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目力で禿げるほど愛して
今日も太陽がまぶしい。
季節を誇示するように、はしたないほど熱く、夏の日射しはアスファルトを焼いて、照り返しにむっとするような汗を滲み出させる。
昨夜の天気予報では、今日の気温は35度を超える猛暑日だと言っていた。勘弁してくれと思うが、異常気象に対して有効な策も浮かばない身ではどうしようもない。建物の中でのエアコンは欠かせないし、車は便利だ。
けれど外に出れば暑さから逃れられない……ああ、嫌だ。
そんな事を、日射しから僅かでも逃れようとうつ向いて歩いていたら、人にぶつかってしまった。相手が咄嗟に上げた「──きゃ!」という声の張りで、まだ若い女の子だと分かった。
「あ……すみません」
「…………」
とりあえず謝る。けれど返ってくる反応は忌々しそうな一瞥だけだった。
僕は、こうした無言でぶつけられる目がものすごく怖い。心臓が縮みあがりそうになる。恐怖は喉も押さえ込んで言葉を続けられなくする。
果たして、しどろもどろしているうちに、女の子はかつかつと靴のヒールを鳴らして行ってしまった。
情けない、こんな自分が夏の暑さ以上に嫌になる。
かといって、どうしたら変われるのか想像もつかない……。
僕は道行く人の邪魔にならないように歩きだす。それしか、できない。
とぼとぼと歩く僕は、この後、生活を一変させるモノと出会う。
今までの人生は急変というジェットコースターを体感するための助走にすぎなかったといわんばかりの。
……………………
………………
…………
「……ただいまぁ」
「──よう! 男子学生。元気のない声だなあ、さては元気がないな?」
「……は?」
小さいなりに住み慣れた我が家の玄関を開けると、いきなり聞いたこともないオッサンの声が飛んできて間抜けな声をもらす。
「そうだよなあ、元気がなけりゃ元気な声なんか出せねえよなあ! うはっはっはっ」
オッサン声は自分で自分の言葉にウケて笑っている。僕は玄関から声のするリビングに直行した。
リビングのソファーには、声の通り見たこともないオッサンが悠々とくつろいで座っていた。年齢は僕の父より一回り上くらいだろうか。剃っているのか抜けたのか、見事につるつるした頭を輝かせている。
「ちょっ……誰ですかアンタ」
「お? 学生は俺に見覚えないか?」
「ありませんよ。……母さん、この人誰」
キッチンからお茶を運んできた母が登場してくれて、内心助かったと思いながら訊ねる。
母はにこにこと笑いながら、「あら、ほら……覚えてない? あの人よ、ほら」と余計に不安を煽る受け答えをしてくれた。
「そうそう、神無月(かみなつき)だよ。なあ、姉さん」
「あら、そうそう。ほら、親戚の神無月の伯父様よ」
「……知らないよ、親戚に神無月なんて人いたっけ?」
僕は、ここで判断ミスをした。
疑念を曖昧な疑問符でなんか発してはいけなかった。
「あらやだ、会ったことあるでしょ、神無月さんよ。神無月伯父様」
「そうかあ、覚えてないか、前に会った時はまだお前小さかったもんなあ。──おい」
「へっ……うわあっ」
神無月らしいオッサンは、僕にクイッと人差し指で呼びつけてきた。愚かにも素直に近づいてしまった僕は、むさ苦しい腕に首をホールドされてしまった。
「ちょっ……苦し……」
「……いいから話を合わせてろ。悪いようにはしねえ」
「なっ……!」
オッサンの生温かい息が耳にかかる。耳が濡れたかと思うように不快だった。耳にかかる息で気持ちいいのは魅力的な異性に限るらしい。
「そうだよ、いい子だな。今日はいいモノ持ってきてやったからさ。モテない冴えない特別頭がいいわけでも運動神経がいいわけでもない平凡な男子学生君!」
……なんて屈辱的な主人公紹介だろう。しかも気味が悪くて怖くて反論できないなんて。
