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昔から好きなゲームに『おうふくビンタ』という技があったが、威力は弱いし、敵への命中率もやや悪かったので、ほとんど使うことはなかった。女子バスケットボール部の顧問が私の右の頬をはたいて、そのまま手の甲で左の頬をはたいた。視界が明滅したように感じた。あまりにも痛くて、ゲームなんて嘘ばっかりなのかもしれないと幻滅した。それでも帰宅して晩ご飯を食べ終わると、無意識にゲーム機に手を伸ばした。部活動のことを考えると気が滅入ったし、友だちと連絡を取り合う元気もない。アニメを見ても音楽を聴いても心の繊細なところをチクチクと刺されて疲れてしまうので、無心でゲームの中のキャラクターを操作するのがいちばん楽だった。運動神経も悪くて歌も音痴な私は、アクションゲームも得意ではなかった。なのでコマンドを選べば敵を倒せて、レベルを上げるだけ強くなれるゲームが好きだった。
女子バスケットボール部に入部したのがそもそもの間違いだった。私が通う中学校は、三つの小学校の学区を擁するマンモス校で、どの運動部も人数が多くて盛況だった。女子バスケットボール部は県大会の常連で、私はそんなことも知らずに入部してしまった。顧問の高木は、生徒たちから密かに『鬼』と呼ばれている。体育館に高木の怒声が響き渡らない日はなく、部員が正座をさせられて頭や頬をはたかれるところは当たり前のように目撃されていた。教師の中でも権威がある立場なのか、他の体育館で活動している男子バスケットボール部や卓球部の顧問も止めてはくれない。「おい船橋、すぐパスに逃げんな。読まれとるわアホが」と、しゃがれた声に鼓膜を殴られる。私の身体はすぐに強張ってしまって、足が竦む。すると今度は「ボサっとしとんなや」と指摘が飛んでくる。「ハイ」とがむしゃらに声を上げて足を動かす。これでも慣れてきた方だ。入部したての頃は、すぐに涙があふれてしまって全く使いものにならなくなっていた。
高木のもとに集合すると、「お前はどんくさいな」と頭を叩かれる。当然、私だけではない。レギュラーでも新入部員でも、分け隔てなく、求められた動きができなければ、怒鳴られるし叩かれる。誰かが攻撃されている間、他の部員は、次は自分が対象にならないかと慄いて黙りこくっている。私もそう。
こうした戦々恐々とした重たい空気にもだいぶ慣れた。というよりポジティブに捉えられるようになった。ゲームに例えるようにしたのだ。自分の中に潜んでいる憎しみや恐怖などの黒い感情が、顧問の一挙手一投足によって、経験値を得て、どんどんレベルを上げていく。頭を叩かれて、痛くて理不尽さに腹が立って、憎しみのレベルが84になった。不満のレベルはもう少しで77になる。怒りにも少し経験値が入る。
私が育てている感情たちは、怒り、悲しみ、憎しみ、不満、不安、羞恥の六体だ。最も育っているのは憎しみで、一番レベルが低いのは羞恥の62である。怒りはレベル81に達しているが、最近、成長速度が鈍くなった。このようにレベル上げだと思えば、高木からの言葉や暴力の全てを、決して快くはないが、受け入れられるようになった。しかしやはりゲームと同じで、レベルが上がれば上がるほど、レベルアップのために必要な経験値の量は増えた。どの感情のレベルも上がらないまま部活動が終わる日が多くなった。
感情たちを育てていることは、ほとんどの友だちや部活仲間に打ち明けていない。だって変なことをしている自覚はあったから。ただ、同じ女子バスケットボール部に所属している横田にだけは話していた。彼女は「やばいね」と言って顔を引き攣らせつつも、練習後に「どう? 今日はレベル上がった?」と尋ねてきてくれた。横田も私と同じく中学でバスケットボールを始めていて、身長も高くなく運動神経もイマイチなので、親しくなりやすかった。ただ彼女は危機管理能力に長けており、叱られそうな時はするりと上手に逃げるので、高木に怒鳴られることは、ゼロではないが、私よりも明らかに少なかった。
「どう? 今日はレベル上がった?」
「憎しみがレベル90になった」
「カイオーガならドロポン覚えるね」
