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──昔むかし。いや、言うほど昔でもないか。『正義感を育てるのは並大抵のことじゃあない』と小さな頃の俺に言ったのは、隣の家のおじさんだった。
当時の俺は、それはそれは可愛げの無い子どもだった。何かあるたびに人と論じて言い負かすことを『正義』『大義』『理想』だと言葉を並べて、人の言い分を踏み躙り、そのたび勝ち誇っていた。思い返すと頭が痛くなる。
隣の家のおじさんは、そんな俺を見て笑っていた。
責めるでもなく、叱るでもなく、悲しむでもなく。ただ困ったような笑顔を浮かべていたのが記憶に残っている。
当時の俺は、笑わない子どもだった。斜に構えた物言いで友達も居らず、登下校の時も必ずひとりだった。
隣の家のおじさんは、そんな俺を見て笑っていた。
子ども同士の諍いを責めるでもなく、叱るでもなく、悲しむでもなく。ただ困ったような笑顔を浮かべて「おかえり」と声を掛けてくれたことが記憶に残っている。
おじさんはある日、子どもの俺でも読みやすい児童書を貸してくれた。もともと本が嫌いじゃなかった俺は、毎晩宿題を片付けてからそれをこつこつ読み進めていった。
内容を平たく言えば、英雄が悪人を倒す話。
数日掛けて物語も終盤に差しかかった頃、そのなかに綴られていた言葉に俺は目を留めた。
『負けることは悪いことじゃない』
──それは英雄が悪人に向けて放った一言。誘惑に負けた弱い自分を認めて優しさを向けることもまた正義なんだ、と切々と説いて語るなかの一節。武器を置いて『人ならば誰しも間違いはある、問題はその後をどうするかだ』と伝える姿に、なんとも言えない気持ちになった憶えがある。
自分が相手を言い負かそうとするのは『自分の正義を伝えて相手に反論させないため』。いかに自分が正しいかということを伝え、相手を頷かせるかが大事だと思っていた。
でも、相手の弱さも苦しみも認めたうえで『その後をどうするか』なんて言ったことはないし、言われたことなんて尚更ない。正しさの押し付け合いの後には、必ず痛みだけが残されていた。相手は泣いて、自分の歪んだ喜びが真っ黒に胸を満たしていた。
自分の言葉は、行動は、間違っていたのか。
いや、そんなはずはない。俺は正しい。
正しい、……ただしいはずだ。それなのにどうしてこんなに心がざわざわと騒ぐのか。
理由の分からない焦りが、心に広がっていった。
──日曜日の夕方、俺は本を返しに隣の家を訪れた。おじさんは俺の顔を見て日暮れの淡い光に照らされた頬を緩ませ、労るように俺の肩を叩いた。読み終えた本を差し出すと、陽に焼けた手が表紙を優しく撫でる。
「ボウズ、この本はどうだった」
……俺は返事に詰まった。穏やかな瞳が考えの足りない俺の全てを見透かしているような気がして、おそろしくなったのだ。自分の浅ましさを咎められているような気がした。だから俺は、そろそろと視線を逸らして呟いた。
「……よく、分かんねー」
おじさんはそんな俺を見て、小さく笑った。ふだんの困ったような笑顔とは違う。心の底からおかしそうに、仕方のない子どもを見る眼で優しく笑った。
「俺は前に『正義感を育てることは並大抵のことじゃあない』って言ったな。あれは本当だ。
正義感は生まれたての赤ん坊みたいなもんだ。色んなものを見て、聞いて、覚えていくなかで栄養をつけてすくすく育っていく。人それぞれ姿形は違うし、色んな形の正義感があって当たり前だ。人と違うことを責めてはならん。
俺から見たらボウズの正義感も生まれたてだ。これからたくさんのものを取り入れて育っていくだろう。ただ、育てていくなかで『他人を悲しませる』ことだけはするな。
そりゃそいつの育てている心を素手でねじ曲げて、おまえの持っている型に無理やり嵌め込もうとしてるのと同じだ。グチャグチャになった心は二度と元の形には戻らん」
「……悪いことをするやつにも、同じことが言えんのかよ」
俺が絞り出すように呟いた言葉に、おじさんは首を振った。柔らかな笑い皺に似合わぬ迷いのない眼が俺を射抜いて、息が止まる心地を味わった。
「そうは思わん。そういうやつらが自分の正義感を盾にして人々を悲しませないために、この世界には人として守るべき決まりごとがある。
……ああ、勘違いするな。これを貸したからって言っても、ボウズはこの本みたいな英雄にはならなくていい。ただ、自分の正しさで人を悲しませることだけはするな。
それはいずれ歪んで他人が大事に育てていた正しさの芽を摘み取る。摘み取って、踏み躙ることになる」
「──……っ」
気迫、威圧、どれとも違う切なる言葉に苦し紛れの反論も尽きた。息を呑んでその場に立ち尽くしていると、おじさんはさっきまでの言葉の鋭さが嘘のように朗らかな笑みを浮かべた。
「その本はボウズにやる」
「え、でも」
「俺はもう読まねえからな。良けりゃ受け取ってくれ」
──『そしてこの日を忘れるな』、と。戒めのように。
冬の気配を感じる一陣の風が吹いた。
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