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窓から覗く木々の葉の色も朽葉色へと変わり、肌寒さもいよいよ本格的な寒気へと変わってきた晩秋。
人の気配を感じて真夜中に目を覚ました俺は、寝ぼけ眼の重い瞼を擦りながらも、すぐ横にいる妻へと視線を向けてみる。けれど、そこにいるはずの妻の姿が見当たらない。手繰り寄せるようにしてシーツの上に軽く手を滑らせると、そこにはまだ確かな温もりが残っている。
「……沙織?」
一体どこへいったのかと視線を巡らせてみると、その行方は意外にも簡単に見つけることができた。
ベッドの上に腰を掛けて佇んでいる妻の沙織。その後ろ姿を見てホッと安堵の息を漏らすと、俺は沈んでいた身体を横に向けてのそりと起き上がった。突然の冷気にさらされてブルリと小さく震える身体。
「沙織……どうした? 風邪ひくよ」
背中越しにそう声を掛けると、ゆっくりとこちらを振り返った沙織。
「歩夢が還ってきたのよ」
テニスボールほどの卵を掌に乗せた沙織は、そう告げると俺に向けて満面の笑みを浮かべる。
「……え?」
そんな間抜けな声を零しながらも、沙織の笑顔を見るのはいつ振りのことだろうかと、俺は目の前にいる沙織の姿をボンヤリと見つめた。
今年の春先。三歳になったばかりの息子を事故で亡くしてからというもの、すっかりと塞ぎ込むようになってしまった沙織。会話が成立しないのは勿論のこと、視線すら合わせようとしない沙織の様子に、いよいよ夫婦生活もこれまでかと諦めすら覚えていた。
それがどういうわけか、今目の前にいる沙織は確かに嬉しそうに笑っているのだ。
一体どこから持ち出してきた卵かは分からないが、きっと沙織は悲しみのあまり心を病んでしまったのだ。
そんなことを思いながらも、俺は沙織の会話に調子を合わせてみることにした。
「そ……、そうか。それは良かった。おかえり、歩夢。さあ、寒いから布団に入って温まろうね」
「ふふっ。パパとママと一緒におねんねしようね、歩夢」
卵に向けて優しく語りかけている沙織を見て、回復の兆しを感じた俺は嬉しさからそっと笑みを零した。これで破綻していた沙織との関係も、少しずつあるべき形へと戻ってゆくのでは──そんな期待が生まれた初めての瞬間だった。
愛息子を失った沙織には、何か心の拠り所となるものが必要だったのだ。息子を亡くした悲しみが癒えていないのは、きっと俺も沙織と同じ。それが例え得体の知れない卵だったとしても、幸せだったあの頃に戻れるのなら何だっていい。
そんな希望を胸に、俺は愛おしそうに卵を抱きかかえる沙織をそっと抱き寄せた。
この日を境に明るさを取り戻していった沙織は、相変わらず部屋に閉じこもっていることが多かったものの、その表情はとても優しく穏やかなものだった。
日がな一日、愛おしそうに卵を抱きかかえる沙織。まるでその愛情に応えるかのようにして、青黒い光を放つ不思議な卵。そんな光景を眺めながら、俺は取り戻すことのできた温かい生活に心から感謝した。
どこからともなく現れたその卵は、あの夜違和感に目を覚ますと、いつの間にか沙織の足元にあったらしい。そんな経緯を話す沙織を見つめながら、まるで我が子を他の鳥の巣へと託すカッコウのようだと──俺はそんな風に思った。
けれど、「私が産んだのよ」と嬉しそうに微笑む沙織を見ていると、そんな経緯などどうでもいいことのように思える。あんなに憔悴しきっていた沙織が、今ではこんなにも幸せそうな笑顔を見せてくれるようになったのだ。
それと時を同じくして変化したことといえば、沙織の食の好みが変わったことと、その食欲が増したということ。ムシャムシャと食事をする沙織の姿を見て、子育てとは母体にとってそれほど体力を消耗するものなのだと、その献身さに改めて感心する。
「今日の食事、とっても美味しいわ」