と、横田は軽快に話に乗ってくれたが、その笑顔はどこかぎこちないようにも見えた。気味の悪い話を聞かせてしまっていることを申し訳なく思いながらも、感情たちの成長過程を報告するのは、私にとって癒やされる貴重な時間だった。そうやって日々を過ごしていくうちに、感情たちは徐々にレベルを上げていって、私の中にはある懸念が浮かんでいた。レベル100に達したら、いったいどうなるのだろう。考えてしまうと理由は分からないがぐわっと涙腺が熱くなって、心臓の鼓動が早くなった。どうしようどうしよう、と頭の中がぐるぐるした。疲れて、こわくなって、私はその懸念から目を逸らして、不安のレベルがすごい勢いで上がった。
最初にレベル100になったのはやはり憎しみだった。練習が終わり、ぼうっと床にモップをかけていると、背後からバスケットボールが飛んできて、私の腰に直撃した。私は体制を崩して倒れ込み、受け身もうまくとれず濡れたモップに顔から突っ込んだ。すぐに「船橋チンタラすんな他の部員に迷惑かけとんだろうが」と鋭い声が飛んできて、頭の中が真っ赤になって、憎しみがレベル100に上がった。濡れたほこりが生乾いたにおいが前髪についていて、思わず下唇を噛んだ。そのまま自分の唇を食いちぎってしまいそうだった。怒りも悲しみも不満も不安も羞恥も全員がぐんぐんレベルを上げている。レベル100になったはずの憎しみにもまだまだ経験値が入っているのが分かる。
「チンタラすんなって言っとるだら」
怒声とともに再びボールが飛んできた。が、私に当たる前に横田がキャッチした。「船橋ちゃん」と横田に呼ばれるが、返事ができない。茶色の床も、白線も、モップの黄色もその先端にこびり付いた黒いほこりもはっきりと見えているのに、何も認識できない。何もなくて何色もない。気づけば膝から崩れ落ちていて、横田にもたれかかっていた。その後、私たちが高木にどんな言葉をぶつけられたのか全く覚えていない。横田に半ば引きづられるような格好で保健室に運ばれた。
私は絶望していた。モップのにおいに頭がくらくらする中で聞いた高木の「チンタラすんなって言っとるだら」という言葉で、レベル100に達したはずの憎しみが、さらにレベルを上げられるだけの経験値を獲得した。その瞬間、ふわっと私の中の憎しみが、突然すっからかんになったのだ。ずっとこわかった。この瞬間を迎えた私は、もしかしたら絶叫して暴れるかもしれないと想像していた。わけもわからず自分の身体を傷つけるかもしれないし、高木のことを殺してしまうかもしれない。何が起こるのかまるで分からなかった。そして何も起こらなかった。順調に溜まっていたはずの邪悪な感情はどこにいってしまったのだろう。焼け野が原になった心の中で私は呆然と立ち尽くした。
保健室の中は何もかもが真っ白に見えた。ベッドの隣のパイプ椅子に横田が俯いて座っている。なんかね、と声を出してみる。掠れているが、ぽつぽつと続けた。
「なんかね、私、憎しみがレベル100を超えたら、次はレベル101になって、ずっと無限に成長していくのかもって思ってた。それかさ、もういろいろ壊れてメチャクチャになるかのどちらかだと思ってたの。思ってたのに、なんか、なんかね、変なの。憎しみが急にレベル1に戻っちゃったみたいな感じがするの」
「船橋ちゃん、ごめんね」
横田は俯いたままだ。
「なんで横田ちゃんが謝るの」
「だって私、実は、船橋ちゃんもう限界かもって思ってた。このままじゃやばいって気付いてたのに、もう部活辞めたらいいじゃんって言えなかった。言えるタイミングなんていくらでもあったのに、私、言わないっていう選択を続けてた」
横田の気持ちは分かるような気がした。横田だって別に部活は楽しそうではなかったし、彼女も私と同じくバスケットボールは上手じゃなかったし、うまく逃げていたとはいえ怒鳴られることも叩かれることもあった。でも辞めればいいなんて提案できなかった。横田が退部したら、甘える相手がいなくなってしまうから。それが一番こわかった。
「私、全く意味のないレベル上げをしてたんだね」
「やだよ」
首を横に振る横田の声は震えていた。泣いているのかもしれない。ふと彼女の両手が私の手を包んでいることに気がついた。その手も小さく震えているが、あたたかい。
「船橋ちゃんのレベル上げが無駄だったなんて、そんなのやだ」
と横田が駄々をこねるように言う。そんなことを言われても困った。だって事実として私のかけがえのない憎しみはレベル1になってしまった。風船みたいなものなのだと思った。きっと限界まで空気を入れてしまったせいで割れたのだ。そうだ、と横田が手を叩いて顔を上げた。
