒーも美味しく淹れられたの。アメリカン好きでしょう?」
布団に手をあてて、軽くぽんぽんと叩く。すると、夫は寝返りをうって片手で目をこすった。起きるサインだ。
「おはよう、まだご飯温かいよ」
「うん……食べる」
「じゃあ、顔洗ってきて」
「分かった……」
頷く夫が本当に起きるまでは寝室から出ない。寝直してしまうからだ。
今朝の夫は、夢見がよかったのか、わりとすぐに起きてくれた。
「あー……おはよう」
「はい、おはよう」
「美味しそうな匂いがする……」
「ありがと。早く食べにきてね」
「うん、起きる。……今日は放課後に会議があるから」
「じゃあ、できたてが出せるように……ミートソースのパスタとシーザーサラダにするね」
パスタは夫の好物だ。同棲時代に様々なソースを覚えた。
「……よし、顔洗ってくる」
夫がむっくりと起き上がって伸びをする。
一日は朝食から始まる。
その日の朝も、健やかに始められるように気を配っていた。
けれど。
コーヒーを口にした夫は、僅かに顔をしかめた。
「……これ、何か臭わないか?」
「え? 私には分からないけど」
「気のせいかな……変な臭いがする」
「変な臭いって……私には何とも感じないけど……どんな臭い?」
コーヒーを試しに一口飲んでから問いかける。コーヒーの馥郁とした甘い香りは、心地よいものだから夫か自分の鼻に異常があるのだろうか。
夫はコーヒーにそろそろと口をつけ、ほんの僅か口に含んで、「ごめん、飲めない」とマグカップを置いた。
「何か……生臭いような、鼻がしみるようなすごく嫌な臭いなんだよ」
「そうなんだ……何が悪いんだろう。いつも通りに淹れたんだけど」
「……ごめん」
夫が気まずそうに重ねて謝る。「ううん、謝らないで」と顔の前で手を振った。
「政弘さんのマグカップに何かついてたのかも。漂白しておくね。他のカップにコーヒー注ぎなおそうか」
コーヒーを遠ざけてオムレツをつつき始めた夫に訊ねる。けれど、夫は渋そうな顔で「いや、いいよ」と断った。
「多分、変わんないよ。……お前のカップからも同じ臭いがするから」
ますます分からない。夫にしか感じとれない異常は、夫にとっては相当不快な臭いらしい。鼻と口を手で覆ったり、顔をそむけている。
「じゃあ、コーヒーは下げるね」
このままでは食事にならない。急いで二つのマグカップを手に取り、流しに捨てた。念のためマグカップを二つとも漂白剤に浸し、流しで手を洗ってから、コップに牛乳を注いでテーブルに戻る。夫はオムレツを食べ終え、バケットをかじっていたが、飲み物がないので食べにくそうだった。
「はい、牛乳」
「ありが……」
夫の前にコップを置くと、顔を上げたところで固まった。夫の眉間に皺が寄る。
「?……どうかした?」
夫は恐る恐る牛乳で満たされたコップを手にして口をつけ、それから勢いよく半分飲んだ。それから、「牛乳じゃなかった」と独りごちて、言いにくそうに「何だろう、お前の手から臭いがした」と告げた。
「え? 手から? 今洗ってきたのに?」
「……いや、多分俺の気のせいだよ。あんまり凄い臭いだったから、鼻に残ってたんだろ、きっと」
「そんな酷い臭いなんだ……」
軽くショックを受けて、テーブルに置いてある除菌ジェルをプッシュして手にすりこむ。夫はもう何も言わなかったが、飲み込む時に必ず牛乳を使っていた。
何だか、いたたまれない。夫は七割方食べたところで席を立ち、支度して出るよと足早に食卓から離れてしまった。ごちそうさまさえ言い忘れて。
※ ※ ※
「……ふう」
夫を見送り、布団を干して洗濯をして、洗濯機が動いている間にベッドと床に掃除機をかけ、その後、洗濯機から衣類やシーツを出して干す。
次に浴室を掃除して、家事が一段落したところで、バターを使った塩パンとカフェオレで簡単な昼食を済ませ、夕食に足りないものを買いに出ることにした。
徒歩でスーパーマーケットに行き、野菜から見て回る。いいゴーヤがあったので、シーザーサラダの予定を変更し、ちりめんじゃこも一緒に買って、家にあるキャベツも使って夏サラダを作ることにした。
そこで、ふと今朝の夫を思い出す。コーヒーから臭いがあると言って、過剰なまでに反応していた。あれは──何が原因だろう?
