自由庭園『記憶と過去』

2/5
前へ
/5ページ
次へ
 消えていく。  お前の涙も、声も、名前も。 『約束だよ』  そう言ってお前は、太陽のように笑った。  ずっとずっと覚えているはずだった、大切な思い出。大事な約束。  それらが全て、消えていく。  おれの記憶が、消えていく。  黒い影に奪われて、消えていく。   ◇◇◆◇◇  白い場所で、少年は目を覚ました。  この世界に溶けていってしまいそうな、白い髪と瞳の少年だ。上等そうな生地の服を着ているが、土か何かで所々が黒く汚れてしまっている。  少年は寝起きのはずだが、頭の中は驚く程に澄んでいた。雑念がない、と言うべきか? ともかく、そのおかげでスムーズに状況を把握する事ができた。  まあ、状況の把握といってもたいした事はしていなくて、体を起こして辺りを見渡しただけだ。  白い、と感じたのは、辺り一面を覆う霧によるもので、起きた時に手に伝わった土の感触、肌を撫でる風から、少年が寝ていた場所は屋外である事が伺える。  少年は、この場所に全く見覚えがなかった。  なぜ自分はここにいるのかだとか、どうして知らない場所で寝ていたのかだとか、そういった事を考え解決するのが最善なのだとは分かっている。けれど、今回に限っては、どうもそうではないようだ。 「んー、どうすっかな」  なんて事を呟いて、空を見上げる。濃い霧に阻まれて、空なんて見えやしなかった。  その行動がただの強がりなのかは、少年にも分からなかったけれど。  ──記憶がない。  単刀直入にいえば、少年はその状態だった。  攫われた記憶もなければ自らここへ足を運んだ記憶もない。それどころか、ここへ来る以前の記憶──どんな場所で人生を歩んで、どんな人と共に過ごして、どんな未来を辿るはずだったのか。  少年は、それらの事を何一つとして思い出せなかった。  そんな状況だというのに、少年には慌てる心などどこにもない。能天気なのかただの馬鹿なのかは分からないが、ともかく、困り顔で頭をかく以上の反応を見せる事はなかった。  ふと、風が止んでいる事に気が付いた。  既に空も見えない程の霧だったが、風が止まった事でさらに深く、濃くなっていく。  伸ばした手の指先さえ、霧に隠れて危うくなった頃。  霧の向こうから、女の声がした。 「あ゙は、チェックポイント到達だねぇ。おめでとう」  聞こえた瞬間、霧の中から白い手が出てきて、少年の手首を掴んだ。強い力だ。そのまま霧の中へと引っ張られる。  その時、少年は己を霧の中へと引きずり込んだ相手を見た。  黒いフードを被った、黒髪の女だ。もう片方の手には、黒い、液体がそのまま固形物になったかのような何かを持っている。真っ黒な外見だというのに、フードから覗く肌と瞳は、恐ろしい程に白かった。  息遣いさえ感じる程の至近距離で、少年の目を覗き込んで、女は言う。 「返してあげる。大事な大事な、一つ目の記憶を」  言うが早いか、女は片手に持った黒いそれを、少年の胸へと押し付けた。 「は……っ?」  少年の口から、言葉未満の音がこぼれる。  それも、当然かもしれない。胸に押し付けられた黒いそれは、抵抗を知らないかのように、胸の中へ吸い込まれていったのだから。  一瞬の出来事。抵抗する間もなかった。 「っ……離せよ!」  ようやく理解が追いついたのか、少年は女の手を振りほどこうとし始める。しかし、女は暴れる少年を、空になったもう片方の手でいともたやすく押さえつける。とても女とは思えない怪力だった。  女に両の手を掴まれて、少年はもがく事もできず、無理矢理女と向き合う形になる。女の顔には愉悦の表情が浮かんでいて、この状況を楽しんでいる事が簡単に想像できた。 「キミ、本当に愉快だねぇ。あ゙はは、おもしろぉい! ね、今から言うコト、一度しか言わないからさぁ。よく聞いてねぇ?」  少年は女を睨むが、女は関係なく話し始める。耳に残って離れない、煽るような、甘ったるい声で。 「キミの記憶はボクが隠した。十二の庭の、心の中にね。記憶を取り戻したい? なら──ボクを追え」  言った瞬間、女は少年の手を離した。少年はその勢いのまま、地面に倒れ込む。 「いって……っておい、待てよ! 記憶を隠したって、いったいどういう────」  再び目を向けた時には、女はもういなかった。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加