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消えていく。
お前の涙も、声も、名前も。
『約束だよ』
そう言ってお前は、太陽のように笑った。
ずっとずっと覚えているはずだった、大切な思い出。大事な約束。
それらが全て、消えていく。
おれの記憶が、消えていく。
黒い影に奪われて、消えていく。
◇◇◆◇◇
白い場所で、少年は目を覚ました。
この世界に溶けていってしまいそうな、白い髪と瞳の少年だ。上等そうな生地の服を着ているが、土か何かで所々が黒く汚れてしまっている。
少年は寝起きのはずだが、頭の中は驚く程に澄んでいた。雑念がない、と言うべきか? ともかく、そのおかげでスムーズに状況を把握する事ができた。
まあ、状況の把握といってもたいした事はしていなくて、体を起こして辺りを見渡しただけだ。
白い、と感じたのは、辺り一面を覆う霧によるもので、起きた時に手に伝わった土の感触、肌を撫でる風から、少年が寝ていた場所は屋外である事が伺える。
少年は、この場所に全く見覚えがなかった。
なぜ自分はここにいるのかだとか、どうして知らない場所で寝ていたのかだとか、そういった事を考え解決するのが最善なのだとは分かっている。けれど、今回に限っては、どうもそうではないようだ。
「んー、どうすっかな」
なんて事を呟いて、空を見上げる。濃い霧に阻まれて、空なんて見えやしなかった。
その行動がただの強がりなのかは、少年にも分からなかったけれど。
──記憶がない。
単刀直入にいえば、少年はその状態だった。
攫われた記憶もなければ自らここへ足を運んだ記憶もない。それどころか、ここへ来る以前の記憶──どんな場所で人生を歩んで、どんな人と共に過ごして、どんな未来を辿るはずだったのか。
少年は、それらの事を何一つとして思い出せなかった。
そんな状況だというのに、少年には慌てる心などどこにもない。能天気なのかただの馬鹿なのかは分からないが、ともかく、困り顔で頭をかく以上の反応を見せる事はなかった。
ふと、風が止んでいる事に気が付いた。
既に空も見えない程の霧だったが、風が止まった事でさらに深く、濃くなっていく。
伸ばした手の指先さえ、霧に隠れて危うくなった頃。
霧の向こうから、女の声がした。
「あ゙は、チェックポイント到達だねぇ。おめでとう」
聞こえた瞬間、霧の中から白い手が出てきて、少年の手首を掴んだ。強い力だ。そのまま霧の中へと引っ張られる。
その時、少年は己を霧の中へと引きずり込んだ相手を見た。
黒いフードを被った、黒髪の女だ。もう片方の手には、黒い、液体がそのまま固形物になったかのような何かを持っている。真っ黒な外見だというのに、フードから覗く肌と瞳は、恐ろしい程に白かった。
息遣いさえ感じる程の至近距離で、少年の目を覗き込んで、女は言う。
「返してあげる。大事な大事な、一つ目の記憶を」
言うが早いか、女は片手に持った黒いそれを、少年の胸へと押し付けた。
「は……っ?」
少年の口から、言葉未満の音がこぼれる。
それも、当然かもしれない。胸に押し付けられた黒いそれは、抵抗を知らないかのように、胸の中へ吸い込まれていったのだから。
一瞬の出来事。抵抗する間もなかった。
「っ……離せよ!」
ようやく理解が追いついたのか、少年は女の手を振りほどこうとし始める。しかし、女は暴れる少年を、空になったもう片方の手でいともたやすく押さえつける。とても女とは思えない怪力だった。
女に両の手を掴まれて、少年はもがく事もできず、無理矢理女と向き合う形になる。女の顔には愉悦の表情が浮かんでいて、この状況を楽しんでいる事が簡単に想像できた。
「キミ、本当に愉快だねぇ。あ゙はは、おもしろぉい! ね、今から言うコト、一度しか言わないからさぁ。よく聞いてねぇ?」
少年は女を睨むが、女は関係なく話し始める。耳に残って離れない、煽るような、甘ったるい声で。
「キミの記憶はボクが隠した。十二の庭の、心の中にね。記憶を取り戻したい? なら──ボクを追え」
言った瞬間、女は少年の手を離した。少年はその勢いのまま、地面に倒れ込む。
「いって……っておい、待てよ! 記憶を隠したって、いったいどういう────」
再び目を向けた時には、女はもういなかった。
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