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この中にニセモノがいる――。
それは第一回世界鍋奉行大会の開始直前の出来事だった。
木枯らし吹き荒ぶ十二月末。
世間では忘年会シーズン真っ只中で賑わう居酒屋の、その座敷の一室で起きた小さな事件。
この日を――、俺は生涯忘れることはないだろう。
第一回世界鍋奉行チャンピョン 鈴白 怜
今ではすっかり寂れてしまった宵闇商店街の中程にある居酒屋「鍋処 彼方庵」の奥座敷。
予約客のみ入れるこの店は、まだ酔っ払い客の、その酒臭い吐息と無益な喧騒に染まり切ってはいなかった。
「えー、それではですね、第一回世界鍋奉行大会を始めたいと思います。えー、この度は遠い所からも御足労頂いた方もおられるのでね、大層お腹も空いとることでしょう。百八十分、飲み放題食べ放題のコースを選んでおりますので、是非皆様、しこたま腹に入れてチャンピョンを目指してください」
幹事である太った中年の男、佐藤進が上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めながら、ニコニコ顔で話し始める。その姿は現代を生きるサラリーマン姿の大黒天である。
「アハハ、それだと大食い大会みたいじゃあないですか」
「そうそう、我々は世界一の鍋奉行を決めに来たんですから」
「ハハハ、これは一本取られましたな。まあ、なんにせよ、まずは乾杯といきましょう」
大会セレモニーと言うには些か大袈裟すぎる音頭をしている最中、アルバイトの店員が忙しそうに中サイズの生ビールとジュースを参加者の前に一つずつ置いていく。
店の何処かで、すっかり出来上がった笑い声が湧き溢れた。
「さて、みなさん。ビールは行き渡りましたね? 未成年の方はオレンジジュース、我々はビール。共に、乾杯と参りましょう」
大会の開始は乾杯を以て告げられる。
参加者は皆が皆、多種多様ではあったが、にこやかな顔であった。しかしその顔の裏には、世界ポーカー大会よろしく、視線で人を射殺す程の熱い意気込みが、各々の雰囲気から滲み出ているのを、参加者一同は察していた。
我こそが、世界一の鍋奉行なのだ――と。
本日此処に集いしは、七人の自称世界一の鍋奉行。その内二人は同伴者を連れている。よってこの場にいるのは九人ということになる。九人で鍋を箸で突くのだ。キツツキの如く。
そして、皆が手にジョッキやグラスを手にした瞬間である。
「そういえば参加費ってどうするんですか? お酒入っちゃった後だとアレですよね?」
美大生の笹山静音が思い出したように言った。
「ハハハ、それですか。コース外の追加オーダーとかもあるだろうから、最後に纏めて割り勘ってことで。それでいいですよね、皆さん?」
佐藤進がニコニコ顔で周囲を見渡す。
「ええ、問題ないですよ」
「ああ、それでいい」
「うむ」
「ピニャンコフはソレでいいとオモうよ」
「あ、自分もそれで大丈夫です」
「それならよかった。ちょっと疑問だったので」
飲み会の席みたいなものだから無礼講。参加者一同は口々に割り勘を了承した。
そう――表向きは。
(みんな了承しつつ、なあなあな雰囲気ながらも、既に格付けは始まってるか。とりあえず乾事のおっさんと静音さんだったか? あの二人は確実に今のでチャンピョンの座からは遠のいたな)
鈴白怜は笑顔のまま冷静に周囲を観察し、そう評価を下す。
そしてその分析は正しかった。
件のニ名を除き、参加者はこう思っていた。
乾事なのだから始めに決めて周知しておくべき。
乾杯の直前で水を差すのは如何なものか――と。
まぁ気を取り直して乾杯という空気の中、鈴白怜は卓上にあった茶封筒を拾いあげた。
「なんでしょう? これ」
「ピニャンコフシらない」
「領収証かしら?」
「あれ、でもまだ料理出てきてませんよ?」
「確かに。普通は出揃ってからだな」
「ハハハ、チラシやクーポンかもしれませんな」
「いつからココにあったんだろ?」
皆がなんともない風を装いながら、便箋を開く鈴白怜を笑顔で見ている。
しめしめ、コイツもチャンピョンの座からは遠のいたな、と。
しかし、鈴白怜の様子がおかしい。小刻みに震える手から便箋がはらりと落ちる。
皆が卓上の便箋をグルリと囲んで覗き込む。
そこにはこう書かれていた。
吾輩こそは真なる世界一の鍋奉行!