こうなったら、母に助けを求めるしか……。
「あらやだ、伯父様ったら冗談ばかり。ふふふ」
……望みは潰えた……おとなしくしておいて、オッサンが自発的に帰ってくれるのを待とう……。
ホールドの片腕を解いたオッサンは、スラックスやジャケットのポケットを忙しなく探り、最後にシャツの胸ポケットから何かを取り出した。それを僕に突きつけて得意げに笑う。
「ほら、土産だぞ! コンタクトレンズだ!」
「……コン……タクト……」
狐につままれたような反応しか出ない。僕は特別視力のいいわけではなかったが、悪くもなかった。
「嬉しいだろ、ほらほら、見てみろ! この色合いの妙!」
オッサンは喜ばせようとしているのだろうか? フリーズしている僕に、自ら小さな箱を開けて中身を見せてきた。
「青……紫?」
そこには不思議な色のコンタクトレンズが保存液らしきものに浸かって納まっていた。
「おお、やっぱりお前には分かるか! この色合いが普通じゃないってな! いいか、これはな……」
そこで、オッサンは声をひそめ、僕にだけ聞こえるように、けれどわざとらしく耳打ちした。
「いいか、このコンタクトレンズはだな……」
「……はあ」
「なんと、目力底上げ飛躍的アップという素晴らしいコンタクトレンズだ……!」
「……はあ?」
四次元ポケットを持つロボットぬこではあるまいし、何を言い出すのだ、このオッサンは。
明らかにうろんな表情でオッサンを見ている僕に対し、しかしオッサンは得意満面のえみで「どうだ、凄いだろう!?」と豪快に僕の肩を叩いて笑った。肩が痛い。大声で耳も痛かった。
「ただな、これは力が強大がゆえに……なあ?」
「あの……」
「おっ、なんだ気になるか?」
オッサンはいよいよ頬擦りしそうな勢いでしがみついてくる。何とか顔をそむけようと試みながら、僕は声を押し出した。
「……ここまできたら、最後まで聞きますんで……腕の力抜いてください」
「おっ? おお、俺のハグが熱烈すぎたか! まあそう照れるな!」
オッサンは更に引き寄せてくる。このままでは貞操が危ういかと思うほど。
「──ですから、あの」
「まあまあ、聞けよ。……実はな、禿げるんだ、コレ」
「……禿げっ……」
オッサンは唐突に、とんでもないことを言い始めた。しかし側にいたはずの母は、仲良く内緒話をしていると勘違いしたらしい。「じゃあ私は今のうちにお洗濯もの取り込まなきゃ」と言いながらリビングから出て行ってしまった。
「お、邪魔者がいなくなったか」
「僕にとっては蜘蛛の糸でした……」
「お前もなかなか言うなあ、はははっ。だがつまらんぞ。……それでだな、このコンタクトレンズを着ければ目力は凄まじくなり、レンズ越しに見られた相手は必ずお前にメロメロになる」
「……ただし禿げるんでしょう?」
スキンヘッドには潔い魅力があるとは思うけれど、僕の場合は目の前のオッサンと大差ないだろう。親戚という血の繋がりは否定するが。
そのオッサンは、あっさりと白状した。
「ああ、相手がな」
「そんなことだろうと……ええっ!? 相手!? 僕は!?」
思わず突っ込んでしまった僕は、その時に陥落したようなものだ。
「……何故だか知りたいか?」
獣のようにぎらついたオッサンの目を初めて見つめて、僕は頷いていた。
オッサンが説明するには、見られた相手は強すぎる眼光によってメロメロになりながらも生存本能が働き、反動で男性ホルモンが活性化して、それが活性化しすぎて男性に近くなり、無理が祟って禿げるとのことだった。
「まあ、アレだな。過ぎたるは及ばざるが如し」
「使い方間違ってます……」
「でも使うんだろ? お前は」
オッサンがしたり顔でニヤリと笑う。相当悪い顔だなと、働かなくなりつつある頭の片隅でぼんやりと思う。
