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どうしたものかと頭を悩ませる。
あの女は誰だ? 女の言葉は、どういう意味だ? 少年の胸に吸い込まれた黒い何かは、いったい──。
そこまで考えた時、一つの名前が頭に浮かんだ。
「………………〝テオ〟」
その名前が誰のものなのか。なぜかは分からないけれど、直感が答えを告げていた。それは疑う事もできない程のはっきりとした答えだった。
風が吹いた。霧は完全に消えはしなかったものの、さっきと比べると格段に薄くなっていく。
そして少年は、薄くなった霧の向こうに、黒い影を認めた。
少年は、影の元へ走って腕を掴んだ。その影がさっきの女だと思っての行動だった。
しかし、近付いて冷静になってみると、どうも違う。掴んだ腕は筋肉質で、女のものとはとてもじゃないが思えない。身長だってさっきの女よりは高いし、なにより、その影はフードのついた服を着ておらず、代わりに王冠のような何かが頭の上で浮いていた。
その影は、少年の方へ振り向いた。
「なんだ?」
全てが面倒くさいと思っていそうな低い声。女と同じ黒い髪と白い瞳を持っている。しかし、顔も恐ろしく整ってはいたが、間違いなく男のものだ。さっきの女ではない。
つまるところ、少年の勘違いだった。
「あ〜わり! 人違いだったっぽい」
「そうか」
少年の軽い謝罪にも、男は端的にしか返さない。
少年はといえば、男の腕を掴んだままだった。男は迷惑そうにしているが、少年としてはやっと見つけたまともそうなヒトであり、貴重な情報源。手を離して霧の中に消えられでもしたら、困り果て後悔するだろう事は明白だった。
「いくつか聞いていいか? ここってどこだ? あと、黒いフードの女ってこの辺にいるか? いるなら場所をおしえてほしい!」
男は、酷く顔をしかめた。
「なぜ、名も知らないような奴に教えなくてはならないんだ?」
「おれはテオだ!」
少年が言葉にしたのは、先程頭に浮かんだ名前だった。
根拠など何もないけれど、それでも、少年は──テオは、この名が自分のものであると確信していた。生まれてからずっと自分に向けられてきた名前を自分のものだと認識するのに、根拠などいらないのと同じように。
「おれはテオ。名前以外なんにも覚えていなくて困ってる。黒いフードの女がおれを知っているようだったから、探してるんだ。知ってるなら教えてくれ!」
男は明後日の方向に目をやり思案する。そして、しばらく経った後、再びテオの方を向いた。
「……ここは自由庭園だ。全ての過去を忘れ去る事ができる場所。あらゆるものに囚われない、自由な地だ」
「庭園ってなんだ?」
「…………」
男は、それ以上答えない。聞こえていない訳ではないのだろう。ただテオの言葉を無視しているだけだ。
テオはその後も質問をぶつけるが、帰ってくるのは無言だけ。やがて、テオも拗ねたように黙ってしまう。
「……お前には、過去がない。
ここに至るまでの苦楽、関係、しがらみ……その一切を消し去り自由を得るのがこの庭園だ。故に、消し去る過去のないお前はイレギュラーでしかない。
────出ていけ」
そう、淡々と告げる男。テオは男と出会ってから短いが、それが嘘などではなく本気である事は察するに容易い。
しかし言われたテオはといえば、幼子のように頬を膨らませ、抗議の意を示していた。
「何一つ満足な説明もされずにそれだけ言われて、はいそうですかーってなるわけないだろ。せめておれの質問に答えてくれ。庭園ってなんだ? 出ていけって事はここの外があるって事だよな。じゃあ外ってのはどうなってる?」
「この方角に真っ直ぐに行けば昇降機──この庭園の出入り口がある。さっさと出ていけ。お前にここは似合わない」
「話を聞けって。なんも分からず放り出されても野垂れ死ぬだけだろ」
「野垂れ死ね」
一向に噛み合う気配を見せない会話に、双方顔を歪ませる。
男は大きく溜め息を吐いて、やれやれ、とでも言いたげに首を振った。
「お前と話すと頭が痛くなる。
……警告しておくが、余計な真似はするな」
「おい、ちょっと待てって────」
テオが言い終わらないうちに、男はテオの手を振り払い、霧の中へ消えてしまった。これほどの濃霧だ。一度見失った者を探し出すのは、到底現実的ではない。
残されたテオの選択肢は、そう多くない。
男が言い残した方角は分かっている。外という場所がどういう所かは分からないが、男のような者よりもっと親切な人がいるかもしれない。それこそ、テオの問いにしっかりとした答えを返してくれるような。
しかし、それはある種の賭けだ。テオはこの世界について何も分からず、ならば外についての想像も都合の良い希望的観測であると言わざるを得ない。事態は悪化する可能性だってある。
かといって示された以外の方角に向かうのも、何が待っているか分からないという点ではよりたちの悪い自殺行為だといえる。
「…………さて、と。どうすっかな」
心ごと溶け消えてしまうかのような深い霧の中、テオは向かう方角を決め────歩き出した。
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