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最小限の手荷物以外は宿に送り済みである。ゆえに身軽だったカーターだが、向かい風のなか棚田を見下ろせるところまで登ってきたときには、少し息が上がっていた。
「里の中心地は棚田の下のほうなんですけどもね。オミナ様の産屋――赤さまを産むための居場所は上のほうでして。登りは意外と大変でしょう? すみませんね」
「ウブヤを上に作った理由は何ですか」
「オミナ様のお好みです。赤さまに最初に見せる景色は棚田の上からでありたいと……」
カーターは立ち止まって下を眺め下ろす。
風が吹いた。ざさあと棚田に波が起こる。吹かれて順々になびく稲が風の形を教え、それを追った次の風が、稲の上にうねりを作る。
「海のようですね」
「そう、いい風景でしょう。オミナ様は、それを赤さまに最初にお目にかけたいのかな」
「……赤さまに、オミナ様。あなたは彼女たちを、最大の敬意をこめた呼び方で呼ぶのですね」
再び先に立って歩き始めたヤスモリの背に呟くと、ヤスモリは「それは当然です」と、言葉に力を込めた。
「あなたもご存じのはずだ。なぜならオミナ様は――」
「知っています。彼女は、このクニ唯一の女性です」
カーターが言葉を引き取ると、ヤスモリは、ふと表情に苦味を混ぜてカーターを振り返った。
「カーターさん、あらためて説明するまでもないかもしれませんが……。このクニは今はこんなですけれど、2100紀の前半までは少子化に悩む、よくある先進国のひとつに過ぎなかったんですよ。なのに、」
「2100紀のなかば……2050年の過ちですね。確か『若年出産推奨政策』――」
ヤスモリは笑みに混じる皮肉の色をさらに濃くした。
「さすがです、カーターさん。ただあれは、単なる過ちなんて言葉では言い表せないような過ちだったんですがね……」
ヤスモリが続いて語り出したことは、カーターが事前に得ていた知識と大きくは違わなかった。
若年出産推奨政策。それは、出生率低下を危惧した当時の政府が決断した、「社会構造を変えるための思い切った方策」だった。政府はまず、進学せず、18~25歳未満で結婚・出産した女性に高額の報奨金を出すことを決めた。それに続き、25歳以上での結婚には課税すること、さらには30歳に達したら独身女性は結婚禁止、かつ30歳以上のすべての女性は子宮摘出することを義務づけることとした。
その背景には、「女性たちはこのままではいっこうに子どもを産まない」という政府の絶望感と、男性たちのいらだちがあったようだ。自分では産めない。産んで育ててもらわなければこちらには何もできない。なのに、彼女らは自分の人生を生きたいとわがままを通して、国を衰退させることにお構いなし。だったら今、あえて大反発を受け入れてでも、己は産む性であること、そして産むにはタイムリミットがあることを危機感とともに強く刻みつかせるべきだ――それが政府と、その法に賛成した者たちの思いだった。
当然だが、反対は強かった。各国からの非難もあったという。ただし記録によると、法案は国会の大多数を占める「片方の性別」によってあっさりと成立し、またそれを機に、それまで反対を叫んでいた女性たちは嘘のように沈黙したらしい。
この法案が通ったことをどう思っているのかと意見を尋ねる者もいたが、彼女らは老いも若きも、「もう、なるようにしかならないから」と言葉少なに答えるだけだったという。公布から施行までの数か月間、彼女らは政治家らの満足顔にも、順次始まる手術に向けて準備を整えていく医療機関にも、『これでいいのか今のポーニン』と激論劇場を展開する自称専門家たちにも関心を持つことなく、淡々といつもの日々を送っているように見えた。
異変は、施行当日の朝に起きた。
ポーニンから、女性が消えたのだ。
正確には、消えなかった女性もいたにはいた。外国籍の女性や政府関係者、あるいはオオモノとされる人物の妻や娘などだ。しかし、大半のポーニン女性は、その日を境に完全に消息を絶った。そこにいた痕跡を探すのすら難しいほど、彼女らの蒸発は徹底していた。
ポーニン以外の全世界が手引きして、彼女らをどこかに脱出させたのか、それとも彼女らすべてが海に入って抗議を示したのか。中には「これはドッキリのようなもので、ある日突然、何もなかったかのように皆が戻ってくるのでは」と楽観論を語るものもいた。
しかし、一年も経たぬうちに、この件について口を開く者は誰もいなくなった。
女性たちはポーニンを見捨てた。
それを、誰もが理解したのである。
「ほとんどの女性が消えてしまったあと……失礼なことを言いますが、ポーニンは急速に弱体化したのですよね。いきなり半分になった人口は当然減る一方だったし、2100紀の国土も、維持することはできなかった」
「そうです……2300紀現在のポーニンは消滅危機国です。ポーニン神話において、最初に創られたとされるひとつの島に、男ばかりの全国民がおさまってしまうような国になってしまいました」
「しかし、わずかとはいえ、最初の一斉消滅のときに消えなかった女性もいましたね? それなのに、その後200年以上経っても男女の割合がいっこうに接近しなかった。これはどういうことでしょうか」
「女性が突然消える現象はその後も続いたからですよ。女児が生まれて大人になっても、30歳に達するくらいまでには、だいたいみんな神隠しにあってしまうから」
「カミカクシ?」
「ああ、人が消える現象を表す、古い言い方です。実は30年前に、ポーニンの最後の女性が消えた。女性はすべていなくなったんです」
「エ? でも、オミナ様は?」
「オミナ様は『戻ってきた女性』です」
カーターはとっさには問いかけもできずにヤスモリを見つめるしかなかった。戻ってきた?
カーターの戸惑いがわかったのだろう。ヤスモリは、ゆっくりとひとつ息をついてから話し出した。
「我々のクニにいた最後の女性が『消えた』とき、我々ポーニン人とポーニン国の滅びは、決定したはずでした――しかし、5年前。オミナ様は、突如この国に出現しました。あなたは誰だと問いかける私たちに、彼女は言いました。『私は見ての通りポーニン人です。分かれた世界から、ただひとり、この世界に戻ってきた女です』と――」
「分かれた世界? どういうことですか?」
「それは私にもわかりません。でも、私たちポーニン人にとって、彼女がどこからどうやって現れたかなんてことは、どうでもよかった。彼女が彼女の言うとおり、確かにポーニン人の血を持つ女性であることを、私たちは信じました。そして私たちは、彼女に願いました……私たちの妻となり、そしてポーニンの母になってほしいと」
「そして彼女は……母になることを選んだ?」
「そうです。だから私たちは、彼女を敬意とともに女(おみな)様と呼ぶ」
ヤスモリの顔が輝いた。
「我々の国の女性は消えるだけだった、でもオミナ様は『現れた』。オミナ様はこれからのポーニンの偉大なる母、赤さまは希望の光。ポーニンはオミナ様という母によって、ふたたび命を得るのです!」
突然ヤスモリは身を横にひき、カーターの前を空ける。
今までヤスモリばかり見て歩みを進めていたカーターは、急に目の前に無機質な空間が広がったことで、一瞬目まいに見舞われた。超常現象でも起こったのかと思ったが、そうではなく、カーターはいつの間にか光のない真っ暗な空間と、土のにおいを含むひんやりした空気に身体を突っ込みかけていた。
目が慣れると、カーターの足が踏んでいるのは土間で、そこは木を組んで作られた古い家屋の入り口であることがわかってきた。奥に部屋が続いている。
「オミナ様はこの家にいらっしゃいます。さあ、行きましょう」
おごそかなヤスモリの言葉が、奥に吸い込まれていった。
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