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サバイバルアパート
金曜日の真昼に、ベッドに潜り込み震える。
寒さのせいじゃない。秋晴れの空は惜しみなく陽射しを与えてくれている。
──怖いのだ。
また金曜日になってしまった。夜になれば、アレが来る。逃げたいのに、この体はこのアパートに縛られている。出掛けても、夜までには帰宅するよう操作されている。
「あああああっ……!」
仮想現代・日本、二十一世紀。学校を卒業しても資格を取るなりして就職活動を行わない穀潰しに対して、政府は秘密裏に対策を講じた。セミナーにボランティア活動、職業体験。様々なことをニートと呼ばれる若者に勧め、それらに対する反応を見て、もっとも消極的な者達をグループにして、脳にチップを埋め込み、国営の集合住宅に送り込んだ。
前頭葉に埋められたチップは、行動の一部を支配して、更には国で居場所が把握できるようになっている。
そして、毎週金曜日の夜には──。
「嫌だ……もう嫌だっ……」
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。夜が来てしまうのが怖くて仕方ない。発狂することができれば楽になれるのか?
そう思い、しかし発狂した住人がダークカラーのスーツを着た屈強な男性数人によってアパートから連れ去られる姿を思い出して、それは違うだろうと思い直す。
もう、逃げる術はないのだ。こうなってしまった以上。
けれど、本能はなまじ自由なままであるだけ厄介だった。恐怖は膨れ上がり、痛みを知った体が勝手に悲鳴をあげて止まらない。
「……駄目だ……」
せめて。夜までにはまだ時間がある。景色のいい公園にでも行って、一般社会を味わって。そこにはもう、つかの間しか戻れないけれど、それが絶望を味わわせるけれど──溶け込むふりだけでもいい、当たり前にそこで息をして、そこにいる人間と挨拶を交わしたい。
思い立ち、ベッドから抜け出す。ベッドの隅に放ってあったデニムパンツを穿いて、昨日着たシャツを拾って匂いを嗅いで、洗剤の匂いが残っていることを確かめ、また袖を通す。
そして、キーホルダーと小銭入れにシガレットケースをデニムパンツのポケットに押し込んで玄関のドアを開けた。
「──っ!」
「──あ、お隣さんですか? 初めまして!」
部屋から出ると、左隣のドアの前に見たことのない女性が立っていた。快活に挨拶をされて怯む。こういうタイプが夜には豹変するのだと弱者の目から卑屈さを滲ませながら思う。
だけど相手はこちらの警戒心には気づかない。屈託なく笑顔を振りまく。
「私、今日からこのアパートに住むことになったんです。よろしくお願いしますね」
「……はあ……」
「いい所ですよね。国営の職業訓練所のアパートだって聞いてたので、もっと狭くて古い感じかなって思ってたんですけど、部屋も2つもあるし」
「……」
もういい、もう話すのをやめてくれ。
「……あ、じゃあ俺は公園まで出掛けるので……」
話を打ち切るつもりで言う。この地獄のアパートの話なんてしたくない。
けれど、彼女には伝わらなかった。
「あ、はい!……あの、よろしければご一緒してもいいですか?」
「え……」
「私、県外から来たばかりで、この辺りのこと何も分からなくて。公園、行ってみたくて……厚かましくてすみません。できればお願いできませんか?」
冗談じゃない。このアパートの住人と一緒に出掛ける? せっかく気持ちを落ち着かせる為に外に出ることにしたのに、このアパートの現実がついてくるようなものだ。
すぐさま断ろうとして、口を開く。
「イイデスヨ」
でも、口をついて出たのはチップに支配された脳の、心にもない言葉だった。
そうだ、もう心のままには言葉一つ出せないんだ。
顔には出せず打ちひしがれる俺に対して、彼女はぱっと顔を輝かせて笑顔になった。