名をポッド・ウッドペッカー!
貴君ら鍋奉行を名乗る不届き者に告げる!
貴君らが真なる鍋奉行として!
吾輩と肩を並べたいと言うのなら!
今日この場に刺客を送り込んだ!
吾輩の従僕の妨害を見事にかわし!
大会のチャンピョンになってみせろ!
追伸
尚この便箋は自動消滅しないので、機密保持の為に小さく千切ってから紙ゴミとして捨てるように。
世界一の鍋奉行 ポッド・ウッドペッカーより
「……なんですかね、これ?」
「読んでわからんものを聞かれてもわからん」
「本文は一行ごとに感嘆符がついてますね」
「ハハハ、乾事の私に内緒でサプライズですか。皆さんも人が悪い」
「うーん、僕は刺客を送り込んだってのが気になるなあ」
「あら大丈夫よ。何があっても遊くんはお姉ちゃんが守ってあげるから」
「ピニャンコフシカクじゃないよ」
ポッド・ウッドペッカーなる怪人物が残した手紙を読んだ一同は、困惑の渦へと引き込まれた。
この手紙は誰が置いたのか?
刺客は誰なのか?
ポッド・ウッドペッカーとは何者なのか?
ここで読者諸君が推理を始める時に無駄な混乱が生じないよう、この場にいる人物を整理しておこう。なにせ九人もいるのだ。これは当然の配慮である。
・サラリーマン大黒天 佐藤 進
「ハハハ、刺客だの三角だのと、まるでおでん串ですな。ハハハ」
・お嬢様然とした美大生 笹山 静音
「刺客の妨害って何でしょう? 私が佐藤さんに頼まれて作った優勝トロフィー……金の穴あきレンゲでも盗むんでしょうか?」
・寡黙で筋骨隆々な傷顔 鈴木 隆史
「刺客の狙いはその金の穴あきレンゲか。優勝トロフィーを狙う怪盗……用心して戦闘用外骨格を着てきたかいがあるというものだ」
・鈴木隆史の同伴者 アレックス
「げ、君またそれ着てきたの? ほんと用心深過ぎでしょ。まあ相手がどんな奴か分からないから仕方ないか」
・アッチラモン星系から来た宇宙人 ピニャンコフ
「ハヤ……ク、ハジマラナイカナ……あ……ア……」
・この大会最年少にして傾国の美少年 尾根諸多 遊
「うーん、目的が大雑把だから怪盗と決めつけるのは危険かもしれませんよ」
・尾根諸多遊の同伴者 尾根諸多 亜音萌
「そうよね。あくまでチャンピョンを決めるのは他薦による投票だし……。金の穴あきレンゲを盗んだところであまり意味があるとは思えないわね」
・圧倒的なまでに影の薄い参加者 音無 苦無
「……。」
・不人気劇団員にして元売れない手品師 鈴白 怜
「刺客……それにポッド・ウッドペッカー。一体全体何を企んでいるんだ?」
以上、九名である。
尚、さっき出てきたアルバイトの店員はこの話には全くの無関係なので以後記すことはない。
「この中に……刺客がいる。」
今まで無言を貫いていた音無苦無が口を開いた。
暫時、沈黙が立ち込める。
「なんにせよ、だ。その刺客とやらが武力行使をしてくるようなら、此方にも備えがあるので安心してくれ」
寡黙な傷顔が歪ながらも穏やかな笑顔を浮かべる。
「でもそれってさ、キミが刺客だったらボクら全員でも敵わないってことだよね?」
小悪魔の笑みで茶々を入れる同伴者。
鈴木隆史は溜息を吐いた。
「アレックス。どう考えたって俺はシロだってのは、お前が一番理解しているだろ?」
「さあどうだろう? わからないよ。なんせ最近は生体電脳網から脳内侵入して心も体も乗っ取る不届き者がいるらしいからね。キミはシロでもその刺客にハックされない保証はないよ」
「相互三角監視システムによるリアルタイムなスキャニングとバックアップを誤魔化せるならそいつ魔術師級だ。誰も太刀打ちなんかできやしないさ」
