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最初の婦人
夏色の稲と灰白色の石垣を、ファインダーに切り取る。下から上までちょうど百枚あるという棚田が、控えめな笑顔を浮かべたところで、シャッターを押した。
ポーニンの国民にとってこの棚田は原風景だという――懐かしみ、心を溶かし込み、立ち尽くし、見入るような。この稲が色づき、日を照り返して金色に輝く秋もこの場で感じてみたいとカーターは思ったが、だが自分が記者とはいえ、そう都合よく取材に来られるものでもないということは、よくわかっていた。なにしろここは遠いし、入国制限も厳しいし、それに百年単位で深刻な危機を抱え続けてきている国だ。今回、取材目的での入国を許されたのと同じ幸運が、ふたたびめぐり来ると信じるのは楽観的というものだろう。
「アー……ミスタ・カーター?」
棚田に見入っていたカーターは、背後から聞こえた母国語風の発音に、はっとして背筋を正した。振り返ると、遠慮がちな微笑みを浮かべた年配男性の姿があった。サックスブルーのシャツとベージュのパンツ、首にはタオルで頭には麦わら帽子がのっている。農作業用のいでたちだが服に汚れはなく、こざっぱりした印象に見えた。
「……ハイ。わたしがカーターです。はじめまして」
ポーニン語で答えて、丁寧におじぎすると、男性はちょっと驚いたような顔をした。郷に入れば郷に従え。さまざまな地に取材に行く者として、ポーニンで生まれたこの言葉を、カーターは大事にしている。
「これはどうも、ご丁寧に。私、連絡窓口を担当しておりましたヤスモリ・トウです。お客様をお迎えするのに、スーツでなくてすみませんね、このクニじゃ、役所の仕事をしておりましても外の作業は切り離せないもんで――あっ、すみません、ポーニン語でいいんですかね? メールのほうはエミリカ語でしたんで……」
「ハイ、大丈夫です。わたしの住む都市には、300年前から続くポーニン人街がありまして、ポーニン語はそこで学びました。あの街に住む方々も、今はすっかり多人種化しています。しかしそれでも彼らはルーツに誇りを持っていて、みんな、いつかここに来たいと言っています。わたしはここに来られてうれしい。帰ったらたくさんここの話をするつもりです」
カーターは今の気持ちを愛いっぱいに語ったつもりだったが、ヤスモリから返ってきたのはそうですか、という短い言葉と小さな頷きだけだった。勢いづきすぎたかとカーターは恐縮しかけたが、ふたたび顔を上げたヤスモリは、最初の微笑みに戻っていた。
「ところで、カーターさん。まだ宿泊先にもご案内していないのに申し訳ありませんが、今すぐご足労いただくわけにはいきませんか」
「? かまいませんが、なにかあったのですか」
「さきほどオミナ様が、赤さまをご出産されまして」
――「オミナ様」。「ご出産」。
カーターは目を見張る。ヤスモリは「幸いご安産で体調もご気分もよろしくて、カーターさんに赤さまをお見せしても構わないのでお呼びしてほしいと……」などくどくど説明を続けていたが、その言葉はカーターの中には届かずただ空気に溶けていた。
オミナ様は、この一年、この国の光であった女性だ。人口減少が続き、現在進行形で存続が危ぶまれているポーニンに、新たな命を送り出すかもしれない存在として。希望そのものとなった彼女が出産する前後の社会と、国民の思い――そもそもカーターは、それらを取材するためにポーニンに来たのだった。
とはいえ、彼女自身への面会はあきらめていた。どうせ許可は下りないだろうと思いつつ、「もし可能ならお会いできることを祈っています」程度に、控えめな申し入れをしておいた程度。
それがまさか、向こうから招いてくれるとは。しかも生まれたばかりの赤子がいる状況で。
これを受けない手はない。
「驚きました……いいのですか? 面会できるのなら、ぜひお願いしたいです!」
カーターは興奮して乗り出していこうとして、あわててポーニン式に頭を下げる。感謝の意を表したつもりだ。「ではどうぞ」、ヤスモリは薄い微笑みを浮かべ、先に立って歩き始めた。
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