牛乳は大丈夫だった。コーヒーに使って牛乳には使っていないもの……コーヒー豆と水?
コーヒーは豆を挽いてもらってまだ2日しか経っていない。傷んでいるはずはない。だとしたら水なのだろうか。
夫にしか感じられなかった臭気。でも、夫は確実に感じているのだ。
何とかしなければ。
夏サラダには、胡麻油でこんがりと炒めたちりめんじゃこに、キャベツの千切りと薄切りしたゴーヤを水にさらして使う。もし水が原因なら、水道水がいけないことになる。
ミネラルウォーターも買わなければ。サラダに使う分と、パスタを茹でる分。食器は洗った後、丁寧に拭けば大丈夫だろう。
カートにミネラルウォーターの2リットルボトルを3本入れる。重い。これを歩いて持ち帰らなければいけないのかと思うと、気分も重くなる。だけど、夫に安心して食べてもらいたい。
それにしても、昨日までは何ともなかったものが、なぜ今朝になって駄目になったのか。自分には分からないが、マンションの貯水槽に何かが混入したのか?
もし続くようなら、管理組合の理事長を務めている人のところへ行って、管理会社から業者を派遣してもらわなければ。それは、夫以外にも臭気を感じている人もいるかもしれないのだから、難しいことではないだろう。
会計を済ませ、エコバッグの底にミネラルウォーターを詰め、その上に他のものを置いて肩にかけて自宅に向かい歩きだす。荷物の重みが肩に食い込んで痛い。夫のためだと言い聞かせる。イレギュラーな事態に対する高揚感がわいた。
まだ、それだけの余裕があったからよかった。これでもう平気だろうと思えて、楽だった。
そして何とか帰宅して、残りの家事を片付けて、夕食の仕込みを済ませる。ミートソースを作り、ボウルにミネラルウォーターを注いでキャベツの千切りとゴーヤの薄切りを浸ける。これでゴーヤの苦味がやわらぐ。
あとは、テレビの音を聴きながら洗濯物を畳んで、ベッドにシーツを張って……。
「今の時間って面白い番組あんまりないんだよね……」
とりあえずチャンネルを切り替える。不意にニュース番組の声が耳に入った。
「県立……高校の2年生の女子生徒が、物言わぬ姿で家族に発見されたのは、今朝未明のことでした。彼女は半月ほど前から不登校になり、部屋に閉じ籠もっていたそうです」
「え……この高校、政弘さんの勤め先じゃない!」
嫌な予感と、今頃職員は皆大変なことになっているだろうという予測で胸がぶつぶつと鳴りだした。
夫は今頃どうしているだろう? 夫に関わりのある生徒なのか? 夫のクラス担任は1年生だ。亡くなった生徒とは学年が違う。不安ななか、その事実に胸を宥める。
しかし、夫は夜の10時をすぎても帰ってこなかった。連絡さえない。心配はぶり返し、不安は高まり、LINEで「ニュース見ました。今日は何時ごろに帰れそう?」とメッセージを送ってしまった。でも、返事どころか既読にさえならなかった。
サラダのちりめんじゃこは熱いうちの方が美味しい。サラダボウルにはキャベツとゴーヤだけを盛りつけ、ダイニングのテーブルでテレビのニュースを探しながら夫の帰宅を待った。ニュースはどこも同じことを繰り返し、続報もないままに、もっとセンセーショナルなニュースへと変わってしまった。
もう、深夜0時を過ぎただろうか?