「船橋ちゃんの中の憎しみが、もうこれが終わりにするタイミングだって教えてくれたんだよ、きっと。これ以上は育てない、船橋ちゃんが壊れちゃうって。部活を辞めるか続けるかの二択だったら、辞めるを選ぶべきだって。そう教えてくれたんだよ」
「なにそれ。ものは捉えようってこと?」
私は力なく笑う。今後部活をどうするかなんて考えられていなかった。もうどうでもよかった。私の無気力に対抗するように、私の手を握る横田の力が強くなった。彼女は立ち上がって身を乗りだしてきた。真っ赤な目で私を見つめて離さない。
「そうだよ。船橋ちゃんが丹精込めてレベル上げしてきた憎しみちゃんが合図を出してくれたんだよ。だから絶対に無駄なんかじゃなかったよ。ねぇ辞めちゃおう、部活。そしたら今度は、よろこびちゃんとか、安心ちゃんを育てようよ。私、成長の過程、楽しく聞かせてもらうからさ」
正直、部活を辞めるという選択をするのもこわかった。高木に何を言われるか分からないし。でも、辞めると決意をしてからは、想像していたよりもずっとあっさりと退部することができた。退部の理由を担任の先生や両親に話すと、私は特に動くことなく、いつの間にか手続きは終わっていた。横田もちゃっかり一緒に部活を辞めていて、退部の記念にと学校帰りにゲームセンターに行った。リズムゲームやUFOキャッチャーで遊んでみたが、私はやはり不器用だしセンスがなくて、コツコツとレベル上げをするゲームが向いているのだと改めて実感した。
「楽しいちゃんのレベルは上がった?」
と横田に尋ねられて、私は首を横に振った。
「そういえばレベル上げのこと忘れてた」
横田とは、それからもずっと友人だ。中学卒業後もオンラインで一緒にゲームをしたり、ときどき会って遊びにいったり。もしも、ちゃんとカウントしていたなら、私の中のよろこびや安心はどのくらいのレベルになっていたのだろう。
中学を卒業して十年が経った。私も横田も会社員になっていた。私はIT系の企業に就職して、準委任契約で地元の工場に出勤している。古くさい機械の制御に四苦八苦しながら、日々働いている。横田とは二、三ヶ月に一度くらいの頻度で会う。最近の集合場所はほとんど居酒屋だ。ぐっとビールを煽った横田がため息をついた。
「なんか上司がめっちゃ高圧的なんだよぉ。ネチネチしてるし嫌味っぽいしさ。あーどうしよう。この前さぁ給湯室でコーヒーこぼしちゃって。拭いて痕跡は消したんだけどさ、上司がこだわり強くてさ、行きつけの店で買ってる豆とかで。バレたら絶対うるさいよ」
「不安ちゃんのレベルが上がっちゃうね」
「うん。レベル50になった」
「イルカならドロポン覚えるじゃん」
「レベル80になったら転職活動しよっと」
「それ飲んだらレベル上がりづらくなるよ」
「たしかに」
と言いつつ、横田はジョッキを傾けて、残っていた液体を身体に注ぎ込んだ。すぐに次の一杯を注文している。IT企業に就職してから、ラップアラウンドという専門用語があることを知った。例えば、1から数字をカウントするプログラムがあって、そのプログラムの性能的に100までしか計上できないとしたら、100に到達すると最初の状態、つまり1に戻ることをいう。使用するプログラム言語によっては意識しなければ不具合の原因になる。
中学生の頃の私は不具合を起こしかけていたのだろう。もしかしたら起こしていたのかもしれない。どちらにせよ救いだしてくれたのは横田だった。それと彼女の言うとおり、私の中の憎しみや怒りの成長具合を数値化していたことも、壊れきる前に倒れることができた一因なのだろう。憎しみのレベルがラップアラウンドを起こした時のあの絶望に、きっと私は救われたのだ。もしもレベルをカウントしていなかったらどうなっていたのか、考えるのもおそろしい。
「ねえ船橋ちゃん、また今度、不安ちゃんがレベル60になったら呼び出すからね。次は焼肉もいいよね」
「不安ちゃんを会う口実にするんだね」
私が苦笑いを返すと、横田はまた勢いよくアルコールで喉を鳴らしてから、からりと満面の笑顔になった。
「いいでしょ。だってほら、これでこのレベル上げは、無駄なんかじゃないんだもん」
たしかにかけがえのない友人とこんなに仲良くなれたのだから、あの日育ててきた感情たちは、全然無駄なんかじゃなかった。今はそう強く思えた。
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