「ありがとうございます! よろしければ、このアパートのことも教えて欲しいです。金曜日に訓練があるとしか聞いてなくて……」
「……ジャア、歩キナガラ話シマショウカ」
「はい! よかった、お隣さんが優しい人で」
ああ。もう息抜きどころじゃない。このアパートのことを、つかの間忘れたかったのに、よりにもよってアパートの住人とアパートについて話さなければならない? 何の拷問だろう。
先に歩く素振りで階段へと歩き出し、彼女には背を向けて、気づかれないように絶望的な溜め息をついた。
「あ、エレベーターは使わないんですか?」
小走りでついて来ながら問いかけてくる彼女に、階段の手前で一瞬振り返る。
「……エレベーターは訓練で必要な時しか使えないから」
「え、そうなんですか? やだ、私部屋に行く時使っちゃった……内緒にしてれば平気かな」
どうやら、彼女は馬鹿で図々しくて鈍感らしい。チップを通して全て筒抜けになっていることさえ分かっていない。
「……大丈夫じゃないですか、まだ慣れてないんだし……」
嘘だ。失敗は全て国営の管理センターで把握されている。
にもかかわらず気休めを言ったのは、彼女に早く『退去』して欲しいからだった。彼女の馴れ馴れしさに嫌な予感しかしないのだ。
「よかったあ。あ、自転車を置こうと思って駐輪スペースに行ったんですけど、手押し車? みたいな先が二つに割れてるのが沢山置いてあって停められなかったんです。あれは何ですか?」
「手押し車?……ああ、ハンドリフトか。訓練に使うので……重いものを運ぶときに」
答えると、彼女の表情が強張った。
「え……どうしよう、使ったことないです……」
「まあ、始めは誰でも経験ないから……」
頼むから、こっちに説明を求めないでくれ。そう願いながら、気休めを口にする。
経験がないのは、このアパートでは言い訳にならない。指示された通りにやらなければ明日はないのだ。結果が悪ければ──アパートから出され、おぞましい未来が口を開いて食らいつく。
「……あの、お名前訊いてもいいですか?」
「……田沼です」
「田沼さん。私は有原っていいます。田沼さんは、このアパートに来て長いんですか?」
「……三か月くらいですけど」
やめろ。この三か月の苦悶を思い出させるようなことを訊くな。そう怒鳴りたいのに、脳は怒鳴ることを奪われている。暴力的な言動は全てチップによって抑制されているのだ。
有原と名乗った彼女は、隣に並んでこちらを見上げてきた。上目遣いというのだろうか。女性ならではの仕種だった。彼女の顔立ちは可愛い部類に入るから、こうされると普通なら悪い気はしないのだろうが、こんな特殊な環境下では鬱陶しいとしか思えなかった。
「田沼さん、ハンドリフトの使い方教えて頂けませんか?」
ほら見ろ。
「……あれは、コツがあるから……使いながら覚えないと……」
「じゃあ、今から駐輪スペースに行って……駄目ですか?」
「イイデスヨ」
こんなときに、チップが働いた。もう嫌だ。
彼女は、安堵の笑顔になってぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます! よろしくお願いします!」
そして、二人で駐輪スペースに向かう。
本音としては脱落して欲しい。脱落者がでれば、その分生き残れる。
だけど、チップはそれを許さないのだ。
結局、ハンドリフトの使い方を丁寧に説明した。
──そして、夕方になって近所のコンビニに夕食を買いに出ると、また彼女と行き合った。
「あ、田沼さん! 晩ご飯ですか?」
「はあ……」
この時間帯に弁当を手にしているのだから、他に何の用があるのかと思う。
結局、昼間は彼女に付き合って終わってしまった。夜の『作業』まで、あと一時間しかない。早く食べて、シャワーを浴びておかなければならない。
「田沼さん、お弁当だけじゃ体によくないですよ?」
彼女は買い物かごにやたらと食材を入れていた。野菜に魚に肉。牛乳とヨーグルト。一人暮らしで、しかもあのアパートの住人だというのに、よくそんな経済的な余裕があるものだと思う。