玄関の鍵をまわす音が聞こえてきた。ハッとして、弾かれたように立ち上がって玄関へと小走りに向かう。玄関のドアが開くと、目の前に夫の姿が現れた。
「政弘さん……」
夫はやつれていた。瞼が落ち窪んで髪が乱れている。薄く開いた口元は力を失って開いているのだと分かった。
「……遅くなってごめん」
「ううん、そんなの……ニュース見たから……」
痛ましさと労しさに心が塞がれる。夫は「……そうか」と呟き、靴も脱がず、たたきに座り込んだ。
「……俺が監督してる部活の生徒だったんだ……」
うつむいて吐き出した声は掠れていて、感情の磨り減った、疲れきったものだった。
「……どうして……いじめとかあったの……?」
最悪の展開になってしまった。夫は苦汁を飲むような顔で、「……俺が見ている限りでは、いじめはなかった」と絞り出した。夫の目が届かないところでは、何があったか分からないということかと解釈する。
夫は、たったの1日で頬がこけ、別人のように痩せたと見えた。保護者や生徒達への対応と説明はどれだけ消耗させただろう。相手の反応に、どれだけ苛まれただろう。
「……夕飯は?」
「──食欲ない」
夫は開いたままの口から、長く重く息を吐いた。口が渇ききっているのか、微かに口臭がした。
「駄目だよ、少しでも食べておかなきゃ体がもたないよ。……今日だけで終わるんじゃないんでしょう?」
「…………」
今の夫には残酷な言葉だったかもしれない。
でも、これは現実問題だ。遺族はそう簡単には納得できない。原因の究明は明日からより一層厳しくなるだろう。校内にいる、友達を、仲間を、先輩あるいは後輩を亡くした生徒の心のケアもある。
問題は山積している。対処してゆくためにも、力をつけなければ。
「……少しでいいから食べて。朝、コーヒーから臭いがしたって政弘さん言ったでしょう? 水が悪いのかと思って、ミネラルウォーター使うことにしたの。……ね?」
夫の背に手を添えて、そっとさすりながら顔を覗きこむ。夫はしばらく気が乗らなそうに躊躇っていた。しかし、食べなければ生きてゆけない。生きて責任を全うしなければならない立場にある夫は、食べなければいけないのだ。
「……じゃあ、少しだけ。お茶漬けみたいなものがいい」
「分かった。すぐ仕度するから、テーブルについて待ってて」
夫が一度俯き、再び息をついてから、のろのろと靴を脱いで立ち上がる。靴は夫の気持ちを表すように放られた。
すぐにキッチンへ向かい、冷凍ご飯をレンジに入れてから、ミネラルウォーターをやかんで沸かす。サラダならあっさりしていて食べやすいだろうと、ちりめんじゃこを胡麻油できつね色になるまで炒めた。
お茶を淹れて、冷蔵庫からタラコを出す。夏サラダも出来上がった。解凍したご飯を茶碗に少なめに盛りつけ、テーブルへと全てを運ぶ。
夫は放心していたが、食事が運ばれると、目付きが変わった。
「……これ」
そして、身を乗り出してテーブルに両手をつき、料理に顔が付きそうなほど近づけ──。
「……どうしたの? 何か……」
毒を盛られたことに気づいた犬にも似た形相は明らかに異常で、夫の急変に、背筋に冷たいものが流れる心地がする。
夫は、料理から顔を離して立ち上がった。
「……悪い。食べられない」
「……え? でも……」
「……臭うんだ。食器から凄い臭いがする」
「……そんな……」
「……ごめん、寝るよ」
夫は少し覚束ない足取りで寝室へと消えた。
取り残され、呆然閉じた後、試しに食器へと顔を近づける。
何の臭いもしない。温かい料理の芳香だけがした。
それから、夫は家で食事を摂らなくなった。
何とかしたくて、浄水器を購入してみても変わらなかった。夫にしか分からない悪臭は、日に日に酷くなり、夫はキッチンと食卓に近寄らなくなった。小さな冷蔵庫を購入して寝室に置き、飲み物や軽い食べ物を入れるのに使うようになる。
その姿を見て途方に暮れながら、一つ思いついた最後の手段をとることにした。
その悪臭が、本当に夫にしか感じられないものなのか。
* * *
「……同僚を呼べ?」
ある日、遅くに帰宅した夫を待ち受けて話を持ちかけた。
「そう、そこで私が料理を振る舞うから。……そうすれば、臭いが政弘さん以外の人にもするか分かるでしょう?」
「……でも……」
夫は気乗りしなさそうな様子だった。それもそうだろう、食事の席をもうけてしまえば、自分も臭いに耐えて着座していなければならない。今の夫には、どれだけの苦痛だろうと察する。だが、だからこそ引けない。
