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プロローグ
ーー赤い月が笑っている。
灯りはひとつもない。
すべてが闇に包まれている。
赤い下弦の月の暗い光では、闇を照らしだすことはできない。
何も見えない筈なのに。
それは確かな存在を感じさせていた。
風もないのに騒めく黒い薔薇。それ自体が闇であるかのように彼を包み込んでいる。
噎せ返るような甘い芳香の闇は、更なる闇へと彼を誘う。
近づけばやっとそれだとわかる、古めかしい洋館。
誰もいないのに重々しい扉が開き、その先も見えない闇。
この中には何度か入ったことがある。
また同じように灯り一つも持たずに、まるで見えているかのように自然に足が向く。
臙脂色の絨毯が敷き詰められている、長い廊下を歩く。
見たこともないのに。今も見えないのに、鮮やかに脳裏に浮かぶ。
一番奥まで行くと黒い鉄の扉がある。
いつもは、鍵が掛かっていてこの先には行けない。
それでも毎回ノブに触れてしまうのだ。
そしてーーその扉は開かれた。
前は、ここまでだった。
今日は、この先に行くのか。
彼はそう思った。
いつも、自分の意思ではない何かに、その身体は動かされていた。
そして、それはけして逆らうことができない。
闇の中に一歩踏み出す。
地下へと続く階段。
ゆっくりと降りて行く。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。
その鼻腔を擽るのは黴臭さ、そして、それとは違う種類の異臭だ。
階段を降りきり、幾つかの扉がある狭い廊下を歩く。
彼はその一番奥の扉の前で立ち止まった。
その白く細い指がノブに触れようとして。
触れては駄目だ!
この先には行ってはいけない!
今まで鮮明に思い描いて館の中にあって、その扉の向こうの様子だけは何も脳裏に浮かばない。
ただ闇が蠢いている。
そんな気がした。
彼はそこで初めて誘いに逆らい、逆らった場所で、すべてが消え失せた。
ーーそれは今まで何度も経験したこと。
夢はーー。
また黒薔薇が咲き誇る中に佇むところから始まる。
物語の続きを見るように、少しずつ少しずつ進んで行くのだ。
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