「あら? それなら遊くんは大丈夫ね」
「おや? それはどうしてだい?」
「それはですね、僕が電脳適合生体換装手術を受けていないからですよ」
「ほう、お前、受けてないのか」
「そうよ! 遊くんは生まれたままのプレーンな体なんだから! ちなみに私は頼れる遊くんのお姉ちゃんですから、脳と子宮を除いて全て疑似生体炭素繊維にしてるわ! この体は全て遊くんのためにあるの! それで遊くんが大人になったら――……ううん、遊くんの幼年期の終わりはお姉ちゃんがいただくの! って、キャ~!」
「姉さん静かにして。他のお客さんに迷惑かけるから」
「ヒャゥ、ごめんなさい。ゆぅくぅん、お姉ちゃんのことを嫌いにならないでぇ」
「はいはい、嫌いにならない。いい子、いい子」
「ハハハ、これではどっちが姉でどっちが弟なのか分かりませんなあ」
「なんかこの四人は刺客じゃなさそうな気がしてきました。ええ、私は美大生ですから、観察眼には多少の自信はあります」
「確かな観察眼と女の勘。こいつは頼もしいですなワハハハ!」
やいのやいのと会話が繰り広げられるが、恐ろしいことにまだ乾杯前。つまりはまだ素面なのである。その中でも特に六人は益体もない話をウロボロスの輪のようにグルグルと続けている。
そんな六人を尻目に鈴白怜はじっと一点を見つめ体育座りをしている音無苦無に話しかける。参加者全員と別け隔てなくコミュニケーションが取れることもまた、世界一の鍋奉行の必須スキルであるからだ。
「……。」
「あの……音無さん。さっきからずっと黙っていますけど、どうかしましたか?」
「ん……。基本、忍びは忍ぶもの」
「はぁ、どちらの方なんですか?」
「雑賀」
「サイガ……」
「知らなくても無理ない。伊賀や甲賀よりマイナー」
「あ、その二つしか知りませんでした」
「やっぱり」
音無苦無の表情は全く変わらないが、明らかにシュンとしているのがわかった。
「あ、ああ、でも有名じゃないってことは忍者としてすごいってことなのでは?」
「そうかな……そうかも」
「と、ところでさっきから何を見てるんですか」
「ん……アレ」
そう言って音無苦無は指をさす。
その先には――。
「うわぁ! ピ……ピニャンコフさん!」
そこには白目を剝いて倒れるピニャンコフの姿。
「いったい誰がこんなことを……」
「おい、そいつまだ意識があるぞ!」
「なにか喋ろうとしてるわ!」
「きっとダイイングメッセージですよ。姉さんメモの準備!」
「タカシ、キミは応急処置の心得くらいあるだろ?」
「人間ならな。宇宙人は専門外だ。珪素生物の体の構造なんて知らん」
「ハハハ、大丈夫でしょう。宇宙人なら魔法みたいな超科学力でなんとかできますよ」
「みなさんお静かに! 何か言おうとしてますよ!」
固唾を飲んでピニャンコフを見る参加者達。ピニャンコフは最後の力を振り絞って起き上がると、心底辛そうに口を開いた。
「ハラヘッタ」
◆
「ワハハハ、参加者の腹の虫にまで気が回らないとは、私も乾事失格ですな。ハハハ」
「私も観察力がだいぶ鈍っているみたいです。卒業製作ばかりしてないでデッサンやらないと!」
「笹山よ、現実逃避か……」
「タカシ、残酷な現実を突きつけちゃダメだよ。女心のわからないやつだなぁ」
「今の会話の流れから女心ってわかるものなんですか?」
「遊くんは女心なんて分からなくていいの。姉心が分かればいいの。ほら聞こえる? お姉ちゃんの心が遊くんの脳内に直接語りかけているの」
「みなさん、そろそろ次が煮えますよ」
「ピニャンコフこれスキ、ウマイ」
「あ……それ私の……」