血の滴る肉汁を垂らしながら、そう言って嬉しそうに微笑む沙織。
「二人分だからね。沢山食べて体力つけないとね」
「ふふっ。そうね、いつもありがとう」
今まで一度だって食事の用意などしたことのなかった俺にとって、この食事の準備だけはだいぶ骨の折れる作業だった。けれど、この笑顔を守り続けることこそが俺の役目なのだ。
忘れかけていた夫としての役割、また、父としての役目を改めて自覚すると、俺は満足感から薄っすらと笑みを溢した。
◆◆◆
それから三ヶ月が経つ頃には、両手で抱えきれないほどの大きさへと成長した卵。最初こそよく分からなかったその卵も、今となってはただただ愛おしいと思える。
あれだけ沙織が愛情をかけて育てているのだから、それは当然のこと。まるでカッコウの托卵のようだと思ってしまうだなんて、一瞬でもそんなことを考えてしまった自分が恥ずかしい。
この卵は間違いなく俺達の子供で、何があっても守るべき存在なのだ。
「歩夢。パパ達の元に還ってきてくれてありがとう。今度こそパパが絶対に守ってあげるからね」
青黒く光る卵に向けて、俺は慈愛に満ちた瞳を優しく細める。そんな俺達の様子を見て、とても嬉しそうに微笑んだ沙織。
もう二度と、この幸せな家庭を失うわけにはいかない。
「見て! 歩夢が産まれるわ!」
そんな嬉しそうな沙織の声に反応して卵を見てみると、ひび割れた箇所からゆっくりとその姿を現した歩夢。すぐ近くにいた沙織の足にしがみつくと、大きな産声を上げながらかぶりつく。どうやらよほど腹を空かせていたらしい。
無事に産まれた我が子を愛おしそうに抱きしめる沙織を見て、俺はなんとも言えない感情から涙を流した。
「おかえり……、歩夢」
これでまたあの愛しい日々が戻ってくる──そうは思うものの、拭いきれない胸のつかえにそっと顔を歪める。その理由はとうの昔から気付いているというのに、俺は愛する家族を守るため、涙を流しながらも必死に笑みを浮かべる。
一度壊れてしまったあの幸せは、もう二度と失わせやしない──。
歩夢が産まれたあの日。そう心に誓った俺は、今日も愛する妻子が待つ自宅へと帰宅する。
固く閉ざされた部屋の扉を開くと、途端に漂う血生臭く淀んだ空気。吐き気を催すほどの悪臭に思わず息を詰まらせると、俺はそこにいた沙織と歩夢に向けて口を開いた。
「ただいま。お腹空いたでしょ? ご飯用意したよ」
そう声を掛ければ、片足を引きずるようにしてこちらを振り返った沙織。
「おかえりなさい。いつもありがとう」
俺が用意した食事を見て嬉しそうに微笑んだ沙織は、愛おしそうに歩夢を抱き寄せると鈴を転がすような声を上げる。
「ほら歩夢、今日の食事は歩夢の好物よ。実はね、ママも大好きなの、若い女の人。一緒に食べましょうね」
そう言ってニッコリと微笑んだ沙織は、腕の中にいる歩夢に向けて慈愛に満ちた口づけを落とす。そんな沙織の右足からは赤黒い血が滲み出し、その姿はとても痛々しいものだった。
万が一にでも食事の用意をすることができなければ、きっと沙織が失うのは片足だけでは済まないだろう。俺が用意した女性の亡骸をムシャムシャと食べ始める歩夢を見て、俺はそんなことを思う。
とても人とは思えないほどに、異形の姿をした愛しい我が子。
何かに取り憑かれてしまったのか、はたまた俺の知っていた妻とは別の、“何か”になってしまったのか──すっかりと悪食へと変わり果ててしまった愛する沙織。
例え以前とは似ても似つかない姿をしていようとも、俺が守るべき大切な家族はこの二人なのだ。
「愛してるよ……沙織、歩夢。パパがずっと守ってあげるからね」
この世のなによりも愛しい二人の姿を前に、俺は幸福に満ちた笑顔を浮かべながらも、込み上げてくる深い悲しみに静かに一人涙を流した。
─完─
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