「ここのコンビニ、いいですね。スーパーみたいに品物が揃ってて」
「……でも、冷蔵庫に入りきらないんじゃ……」
アパートに備え付けられている冷蔵庫は単身者向けの小型のものだ。
だけど彼女は平気な顔をして「大丈夫です、一人分じゃないですし、私たくさん食べますし」と笑った。
「それに、ヨーグルトは少し残して牛乳をそそいで部屋に置いておくと、またヨーグルトになって食べられるんです」
「……あの、一人分じゃないって……」
「え? はい! 昼間のお礼に田沼さんにもと思って」
「……そういうのは、いいですから」
できれば、アパートの住人には深入りしたくない。『就職』を争う敵なのだ。
「いえ、一人分だと味気なくて。よろしければ」
彼女には、まだ敵という概念がないらしい。初日だからなのか。
それにしても暢気すぎるだろう。あと一時間で『作業』は始まってしまうのだ。
「あの、本当にいいですから。時間もないですし。早く食べて備えたいんです」
「あ……すみません。私、田沼さんが親切にしてくれたのが嬉しくて……つい」
彼女の表情がみるみるうちに萎んでゆく。こちらが悪いことをしたわけでもないのに、胸に重いものが詰まった。
「いえ……じゃあ、明日お願いします」
「……! はい! 美味しいもの作りますね!」
ぱっと笑顔が咲いたのを見て、腕時計の時間を確認する。あと53分。
「あ、俺はもう部屋に戻らないといけないので」
「もうそんな時間ですか? 引き留めちゃってすみません」
「いえ、……じゃあ」
「はい、今夜頑張りましょうね!」
「……そうですね」
適当に答えながらレジに行って会計を済ませた。
* * *
アパートに帰って、急いで弁当をかき込んでシャワーを浴びて、ドライヤーで髪を乾かしてTシャツとデニムパンツを着ると、五分と経たないうちにアナウンスが鳴り響いた。地獄の職業訓練の始まりだ。
『今日の職業訓練の内容を説明する! 駐輪スペースにある資材を部屋に運んで、まずは段ボールを組み立てる! 目安は一時間に60箱だ! 200箱組み立てたら、一箱に封書を200通ずつ詰める! 明朝五時までに150箱できたら仕事を紹介する! では、健闘を祈る! 開始は二十分後だ! それまでに全ての資材を部屋に運んでおくように!』
封書にはナンバーが振ってある。それを確認しながら詰めていかなければならない。一通でも間違えたらアウトだ。
まず、資材を取りに駐輪スペースに急いだ。既に十人近くが集まって作業を始めていた。エレベーターは三基しかない。早い者勝ちだ。すぐにハンドリフトを使って資材が積まれた台座を上げてエレベーターへと急ぐ。
「あ、田沼さん!」
一秒を争うときに声をかけられた。彼女だ。
「すみません、急ぐんで!」
もうよそ見をしていられない。全員が『仕事』と『アパートからの解放』を競う敵だ。
「すみません、頑張りましょうね!」
声は明るかった。まるで、ここで脱落したらどんな末路が待ち受けているか分かっていないような。
無事にエレベーターへ乗り込むとき、ふと彼女の姿が見えた。ハンドリフトを台座に嵌め込めず、持ち手をガタガタと動かしていた。ハンドリフトは左右にブレて、彼女の表情には困惑があらわに浮かんでいた。
けれど、助ける余裕はない。資材はたくさんある。段ボールを運び、封書も運ばなければならない。何回か往復する必要がある。二十分の間に済ませなければ間に合わない。
ハンドリフトを部屋に持ち込めるように、玄関には段差がない。幅も広く取られている。まずは段ボールを運び入れ、ハンドリフトから下ろして次の資材を取りに行く。
エレベーターで一分待たされて苛立ちながら駐輪スペースに向かうと、彼女はまだハンドリフトと苦戦していた。台座には嵌められたようだが、エレベーターへと運ぶのに方向が上手く定まらないようだった。これには慣れしかないので仕方ない。