「お願い。はっきりさせたいの。もし他の人にも臭うなら、業者を呼んでもらって貯水槽を調べればいいでしょう?」
「それは、そうだけど……」
「──じゃあ、決まりね。次の金曜日、職場の方を呼んできて。人数は分かり次第LINEで知らせて」
両手を顔の前で合わせて、畳み掛けるように「お願い!」と言うと、夫は溜め息をついてから「……分かったよ」とようやく頷いた。
その後、人数は5人と決まった。いつも話に聞く親しい人の名前はなくて首を傾げたが、女子生徒が亡くなった事件はまだ収束していないのだ。その生徒に近しく関わっていたとすれば、うちに呑みに来る余裕などないだろうと解釈した。
それは甘い考えだった。金曜日の夜、夫が追加の酒を買いに出た後で、同僚の一人がこっそり耳打ちしてきた内容で思い知ることになる。
──それは、次の料理を出そうとキッチンにいた時のことだった。
お客として呼んだ教員のうちの一人がキッチンに来たのだ。
「すみません、水をもらえますか」
「あ、はい」
「それにしても、持田先生は幸せ者ですね、こんなに料理上手の奥さんがいて」
「……あの、その料理なんですけど……」
浄水器から水を注いで手渡しながら問いかけることにする。今のところ、5人が5人とも料理を褒めるばかりで、異常は感じられなかったが、お世辞もあるだろうと思っていた。
「何か……臭いはありませんでしたか?」
「におい? ええと、どれも美味しそうな匂いでしたけど」
「そうですか……」
嘘を言っているようには聞こえない。現に、追加の料理を作るほど、皆綺麗に平らげてくれている。
だとしたら、やはりあの悪臭は夫だけにしか分からないのか。なぜ、夫にだけ分かるのか。夫は何か異常があるのだろうか。
「あの……こんなこと、僕が言うのも何なんですけど」
「?……はい」
水を受け取った教員は、立ち去ろうとしなかった。水を一気に飲みほし、コップを所在なさげに持ちながら、何かを迷っている様子だった。
「あの……亡くなった生徒のことなんですけど」
「……夫から話は伺っております」
「そうですか……原因などは?」
「いえ、そこまでは……」
この人は何を言おうとしているのか。不安に胸がざわめいた。何か、水面に石を投じることを言おうとしているのは明らかに受け取れた。
教員は考え込んだ後、真っ直ぐに見つめてきて口を開いた。
「あの生徒からは……持田先生は毎日お弁当を受け取っていたそうです」
「……え……?」
弁当なら、毎日持たせていた。にもかかわらず? しかも女子生徒から?
表情が強張ったのを見てとった教員が慌てた。
「いえ、それ以上の関係はなかったそうです。ただ、持田先生も戸惑いがあったようで、向坂先生に相談されて……もう受け取らないことにされたみたいで」
向坂先生、というのは夫が一番親しくしている教員だ。こうなる以前はよく話に聞いていた。今日は来ていない。
──もしかして、向坂先生から話が漏れることを恐れて?
「……それで、その生徒さんは」
訊ねると教員は再び迷いを見せた。しかし腹をくくったのか、ひそめた声で答えた。
「翌日から不登校になったようです。その後、自殺を……」
「自殺……」
推測のうちの一つとしてあったが、夫は亡くなったとしか話していなかった。それを他人から聞かされることに、頭を殴られるような衝撃を受ける。
しかも、夫に拒まれた翌日から不登校になり、その後、自殺をした? 原因は夫のようなものではないか。立場上、生徒の過剰な行為を拒むのは教師として正しいことだと思ってはいても、自殺されたとなると、結果はあまりに重くのしかかってくる。夫はさらに自責の念に駆られているだろう。
だが、なぜ最初から拒まなかったのか。なぜ、毎日受け取ってもらえているなどという希望を持たせたのか。
「向坂先生とは懇意にしていて……二人で呑んだ時、酔い潰れた先生が話して。それで知ったんですけど……持田先生、本当に悩んでいるので、奥さんが事情を理解したううで支えて下さったらと」
「……そうですか……」
何て虫のいい話だろう。夫の裏切りを理解しながら支える? 何をどうやって支えろというのか。
はらわたが煮えくり返る思いだったが、ふと、夫が悪臭を言い出した日に、ニュースで女子生徒の死を知ったことを思い出した。
まさか、関係があるのか?
