外待雨

1/1
前へ
/1ページ
次へ

外待雨

五月雨柴乃(さみだれしの)はその名の通り、静かに降る雨のような美貌を持ち、成績は常にトップで、周りの人間にも優しい、ひとえに完成された人間だった。 黒くて肩甲骨のあたりまである髪はサラサラとしていて、艶のある肌は白く、外見も性格も大人びていて、とても同じ高校三年生とは思えなかった。 一方、その友人の叶崎陽菜(かのさきひな)は成績はほぼいつも赤点スレスレ、運動神経も良くなく、何をやっても常に少し抜けていた。 茶色く染めた短めの髪を二つに結んでいて、容姿は悪くはないが子どもっぽく、先に述べた欠点を補えるほどではなかった。 だがそんな対照的である柴乃と陽菜は常に二人で行動していた。 周りの人間は最初は不思議に思いはしたものの、何事も人並み以上に出来る柴乃は、その優れた人間性で落ちこぼれの陽菜を憐れんで一緒に居てやっているのだと次第に納得した。僕も始めのうちはそう思っていた。 けれど二人を観察していると、陽菜の方はもちろん柴乃に懐いているのだけれど、柴乃も柴乃で、陽菜に対して微笑ましいような、何か尊いものに向けるような笑みを浮かべることがあった。それはクラスメイトに向ける静かな笑みとは明らかに何か違っていた。 「こういう彫り方をしたい時はね、この彫刻刀を使うといいの。くれぐれも怪我には気を付けてね」 美術の授業中陽菜の隣に座った柴乃は、5種類ある彫刻刀の使い方を彼女に説明してやっていた。そこに得意気な気配は感じられず、柔らかく温厚な笑みを漂わせて陽菜を見守っていた。陽菜は感心したように頷き、満面の笑みで柴乃に言われた通り作業をしていた。柴乃と一緒に居るようになってから陽菜は笑顔になることが本当に増えた。 一方、休み時間に陽菜の勉強を見てやっていた柴乃は、 「昭和の和暦を西暦になおしたい時はね、終戦記念日の年で覚えると覚えやすいわよ。1945年で、昭和20年なの。これは昭和35年のできごとだから、西暦で言うと1960年になるわね」 と教科書をそっと指差しながら教えていた。その時も、彼女は長い睫毛で覆われた瞳を少し伏せて、絵画のモデルにでもなりそうな微笑みをたたえていた。 二人を見守り続けているうち、まだ少し寒さが残る三月の上旬、僕達三年生は卒業式を迎えた。 式が終わってホームルームが終わっても、名残惜しいのか、帰らないでいる生徒が何人か居た。その中に柴乃の姿もあったが、陽菜は居なかった。僕は一旦廊下に出で、人を待っている風を装いながら携帯をいじっていた。 二十分程そうしているうちに、教室で喋っていた奴らが全員帰って行った。一気にしんとなった教室には柴乃だけが残された。 「今日は叶崎さんと一緒に帰らないんだ?」 静寂に包まれた教室で、何をするでもなく自分の席に座っている柴乃に僕は声を掛けた。柴乃と陽菜はいつも一緒に帰っていたはずだと記憶していた。 「あら、木島君もまだ帰ってなかったのね」 僕に気付いた柴乃が振り返って微笑みを浮かべた。その笑顔は、他のクラスメイトに向ける静かな笑みと同じだった。 「陽菜はね、今日お母さんが体調を崩してしまったんですって。それで、急いで帰ったの」 いつも通りの、淀みの無い落ち着いた口調。しかし、それを崩すことができそうな一言を僕は彼女に向けた。 「・・・一緒に帰ろうと思えば帰れたのに?・・・高校最後の日に、ばたばたと忙しなく帰るのが嫌だった?」 一瞬、ほんの僅かだけ彼女の瞳が開かれた。返事はすぐにかえって来ない。沈黙の中彼女は何かを思案するように自分の机を見つめると、僕を振り返ってにっこりと笑った。 「・・・そうね、その通り。最後の日は、ゆっくりと色々なことを話しながら帰りたかったの。・・・これからは(たま)にしか会えなくなるから、余計にね」 「二人ともそんなに忙しくなるの?」 