黙殺して次の資材を運ぼうとしたとき、また声をかけられた。
「すみません、これ、上手く運べなくて……壊れてるんでしょうか?」
彼女とて必死なのだろうとは思うものの、上手くできないから「壊れている」と勘違いする悠長さに腹が立つ。せいぜい立ち往生していろと思ったが、そこでチップが働いてしまった。
「壊レテマセンヨ。コウスルンデス」
彼女のハンドリフトを操作して、エレベーターまで運ぶ。脳がチップに支配されて、焦りも苛立ちも吹っ飛んでいた。
「左右ニ動カスト、逆ニ動キマス」
「ああ、そうだったんですか! ありがとうございます! そういえば昼間に教わりましたね。駄目ですね、私焦っちゃって」
「ドウイタシマシテ」
そこで、チップの支配が解けた。慌てて自分の作業に戻ろうとする。一分のタイムロスだ。
「あの、明日お礼させてください!」
もう、彼女の言葉には何も返さなかった。
汗だくになって資材を運び、段ボールの組み立てを始める。これは印刷会社で単発のバイトをしたときに経験した。有利だ。もしかしたら、これでアパートから出られるかもしれない。そう思うと、俄然やる気が出た。
腕時計を確認しながら段ボールを組み立てる。40秒で一箱。いいペースだ。段ボールは底の三点をテープで固定する。段ボールの切り口で腕に擦り傷ができるが構わなかった。
組み立てた段ボールが溜まったところで、封書を詰めてゆく。段ボールも封書も数が多いので、途中で何度か運び出す。段ボールの側面に認証シールを貼れば他の人と混同されない。
そろそろ、一旦運ぶか。そう思って額の汗を拭ったとき、玄関のインターホンが鳴った。
「それどころじゃねえよ……」
無視して台座に積み上げた段ボールをハンドリフトで運ぼうとする。その間も、インターホンは立て続けに鳴り続けている。
エレベーターに向かおうと、玄関のドアを開けると彼女が立っていた。胸元で両手を組み合わせて、縮こまっている。
「あの、すみません……段ボール、まだ15個しか組み立てられてなくて……田沼さん、もうそんなに沢山できたんですか? コツがあったら教えて欲しくて……」
ハンドリフトに手間取ったとはいえ、少なすぎるだろう。それにしても、これが戦いだと分かっていないのか。敵に援護を求めるなんて、厚かましいにも程がある。
「ドウヤッテルノカ見セテクダサイ」
ちくしょう、またチップが支配してきた。こうなったら一分以内に済ませて作業に戻ろう。
「ありがとうございます!」
「……まず、やってみてください。悪いところがあれば指摘しますから」
「あ、はい!」
彼女はテープを長く伸ばして切り、段ボールにテープの端をつけてから、ゆっくりとずれないように丁寧に貼りだした。
「ストップ! それじゃ時間がかかりすぎます! テープ貸してみてください」
彼女から奪い取るようにテープを受け取る。
「テープ逆です。粘着面が上です。それから、段ボールにテープの端をつけたら、一気に引いて、テープを切るときは垂直にして押し切ります」
「え……でも、それだと少しズレて……」
「いいんです、何のために三点固定するんですか」
「あ、はい……」
「じゃあ、この方法でやってください。俺は作業に戻ります」
彼女が上手くできるかまで確認していたら、とんでもないタイムロスになってしまう。自分の経験した分野の作業が来たときがアパートから出るチャンスなのだ。一秒でも惜しい。
「あ、ありがとうございました!」
さっさと出ていこうとする俺の背中に彼女が言葉を投げた。振り向かなかった。
けれど、彼女の迷惑行為は収まらなかった。
駐輪スペースに第一弾を置き、部屋に戻ると、彼女が俺の部屋の前に立っていたのだ。
「……どいてください、そこに立たれるとハンドリフトで入れません」
「あ……すみません……でもあの、テープが上手く切れなくて……力を入れると、テープが伸びてしまって……」
「それは力が足りないんです! 垂直に力を入れて思いっきり押し切れば切れます! もう俺の邪魔はしないでください!」