そう思いついて、慄然とした。夫は、あの日からおかしくなった。キッチンの水を受け入れられなくなった。風呂やトイレには入れているのに、だ。同じ貯水槽からの水だというのに。
「あの、これは僕が話したことは秘密にしておいて頂けますか? すみませんが……」
「……はい……」
心ここにあらずのまま頷くと、教員はようやく緊張を解いて「じゃあ、いきなりすみませんでした」と言い残して酒の席へ戻っていった。
その直後、玄関のドアが開いた。
「──ただいま、ビールと焼酎でいいかな」
一瞬だけ夫を見やる。痩せた。事件から一か月でだいぶ老け込み、髪には白いものが混じっている。
けれど、もう痛ましくは思えなかった。
※ ※ ※
「……業者に見てもらう?」
「そう、貯水槽を点検してもらうの。だっておかしいじゃない、政弘さんがここまで臭いに苦しんでるのに。絶対原因があると思うの」
医者ではなく業者にしたのは意趣返しだ。夫にしか分からない悪臭の原因が貯水槽にある可能性は、かなり低い。
「ね? もう管理組合の理事長さんには頼んであるから。政弘さんも立ち会ってね。今日は久し振りのお休みでしょう?」
「まいったな……」
夫は困惑した表情で頭をかいた。けれど引かない。原因は夫なのだ。
「ね、異常があれば取り除けるでしょう。政弘さん、このまま出来合いの食事を続けたら体壊しちゃうよ」
「う……ん」
「じゃあ決まりね。もう業者さんは呼んであるから」
急な展開に、夫がさらに困惑する。
そこで、インターホンが鳴った。業者を呼んでくれた、理事長だった。
「ええと、水道水から悪臭がする、と」
「はい。でも、キッチンの水からだけなんです。キッチンの水は口にするものですからそれで感じるのかと」
「普通、貯水槽に何かあれば全体に異常があるはずなんですが……」
「でも、キッチンの水は確かにおかしいんです。見て頂けませんか?」
「それは構いませんが……」
呼ばれた業者も及び腰だったが、少し強引に押しきる。夫は傍らから一歩離れた所で無言のまま立っていた。
業者が貯水槽を開けて中を覗き込む。
「あれ? 何か落ちてますね。……弁当箱?」
その時、夫の顔色が変わった。わななき、進み出て、震える声で業者に訊ねる。
「それは……青と白のストライプですか?」
「あー……はい、そのようですね」
直感で悟る。おそらく、亡くなった生徒が夫のために使っていたものだ。──けれどなぜそれが貯水槽に?
新たに浮上した謎に、不思議に思っていると、夫の全身が震えだした。
「政弘さ……」
「あ……うああああっ!」
大丈夫? と言おうとした時、夫が絶叫して貯水槽に向かって走りだした。業者を突き飛ばして梯子を昇り、身を乗り出す。
「──政弘さん!」
一瞬の出来事だった。夫は吸い込まれるように貯水槽へ飛びこんだ。水音がして、その場にいた全員が凍りつく。
夫は沈んだまま、浮かびた上がってこない。居合わせた理事長が叫んだ。
「き……救急車!」
理事長が手に持っていた携帯電話で通報する。業者は貯水槽の中を見て、「何で浮かんでこないんだ!」とうろたえて声を張り上げた。
10数分後、駆けつけた消防隊員によって夫の体は引き上げられた。貯水槽の水を一度落としてからの救出だったので時間がかかった。
夫はすでに心肺停止状態だった。
そして、弁当箱を抱きしめていた。口を大きく開き、苦悶に満ちた顔をしていた。
夫は搬入先の病院で死亡が確認された。その後の検死の結果、肺は水でいっぱいだった。
夫から引き剥がされた弁当箱は、プラスチックにもかかわらず異常に重かった。不審に思った検察官が重さを量ったところ、40キロ以上あった。まさかと思い量りなおしたところ、その時にはもう普通のプラスチックの重さになっていたそうだった。
自殺した女子生徒の想いの重さだったのかもしれない。
キッチンの水だけが夫にしか分からない悪臭を放っていたのも、夫のために弁当を作り続けた因縁かもしれない。
夫を地獄に引き込み、女子生徒は満足したのだろうか?
私は夫を喪い、マンションから実家へ移ることになった。全てが片付くまで数か月かかった。涙は出なかった。泣く余裕もなかったというのもあるが、夫の罪深さを思うと、泣くに泣けなかった。
「お母さん、喉渇いちゃった」
「今ちょうどお茶淹れるところだから待ちなさい」
「うん、ありがと」
両親は寡婦になった娘を気遣い、優しくしてくれた。あんな普通では考えられない事故で夫を亡くしたのも理由の一つかもしれない。
「はい。お待たせ」
「ありがとう」
ちゃぶ台に置かれた湯呑みを手にして、口元に運ぶ。
次の瞬間、駆け抜けた恐怖に湯呑みを落とした。
「あらやだ、火傷しなかった? 冷やさないと。気をつけなさい」
「あ……このお茶……」
言葉が喉に張りついて息が詰まる。手ががくがくと震えた。
お茶からは、嗅いだこともない悪臭がした。
【完】
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