僕が聞くと、彼女の微笑みが少し翳った。 「・・・あの子、将来水族館のスタッフになりたいんですって。・・・それで、その為にこれからは遠くの学校へ行くの。だから、頻繁には会えなくなってしまうのよ」 その言葉を話している時の柴乃は既に僕から顔を隠すようにしていた。彼女の黒くて長い髪が彼女の表情を僕に見せなかった。しかしややあって彼女は再び僕の方に顔を向けた。 「・・・でもね、私のおかげ、って言われたの。今まで何でもつまづいてばかりだったけど、私のおかげでやりたいことが見つかった、自分にも何かが出来るような気がしたって。・・・あの子の役に立てたから、だから、私、いいの」 「・・・五月雨さんは、どうしていつも叶崎さんと一緒にいたの?」 僕の問いに、柴乃は視線をゆっくり虚空へと向けた。狼狽しているというよりは、何かを思い描いているようだった。 「・・・木島君も知っていると思うけど、私に声を掛けてくる子はたくさんいたわ。・・・けどね、何か、違和感を纏っているの。心からの好意で話し掛けてくれた感じじゃない気がしたの」 柴乃ははっきりとは言わなかったが、意味合いは何となく分かった。クラスメイトが彼女に話し掛ける時、その生徒の顔には完璧で有名な柴乃と仲良くなることで得られる優越感のようなものが貼り付いていた。誰もが柴乃を自分の飾りにしたかっただけで、その思惑をいつも柴乃は感じ取っていたのだろう。 「あの子だけが、私を心から頼ってくれたの。あの子だけが真っ直ぐな感情を私に向けてくれた。純粋な友情を向けてくれた。・・・それだけで、私は十分だったの。いつも一緒にいるには十分な理由だったの」 きっと、陽菜と会うまで彼女は「孤独」だったのだろう。多くの生徒に憧れの目を向けられ、話し掛けられても、そこに対等で純粋な友情を感じられずにいた。彼女の中では陽菜だけが「友人」だったのだ。柴乃が陽菜へ向ける慈しみのような笑顔の意味が今やっと理解できた。けれど、もう一つ僕は気がかりなことがあった。 「・・・叶崎さんには、恋愛感情があった・・・?」 質問すると、柴乃の瞳が再び僕を捉えた。そのまま一拍間を置いたが、彼女はゆっくりと答えた。 「・・・いいえ。恋愛感情ではないわ。もっと根源的で、私にとっては大事な感情。私も心から、あの子を必要としていたの。・・・人として」 彼女の答えに僕は頷いた。その質問をしたことには意味があった。 「あの・・・、最後だから言いたいんだけど、僕、前から五月雨さんのことが気になってて、・・・その、僕と付き合ってくれる気はない?」 僕が柴乃と陽菜の二人を他の生徒よりも観察していたのは理由が有った。柴乃に以前から恋情を抱いていたからだ。 柴乃は一度まばたきをした。長くて濃い睫毛が上下に揺れる。しかし返事にそう時間はかからなかった。 「・・・ごめんなさい。今は、あの子の事しか考えられないの。気持ちは嬉しいけど、今は陽菜との別れのことだけを考えたい」 再び僕は頷いた。この二人の間に入ることは不可能なようだった。柴乃に詫びを言って、僕は教室を出ることにする。 後ろの扉から教室を出た時、僕は中を振り返った。いつの間にか柴乃は席を移動していて、陽菜の席に腰掛けている。春の陽差しを浴びながら穏やかな微笑を浮かべ、右手を机にそっと置いていた。たった一人のかけがえのない友と過ごした日々と、別れを思っているのだろうか。今の彼女の胸中は彼女にしか分からない。 その女神のような姿を目に焼き付けながら、僕はさようなら、と心の中で別れを告げた。そして彼女から視線を外すと、人気(ひとけ)の無い廊下静かにを歩いて行った。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加