このとき、なぜかチップの抑制はなかった。度重なる作業の妨害に対する発言だからか。
彼女は心底申し訳なさそうに身を縮めて、怒鳴られたことに怯えていた。
「すみません……本当にすみませんでした」
「じゃあ、失礼します」
彼女が玄関から退く。ご丁寧にドアを開いて俺が入るのを待って。
ありがとうさえ言わずに中へ入る。すぐに作業に没頭した。彼女にかけられた迷惑への憤りは暴力的なまでに効率を高めた。怒れば怒るほど、手は早く動いた。
ただ、出来上がったものをハンドリフトで運ぶときに、ふと彼女の顔が浮かんだ。すみません、と泣きそうな表情で謝る顔が。
この、今夜の作業が無事に終わったら声をかけてみよう。あのときは限られた時間で気持ちがささくれだっていたので、と。
今は作業だ。
──それから、黙々と作業を続けて、午前五時十三分前になった。
「……やった! やったやったやったやった……!」
150箱目が詰め終わった。
「うおおお! 終わったああ!」
これで。後は最後の荷物を駐輪スペースに置いてくれば、この地獄から解放される。命が脅かされる恐怖から解放される。
急いで箱を台座に積み上げ、ハンドリフトで持ち上げて運び出す。急ぎすぎて左足の先が滑車に踏まれたが、痛みはなかった。スニーカーに傷がついたけれど、このスニーカーともおさらばだ。
玄関のドアを開けて固定する。エレベーターにすぐさま運ぼうとしたとき、亡霊のように立っている彼女と行き合った。青ざめた顔には生気がなくて、表情を失っているさまは不気味さを感じさせた。
「……終わったんですね」
「あ、はい。じゃあ急ぐんで」
「壁、薄いんですね。やった! って声が聞こえました」
「ああ……うるさくしてすみません。じゃあ、本当に急ぐんで」
「……私の箱も運んで頂けませんか? ハンドリフトが、やっぱり上手く使えなくて……部屋は組み立てた段ボールでいっぱいになっちゃうし、もうどうしたらいいか……」
「それは重大なルール違反ですから。できません。失礼します」
彼女は何て馬鹿げたことを言い出すのか。職業訓練を名目にしているサバイバルで手伝えと? 無表情で淡々と頼んでくる姿に、図々しいのを通り越して恐ろしささえ覚える。
「待って! お願いします! まだ一つも運べてないの! お願い!」
「……自己責任って分かりますか?」
チップもルール違反には働かないらしい。当然だ。このアパートでのルールを守らせるためのチップなのだから。
彼女の顔が歪む。泣くのかと思った。
「ひどい……ひどいひどい! 私、ちゃんとお願いしてるのに! あなたは間に合うのに! ひどいよ!」
本当に彼女はチップが埋め込まれているのかと不思議になるほど身勝手なことを叫んで、彼女が部屋のなかに駆け込んで乱暴にドアを閉める。ガン、と彼女の感情そのままの激しい音を立てて。
とりあえず、これで大丈夫だろう。エレベーターに向かって昇ってくるのを待つ。腕時計を見ると、あと十分。エレベーターは一分程度で来るから、余裕で間に合う。
よかった。深く息をつく。
すると、背後から何かがぶつけられた。立て続けに。
「馬鹿! 死ね!」
振り返ると、まだ組み立てていない段ボールを抱えて、鬼のような形相で彼女が仁王立ちしていた。
「うわ、ちょ……ヤメテクダサイ!」
ふざけんな、やめろ馬鹿野郎。──そう怒鳴りたかったが、この時ばかりはチップに抑制されていてよかったのかもしれない。
「ひどい! 私困ってるのに! 普通隣同士は助け合うものでしょ! 見捨てるなんてあり得ないよ!」
段ボールを投げつけてくるのを避けながら、頭の片隅で冷静に考える。
発狂だ。──そろそろ来る頃だな、と。
「あんたみたいな冷酷な人間死んじゃえばいい! 死ね、……きゃあ!」
ダークカラーのスーツを着た男が二人、非常階段から駆け昇ってきて暴れる彼女を両脇から取り押さえた。
「何するの、離して! こいつが悪いんです! 困ってる人を見捨てたんです!」
