自由庭園『記憶と過去』

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 霧の中に、小屋が浮かびあがる。  何も持っていない男にとって、この小屋だけが帰る場所だった。  いつもより少しだけ乱暴に扉を開け、閉める。その動作が表す通り、男は苛立っていた。なぜ苛立っているのかは、男にもよく分からない。  白い容姿の記憶を無くした少年、テオ。  この苛立ちは、過去を消すというこの庭園の法則を乱された故か? 否、男は首を振る。己がそのような殊勝な者ではない事は、男自身がよく知っている。  ここは自由庭園だ。あらゆる種族を、過去を、許容する場所。イレギュラーなどとそれらしい事を言って少年を追い出したのは、実の所、ただの私怨でしかない。そうと分かって追い出した。  ……それは、霞に消えた己の過去に、少年の姿を重ねてしまった為だろうか。 「………………」  この小屋には、誰もいない。  壁に飾られているのは、簡素な装飾が施された、一本の白い刃の剣。床に散らばるのは、木馬や積み木などの、子供が喜ぶおもちゃの数々。どれもこれも、放置され埃を被ってしまっている。  男は、足元にあった、もう何年も触れられずにいるおもちゃの一つを手に取った。それが持っているはずの思い出さえ、眩んでしまって見えないというのに、懐かしい感触が手のひらを伝う。  それは誰か、男にとって大切な人の宝物だった気もするが、その持ち主を、男はもう、思い出せない。  …………ふと、誰もいないはずのこの場所に、人の気配がした。  あれから少し時間が経っていたようだ。男は我に返り、外に意識を向けた。  小屋の外から足音が聞こえる。その音からは、おそるおそるといった様子のゆっくりとした歩みが読み取れた。しかし、それに迷いなどの揺らぐ感情は一切感じられず、足音の主が己の進む道に自信を持っている事が伺える。ゆっくりとした歩みは、足元さえ見えにくい程の濃霧に警戒しているが故なのだろうか。  足音が近付き、やがて止まった。扉が開く。男はその向こうの人物を、変わらず苛立った瞳で睨んでいた。 「ここは、俺が示した道と反対方向のはずなんだが」  開口一番、そうぼやく男。  扉を開けたテオは男の姿を認めると、自分の判断を誇るかのような笑顔を見せた。 「反対方向だからだよ。もし何もなくても、引き返せばお前の言う場所に着けるだろ? 時間はあるんだ。迷う事はないだろ」  テオは自信満々にそう言ってのける。  そのまま遠慮する事なく部屋に立ち入り、床に散らばったおもちゃや埃まみれの家具に目をやった。 「このおもちゃとかさ、お前のじゃないだろ。他に誰かいたのか?」 「……黙れ」 「いたとしてもだいぶ昔だな。でも掃除くらいしろよなー。汚れちまってるじゃん」  テオは男の言葉を無視したまま、服が汚れるのも気にせずしゃがみ込んだ。そして、目の前にある木馬のおもちゃに手を伸ばす。  しかし、その手が木馬を掴む事はなかった。 「────触るな!」  男の怒鳴り声。テオは伸ばした手を止め、ゆっくりと男の方へ視線を向けた。  男は、テオを射殺さんばかりに睨みつけている。持ったままだったおもちゃを近くの棚へ丁寧に置くが、怒りからか、男の手はほんの僅かに震えていた。 「…………この庭園は、過去を消す。俺の過去──友との思い出や、愛した人の温もりも、彼らとの別れさえ──俺はもう、思い出せない」  そう語る男は、世界の全てを憎んでいるかのような、あるいは今にも泣き出してしまいそうな、そんな悲痛な顔をしている。 「……それでも、彼らが大切な人だった事は、覚えている。ここにあるガラクタも、きっと大切な思い出だったんだ。…………俺の過去に、土足で踏み入るな。  もう一度言うぞ。────出ていけ」  殺気さえ感じる静かな怒声が、テオの思考を貫いた。逃げてしまえと、弱気になった本能が訴える。しかし、テオは心に決めた事でもあるようだ。立ち上がっただけで、小屋から出ていく様子はない。 「なーんだ。お前もそんな顔できるじゃん」  そして、変わらず軽い調子でテオは言う。 「なぁ、もしもの話だけどさ。もし、俺に記憶があるのなら──取り返したいんだ。  そこにはきっと、お前が見ているような大切な人が、いるはずだから」  男は、未だにテオを睨みつけているが……しばらくして、目を閉じた。 「──似ているんだろうな。憎らしい程に」 「ん?」  どういう事だ? そう問う声を、男は遮った。 「記憶を失っているのなら、学術庭園に行くのが一番だ。あそこは最低最悪のゴミ溜めだが、それでも、そういう事に対する智慧はどこよりもある。お前のような事例だって、見つかるだろう」  言いながら、男は近くの棚から鞄を取り出して、何か色々なものを詰めていく。 「記憶を取り戻すの、手伝ってくれるのか?」 「ああ」  出会ったときと同じ、端的な答え。  それでも、テオに取っては充分だった。記憶がない中で一人ぼっちなのは、どんなに能天気にふるまっていても、隠しきれない心細さがあったから。  しばらくして棚のものを詰め終わると、男はテオの足元の木馬を鞄に入れ、壁の剣を鞘に収めて腰辺りに取り付けた。 「行くぞ」  男はテオの横を通り、小屋の出入り口へと向かう。 「そういやお前、名前はなんていうんだ?」  そういえば、知らなかった。そんな事を想いながら、テオは問う。  男は、立ち止まってテオの方へ目を向けた。 「ゼノだ」 「……そっか。ありがとな! ゼノ」 「────ふん」  テオは、男──ゼノを追いかけ、共に小屋の外へと出た。
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