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ある日のこと、店に眞理子が来訪した。勿論、接客を担当するのは育人である。
同伴出勤で歌舞伎を見た後であるために、高級酒の肴は歌舞伎の感想となる。
お互いに歌舞伎に関して忌憚なき感想を語り合っていると、眞理子は急に俯いてしまう。
「どうか、しましたか?」と育人が尋ねると、眞理子は首を軽く横に振り笑顔を向けた。
「いえね、今日の演目が『結婚』の演目だったもので。ちょっと気になっちゃって」
「結婚、ですか」
眞理子はいつもとは違う恭しい目つきをしながら、じっと育人を眺めた。
「ちょっとだけ、昔話を聞いてくれないかな? 長い割に、つまんない話」
育人は少なくなっていた眞理子の高級酒のグラスに継ぎ足し、ニッコリと微笑む。
「どうぞ」
「ありがとう。あたしって、貧しい田舎の家の生まれなのよ。限界集落みたいな感じの」
「そうなんですか、初耳です」
「そんな家だから、物心がついた頃には親の畑仕事を手伝っていたわ」
「左様ですか」
「とにかく、都会に出たかった。それを親に言ったら殴られたの。あたしはこの農家を継ぐために生まれたんだって。女だから、結婚して婿を入れて農家を続ける運命だって言われた。ほんと、大時代的な親だったわ」
「左様ですか」
「こんな生活に嫌気が差して、都会に家出したの。学も金もないけど、何でもやった。そうでもしなきゃ、女一人都会で生きていける訳がないじゃない」
「そうですね」
「スナックで働いている時に、これまでの生活を小説にして書いて応募したら大賞を獲得の。出版もされて売れに売れたわ。これから先は出すもの出すものがミリオンセラー。女流文豪とまで呼ばれるようになったわ。これまで見たこともない額のお金だって稼げるようになった。それは、そのお金を使われている貴方がよく知っているでしょ?」
「ええ」
「彼氏も作らず、出版社が持ってくる政略結婚の話にも乗らずに原稿用紙と向き合ってきた。蕾の十代は農作業に追われ、女の盛りの二十代は生きるために働き、実りの三十代、自省するこの四十代、ぜぇんぶ仕事。そして五十代を超えた今になって、自分の作品以外何も残していないことに気がついた。ホスト遊びを覚えたのもこの頃、いい男達に蝶よ花よとされて我が世の春を感じたわ。そんな中、実家に帰ったの…… 同窓会に出るためにね」
「同窓会、ですか」
「そこでは同級生が大学生ぐらいの自分の子供や、孫の写真を見せあっていた。話の内容は『大学はどこだの、会社はどこだの、お受験に勝った、孫が歩いた』だのって子育てや、その延長線。あたしからすれば、母親やババ同士の下らないマウントの取り合い」
「ええ、実に下らないですね」
「でも、羨ましいと思った。自慢じゃないけど、金なら腐る程ある! それこそ同窓会に出ている子達の何千倍何万倍もね! それでも、あたしはその輪の中に入ることが出来ない。そう思ったら悔しくなってね! そして、我が世の春も急に冬へと変わった!」
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