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1.二月八日
「肇のこと、ふたりで覚えていないか」
雪に閉ざされた駅のホームで座り込んだ自分に、孝貴はそう言ってくれた。
「一緒に覚えていて、一緒に思い出そう。それから、それを超えるくらい、これから先、ふたりでいろいろな経験をしよう。ふたりで時間を積み重ねて、ふたりで歳を取ろう」
もう会わないつもりだった。自分たちの関係は決して許されていいものじゃない。
でも……そんな自分に孝貴は真っ直ぐな目で言った。
南波と生きたい、と。
その瞬間、すべてを捨てようと決めた。
兄への申し訳なさも、兄の恋人を想ってしまう自分への嫌悪も。
決して兄にはなれない、もどかしさも。
なにもかも捨てて、彼の腕の中に溶けようと決意した。
今だって、その気持ちは変わっていない。
あの日、抱きしめてくれた腕の温かさは本物だったから。伝えてくれた言葉すべてに覚悟が宿っていたこともわかっていたから。
そしてその言葉そのままに、彼は一年経った今も愛してくれている。
だからこれは……全部、自分の心の弱さが生み出した葛藤だ。
唇を噛みながら、南波はそっと窓際に目を向ける。
陽光が燦燦と降り注ぐ出窓に一輪挿しが置かれていた。
白い華奢なそれは孝貴が購入したものだ。
「部屋、殺風景だし、こういうものがあったら花、飾ろうって気持ちにもなると思うんだ。南波、花、好き、だよな」
「まあね。でもどうなのかな。お互い仕事忙しすぎだし、花愛でる余裕、ないんじゃ」
照れくさそうに言う彼に返した自分の言葉があまりにも可愛げがなさ過ぎて、思い出すたびに腹立たしくなる。
本当はうれしいと思ったのに。共に暮らす部屋を少しでも居心地の良い空間にしようと心を砕いてくれる恋人に、愛おしさばかりが溢れて、飛びつきたいくらいだったのに。
ただ、その愛おしさの中に、ほんのわずかだけれど、混じってしまったものがあったことにも、南波は気付いていた。
――花が好きだったのは、肇だよ。
言いかけて言わなかった言葉は、今も胸の内で密やかに腐り続けている。
わかっている。孝貴に悪気なんてかけらもないことくらい。
彼はいつだって南波のことだけを考えてくれているのだから。不動産営業として忙しい日々を送る南波を癒せればと思ったからこそ、花を飾ろうと思ったのだと簡単に想像できる。
そうなのだ。孝貴の心は……こちらを向いてくれているのだ。いつも。
でも。
出窓に置かれた一輪挿しに活けられた、白い、花。
「南波にはさ、赤が似合うな」
そう言われたのはいつだったろう。ああ、確か一緒に公園へ遊びにいったときだ。冬で南波は赤いマフラーを巻いていた。その赤を孝貴は眩しそうに見つめていた。
赤が似合う、と言われた、自分。
じゃあ、白が似合うのは?
「南波?」
振り向くと、コートを着た孝貴が怪訝そうにこちらを見ていた。
「そろそろ出られるか? 道、混んじゃうから」
「大丈夫」
ぱっと笑顔を浮かべてみせると、彼はほっとしたように目元を和ませた。この人は感情をそれほど表に出さないけれど、南波の前ではよく笑ってくれる。彼の目尻に刻まれるささやかな笑いじわが、南波は気が狂いそうなくらい好きだ。
彼のこの顔を見るためなら、どんなときだって笑いたいと思う。
思うけれど、それでもやはり今日は少し、笑顔が引きつってしまう。
二月八日。
十年前のこの日。双子の兄、肇が死んだ。十七歳だった。物心つく前にそれぞれ父と母に引き取られて育っていたから、一緒にいた時間はそれほどなかったけれど、それでも……自分にとって肇は一番身近だと感じられる人だった。
……その大切な人の幼馴染で、恋人だった人と今、南波は付き合っている。
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