そう、僕の脳は思いもよらない事案に出くわして、欲求には激しく揺さぶられ、理性はといえば「そんな旨い話があるもんか」とうそぶくのが精々だった。つまるところ、オッサンの口車に乗せられていたのだ。
「……もし試して、本当に禿げたら」
「必ず禿げるがな。……怖いか?」
「怖いに決まってますよ。女の子の髪が……なんて。責任取れない……」
ぼそぼそと言い返すと、オッサンは軽く「責任? そんなモンねえよ」と断言してきた。
「でも、僕のせいで……」
「自由に心を飛ばした結果だろ。いや、心を自由に飛ばさなかった結果か」
コンタクトレンズのケースを両手におし包み、肩を震わせだした僕に、オッサンはだめ押しで言葉を放った。
「長年そうやって生きてきたんだ、一発ぶちかましたいだろ?」
ハッとしてオッサンを見ると、こちらを真っ直ぐに見つめる眼差しには、僕への慈しみがあるように見えた。
見えて、しまった。
「……じゃあ、一度だけ、試すだけですよ?」
卑屈なまでに言い張る僕に、オッサンは快さそうな笑顔で手を伸ばして頭を撫で、大きく「よっし、やるぞ!」と鼓舞してくれた。
……くれた、ように見えてしまった。しつこいようだが、僕はそれだけ言い訳を求めていたのだ。
結果として、僕は逸る心をおさえながら、不安に陥りそうな心を叱咤しながら、町に出た。街ではなく町にしたのは、女の子達のパニックによって騒動が広がらないように、というオッサンからのアドバイスに従ったからだった。
コンタクトレンズは、初めて着けるのにもかかわらず異物感も違和感もなく馴染んだ。
「あら、伯父様もうお帰り? せっかくだから夕食をご一緒にと思ったのに」
「おお、それは残念だ。学生と水入らずで呑みに行こうかと思ってな」
「それはありがたいわ、何しろこの子、家と学校の往復ばかりで」
「そうだろうなあ、それじゃ根暗になっちまう。あ、もうなってるか?」
「まあ、伯父様ったら冗談がお上手なんだから。──じゃあ、伯父様に処世術でも習ってきなさいな」
母は僕の心配などお構いなしで見送ってくれた。
「……なあ、母さんは禿げなかったけど」
通りに出たところで、オッサンに訊ねる。
「そりゃ当たり前だ。母親に効いたら近親相姦になっちまう。──ほら、あそこに美人がいるぞ。声かけてこい」
オッサンが指さした先には、確かに僕より少し年上くらいの美人がいた。完璧な化粧をしていて武装しているみたいだ。近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「ええと……もう少しハードルの低い人で……」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ、いいか、今のお前は無敵だ。コンタクトレンズ甘く見るなよ。──ほら、行ってこい新生色男! ただしさりげなくな、あまり必死だとキモい」
オッサンは僕の背中をバシバシ叩き、前のめりにさせた。それによって、一歩進んでしまう。
僕はオッサンに励まされたのか、けなされたのか。とにかく美人のお姉さんに歩み寄った。こういう人は声をかけられ断り慣れているのだろうか、背中で拒絶を表していて怖い。
でも、声をかけなければ何も始まらない。僕はカラカラになっていた喉に唾を飲み込んで、意を決してお姉さんの肩を軽く叩いた。
「……あのっ」
「……え?」
お姉さんが怪訝そうに顔をしかめて振り向く。
「あの、僕と──」
「……え? あれ……?」
お姉さんはどうやら僕の目を見たらしい。ナンパへの怒りの顔から一変して、戸惑いを浮かべている。
それから、徐々に頬を染め……うっとりと僕の瞳に見入ってきた。
こんなあからさまな効果が出るなんて……。
「あ、あの、すみませんでし──」
尻込みしてしまって逃げの体勢に入った僕に、お姉さんが手を伸ばして僕のシャツの袖をそっと掴んできた。
「……この先に私のお気に入りの喫茶店があるの。よければお茶しませんか?」
逆ナン……!