「田沼。もういいから、君は作業に戻りなさい」
「あ、はい!」
エレベーターは既に着いていた。早くしなければ、他の住人に使われてしまう。
急いで乗り込むとき、彼女が男達によって部屋に連れ戻されるのが見えた。彼女はまだ何か叫んでいた。エレベーターのなかで、予感通り豹変したな、とぼんやり思った。
『あと三分だ! 急げ!』
エレベーターが着くと、終了間近のアナウンスが響いた。力一杯ハンドリフトを引いて駐輪スペースまで運ぶ。
『田沼治良! 合格だ! 君には明日から社員寮のある仕事を紹介しよう!』
「は……ははは……」
脱力して、膝が笑う。ハンドリフトにしがみついて、その場にしゃがみこんだ。
これで、普通の世界に戻れる。
作業時間終了のチャイムが福音に聞こえた。
* * *
翌日、荷物をまとめて退去しようとすると、インターホンが鳴った。もう出ていくだけの、この世界は怖くない。晴々とドアを開けた。
「あ……あの、昨日はごめんなさい」
彼女だった。段ボールを投げつけた時とはうって変わって、しおらしくなっている。
「……もういいです。俺、ここを出ますし」
「あ、おめでとうございます!……私も、仕事が決まったんです」
あの暴挙の後に仕事が? そう考えて、ハッとする。ダークカラーのスーツを着た男が来る時は、必ず連れて行かれる──。
「……その、仕事って」
訊くと、彼女は弱々しく笑った。
「病院で新薬を飲むお仕事です。……最後に、これ」
そして、タッパーを差し出した。
「これ……?」
「肉じゃがなんです。あんなことした相手からじゃ気持ち悪いですよね……すみません。でも、お礼とお詫びに」
「はあ……」
「よかったら食べてください。──じゃあ、お元気で!」
半ば押し付けるようにタッパーを手渡し、隣室へと駆け戻ってゆく。
のろのろとタッパーを見下ろす。まだ温かい。緩慢と蓋を開けてじゃがいもをつまんだ。
美味しかった。強火で炒めてから軽く煮る、実家で母が作ってくれていた肉じゃがとそっくりだった。
* * *
「田沼さん、特別病棟の清掃もお願い」
「はい!」
……あれから、大学病院の清掃員として働くようになって、もう三か月になった。最初は初めての仕事に戸惑い、色々と注意も受けたけれど、今は一人で仕事を任されるようになった。
「特別病棟……五階の奥だな」
掃除道具を運びながら道順を思い出す。そこは、初日に一度案内されたきりだった。どんな患者さんがいるのか、想像もつかないが、邪魔にならないよう、失礼にならないよう……。
「……え?」
病室のドア脇のネームプレートに引っ掛かった。──『有原早矢香』。有原。
「確か、あの人も有原って……」
「……そこに誰かいるの?」
独り言が室内の患者さんに聞かれたらしい。慌てて「申し訳ありません、清掃の者です、失礼いたしました」と謝った。
「……ねえ、入ってきて……」
「え、でも……」
「……お願い」
その声は弱々しいのに不思議な力があった。躊躇い、ややあって、そろそろとドアを開ける。
「……やっぱり、有原さんだったんですね」
「……やっぱり、田沼さんだった。ふふ……懐かしい声が聞こえたから……会いたくて……」
彼女はテープでベッドに縛りつけられ、病的に痩せ細っていた。
「……ねえ、離して……お願い……」
「俺はただの清掃員です。そんな権限はありません……すみません」
「離して……体が動かせなくて痛いの……離して……ひどいよ、田沼さん……また私を見捨てるの……」
ぞっとした。思わず後ずさり、相手が動けないのをいいことに何も言えず逃げ出した。
「ひどいよ……助けて、もう嫌っ……」
その声が、呪詛のように耳にこびりついた。
……そういえば、俺と彼女が出た後のアパートはどうなっているだろう。
今日は金曜日だ。また、あの地獄は繰り広げられるのか?
【完】
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