* * *
お姉さんに導かれて入った喫茶店は、アンティークのテーブルに不思議でおしゃれなランプの明かりが灯されて、随所にハンドメイドの小物が飾られていた。小物は依託販売しているらしい。お姉さんもここにレジンというものを置いてもらっているのだそうだ。
「私のことばかりじゃ、つまらないよね……ごめんね、あなたの話も聞かせて?」
「あっ……いえ、僕は話を聞いているだけで楽しいので……」
友達はいない、サークルにも入っていない、バイトさえしていない僕に、楽しい話題なんてなかった。
お姉さんの話を聞いて、途切れると短く重い沈黙が降りる。お姉さんはその度に表情を翳らせた。やはり、目力で惹きつけても本来の魅力のなさは変わらないのか。
お姉さんは、ふと長くサラサラな髪を整えるようにいじった。
「あ……綺麗な髪ですね」
やっと見つけた褒め言葉に、お姉さんは嬉しそうにはにかんだ。そうすると、鎧のごときメイクもやわらいで見えて、可愛かった。
「この髪ね、大学に入ってから伸ばして伸ばして……お手入れは大変だけど、髪は手をかけただけ応えてくれるから」
「あの……素敵だと思います。……触ってみてもいいですか?」
「え……?」
急にハードルを上げすぎたか、と言ってすぐに後悔した。綺麗に手入れした髪を、僕なんかに触らせるなんて気持ち悪いはずだ。
「……あっ、すみません。今のは──」
「……いいよ」
なかったことに、と言おうとした時、先にお姉さんが囁いて、触りやすいように顔を近づけてきた。
「えっと、でも……いいんですか? 大事な髪……」
「あなたになら、いいって思ったの。……早く」
「あ……はい、じゃあ……」
綺麗なお姉さんの綺麗な髪を触る。何だか柔らかくて良い匂いがした。
もう、これだけで満足だ。残りの人生がパッとしなくても不満はない。この経験と思い出が僕を照らし温めてくれる、──……
「……え!?」
「……え? きゃああっ!」
その時。
撫でた髪が、ずるりと抜け落ちた。
「いや……何これ、いやあっ……!」
お姉さんが異常を確かめようと、気のせいであって欲しいと、恐慌状態に陥りながら髪を掴む。その度にバサバサと髪は抜け、あっという間に禿げてしまった。
「いやよ……──あなたどこに行くの!? 側にいて!」
「──育毛剤を買ってきます!」
僕は逃げた。
とにかく、あの場から離れようと無我夢中で走る。お姉さんの絶望に染め上げられた表情から、惨事から。
足が重く痛むまで走り、大きな記念公園まで来たところで、辺りに人──妙齢の女性──がいないことを確認して、側にあるベンチに腰を降ろした。
「何で……あんな……あそこまで酷いなんて……」
がくりとうなだれて、荒い息を繰り返す。全力疾走のせいでもあるけど、ショックの大きさもあった。
「あれ……そういえばオッサンは……」
──いや、傑作だ!見事に禿げたな!
「なっ……! 今、頭の中で声が……」
──そりゃそうだ。俺はお前の思念から生まれた化け物だからな。あの女は、お前のキモさに気づいてなおお前の目に惹かれてたな! キモい、何故か惹かれる、でもキモい。その葛藤が本来より早く激しく反動を起こさせた。お前のキモさは本物だな!
「なんだよ、それ……もういい、こんなコンタクトレンズなんか捨てて……」
──おいおい、聞いてなかったか? 俺はお前から生まれた、お前の一部だ。その俺の生み出したコンタクトレンズもまた、お前の一部。捨てればお前の中の何かが欠落するぞ。
「そんなっ……! でもこのままじゃ、またあんな犠牲者が……」
──お前を虐げてきた存在を犠牲者呼ばわりか。偉くなったもんだなあ! じゃあな、俺の仕事は終わった!
「待て! おいっ……!」
突然声が消えて、慌てて立ち上がり周囲を見渡す。声で呼んでも、心のなかで念じても、もうオッサンの耳障りな声は聞こえなかった。
「ちくしょう……どうしたら……」
外に出ている限り犠牲者は増えるだろう。部屋に引きこもるか? いや、親が生きて元気でいてくれているうちしか通用しない。
「──おじさん、具合悪いの?」
「えっ……あ!」
我に返ると、小学校中学年くらいの少女が目の前に立って心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「駄目だ、僕の目を見ちゃ駄目だ!」
うつむき、右手で目を覆う。
「ええ、なんでー? さっきから、おじさんの顔見てるよ?」
「じゃ、じゃあ今すぐ離れて……危ないから」
「この公園毎日遊びに来てるけど危ないものないよー?」
ああ言えばこう言う。正直いらっとしたが、未来ある子どもにトラウマを負わせてはいけない。
「今日暑いから、おじさん夏バテかなあ? 苦しい?」
けれど子どもは離れようとしない。
「ええと……公園が危なくなくても、僕が危ないんだ……!」
「おじさんのどこが? おじさん悪い人に見えないよー?」
「いや、悪い人なんだ、だから……」
「悪い人が自分で悪い人って言うかなあ。分かんないけど、具合の悪い人放っておけないよ」
子どもは言葉を尽くしても去ってくれない。いっそ「僕を見てると禿げるんだ」と真実を話すか? 信じてくれるだろうか? この、ませた少女が。
いや、どうにもこの子どもは僕の目を見ていても、さっきのお姉さんのような感情の大きな揺れは起きていないように見受けられる。動揺していないのだ。もしかしたら、まだ恋も知らないような子どもには効果がないのだろうか?
だとしたら、ひとまず安心だ。──そう胸を撫で下ろしたところで、僕は戦慄を覚えさせられた。
「あたしと話すのも辛いほど具合悪い? ごめんなさい、あたしおじさんと話したくて。話してると楽しくなるの。おじさんに離れろって言われるのが寂しいの」
まさか、このいたいけな少女ももう禿げの兆候が……!?
駄目だ。うなだれる僕を心配して声をかけてくれた純心な子どもを地獄に突き落としては、絶対に駄目だ。
「……じゃあ、おじさん悪い人じゃなくなるよ」
僕は呟くと同時に、両手の人差し指と親指を両目に突っ込んだ。子どもは僕の言葉に破顔した次の瞬間、驚きに目を見開いて固まった。
僕は、荒々しくコンタクトレンズを目から剥がした。何かが欠落するという恐怖は忘れていた。
ただ、まだ髪が抜け始めていないなら間に合うはずだ、僕を心配してくれただけの子どもの優しさを踏みにじることはできない、僕をうろんな目で見る大多数の女性と目の前の少女は違う、そう祈るように強く強く思った。
洗ってもいない指で触れた目が痛い。じんじんと痛んで、頭の芯がぼうっとしてきて、僕は気を失った。
目を覚ますのが怖いな、何が奪われるんだろう、このまま目を覚まさなければいいな、そうしたら少女がくれた優しい気持ちだけ抱いていられるのにな………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
「よう、馬鹿な学生!」
「オッサン……!? 何で……だって公園で消えたくせに!」
「ああ、物質世界からは消えたさ。ここはお前さんの夢のなかだ」
オッサンは夢だという世界のなかで、煙草をふかしながら目の前に立っていた。夢なのに煙が臭くて目にしみた。
「しっかしお前も馬鹿なことしたなあ、入れ食い状態捨てやがって」
「……いいんだ、もう。……なあ、オッサン」
「ん?」
「あの子どもは無事なんだよな?」
今一番気になることを訊ねると、オッサンは急に歯切れが悪くなった。
「まあ、なあ……お前の言う無事ってのは、大丈夫なんだろうけどなあ……」
「何か問題が残ったのか!?」
詰め寄ってオッサンの胸ぐらを掴むと、オッサンは苦々しい顔をして振り払った。それは、現実で僕をけしかけて笑っていた時とは全く違うものだった。
「それよりお前、視力を失うぞ」
「え……」
「コンタクトレンズ外した時だよ。汚ねえ指を力任せに突っ込みやがって。傷とバイ菌でな、多分駄目だろう」
「……そっか……」
目が見えなくなる。絶望に身体中の力が抜けそうだったけれど、目力を悪用した僕にはふさわしい罰に思えた。それに、最後に見ることができた汚れのない少女を消えることなく瞼の裏に焼きつけておける。
「腹立つな。何冷静にしてやがる」
「うわっ!」
オッサンが初めて顔を合わせた時のように首をホールドしてきた。やはり夢なのに痛くて苦しい。僕より背の低いオッサンが、自分の背丈に合わせて、ぎっちりと締めつけてくる。
「……目が覚めたらお前、責任とって大事にしてやれよ」
「……は? ていうか、首絞まって……苦し……」
「──以上、俺からの愛の鞭終了! さっさと現実に向き合っちまいな」
オッサンが急に腕を離し、片手をひらひらと振りながら背を向けて夢の世界のどこかへと歩いてゆく。何故だか、もう会うことはない気がした。
──オッサン、あんたのくれた物は正しいことじゃなかったけど。
「……ありがとな」
でも、宝物ももらったんだ。ささやかで小さくて、きらきらした。
「……ん……」
どれくらい気を失っていたのだろう? 目を覚ますと、何も見えなかった。目に何かが覆われている感触もある。
「ここ……は……」
「おじさん起きた!? 気分はどう?……あ、倒れたんだから良いわけないよね……」
「え……!?」
話しかけてきた声には聞き覚えがあった。──あの公園で声をかけてくれた少女のものだ。
でも、訳が分からない。それに、ここは……。
「……病院……?」
自宅のベッドとは違う固さ。薬の匂い。人の気配。
「うん……あたしが救急車呼んだの……おじさん倒れちゃって動かなくて……」
「そっか……迷惑かけてごめんね」
「怖かった……死んだらどうしようって……」
そこで鼻をすする小さな音が聞こえた。こんな赤の他人に、病院にまで付き添って、涙ぐんで。きっと、すごく良い子なのだろう。犠牲にせずに済んでよかった。
「……おじさん、手術したんだよ。でも……」
「……うん、覚悟はできてるよ。君が無事ならいいんだ」
「そんな、あたしのこと……あのね……視力がうんと弱くなるって」
「……へ?」
視力を完全に失うんじゃないのか?
「……そういえば、オッサン……」
思い出す。含みのある言い方をしていた。はめられた。
「あ、あー、そうだ、君親御さんが心配してるよ? 今が何時だか分からないけど、おうちに帰らなきゃ」
恥ずかしさを誤魔化して話題を変えると、少女が不満そうに声を低くした。
「あたし、もう高校生だもん。背は低いけど」
「え?……えええ!?」
最近の高校生といえば、大人と大差ない容姿だと思い込んでいた。じゃあ、恋を知らない子どもでもないのか? だったら何故彼女は無事だった? 途中でコンタクトレンズを外したからか?
「──そうだ、お母さんの他にお見舞いがあったよ。おじいさん。神無月さんって言ってた」
彼女は意想外の宝箱か。まさか消えていったオッサンが出るとは。
「『見た目に左右されない女には効かない』って。どういう意味だろ?」
全てが腑に落ちた。この子は、間違いを選択してしまった僕への蜘蛛の糸だ。
「はは……まいった」
「やっぱり落ち込むよね……」
「いや、……よければ手を握って欲しいんだけど」
お願いすると、すぐに小さくて温かい手が僕の手を包んでくれた。そして僕は誓う。
「この手にだけは間違えないよ」
【完】
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