「ピニャンコフさん、ドジョウ入り豆腐全部一人で食べちゃったんですか? しかたないなぁ。追加オーダーしときますね」
酒が入ったことにより自由度が加速する面々。尾根諸多遊は延々と続く会話の渦中に置かれ、音無苦無は暴走暴食ピニャンコフの侵攻をなんとか食い止めようとしている。
必然――、鍋の管理は鈴白怜が担当することになるのだった。
◆
「えー、それでは第一回世界鍋奉行大会チャンピオンを発表したいと思います。えー、投票の結果……全会一致で鈴白怜くんとなりました! おめでとう怜くん! チャンピオンにはこの金の穴あきレンゲが謹呈されます! 優勝おめでとう!」
「おめでとうございます」
「おめでとう」
「おめでとさん」
「おめでとうございます」
「おめでとう」
「オメデトウ」
「おめでとう……」
「みんな……ありがとう」
全ての参加者に、ありがとう。
金の穴あきレンゲを受け取った鈴白怜は充足感に満ちた笑顔。百八十分にも及ぶこの騒がしい参加者たちを統率し、飲み放題食べ放題コースを恙無く進行させるのは想像以上に骨が折れたのだ。しかしそれでも鈴白怜はやりきった。参加者も酩酊した頭でそれが分かっているから鈴白怜に投票したのである。
「ハハハ、そろそろお開きの時間ですな。第二回世界鍋奉行大会の開催決定は後日。宵闇商店街の酒屋前の掲示板にポスターを貼っておくので忘れずに! これにて第一回世界鍋奉行大会を閉会します!」
「ほ〜た〜るのひ〜か〜あ〜り」
「だいぶ酔ってるな笹山、足元に気をつけろ」
「タカシ、そういうキミもだいぶ酔っているぞ。まったく、キミたちはモンゴロイドなんだからあまりパカパカアルコールを摂取してはいけないよ」
「ゆぅくうん、お姉ちゃんゆぅくんと結婚するう。ね、チューしよ。お姉ちゃんとチュー」
「はいはい、お家に帰ってからね。姉さん転ぶからちゃんと歩いて」
「ピニャンコフ、ヨッパラッた。あいすタベタイ」
ゾロゾロと店を出ては宵闇商店街に散っていく参加者たち。鈴白怜は店先に置かれた灰皿の近くでその背中たちを見送りながら煙草に火をつけた。
「……ん、タバコ。吸うんだ」
「え、ええ。すみません」
「別に、平気」
「最近はどこでも肩身が狭くて……」
「ふぅん……。次も参加する?」
「ええ、機会があれば。音無さんは?」
「する。今度は忍術も使う」
鍋奉行を決める大会でどんな忍術を使うのか皆目検討がつかない鈴白怜であったが、自分も手品師だった経歴があるからきっと似たような感じのものだろうと考えた。
「鈴白は元手品師だから、相性はいい」
「忍術とですか?」
「……ん、わたしと」
音無苦無も酔っているからやや饒舌。だから二人の距離感もかなり近くなっていた。
「忍術……教えてあげようか?」
「そうですね。簡単なものなら」
「じゃあ……今から房中術、教える」
「ええ? 今からですか? もう夜遅いですし酔ってるから次の機会にしましょう」
「……そう、わかった」
コクリと頷く音無苦無の頭にふわりと白い粒が落ちる。
「あ、雪だ」
紫煙を吐きながら鈴白怜は空を見上げる。暗黒に染まる空からはチラチラと雪が降りてきた。
「……そろそろ行く」
「ええ、ではまた」
店先に一人残った鈴白怜は再び紙箱から一本煙草取り出し火を点ける。コンビニから出てきたピニョンコフがUFOの光に吸い込まれ何処かへと飛んでいった。
――また煙草に火を点ける。
――もう一本。
――さらに一本。
――そして紙箱から煙草が消える。
「帰るか」
街灯の光だけになった宵闇商店街の通りを歩く鈴白怜。寒さとニコチンで酔も冷め、淡いみぞれの夜を征く。横断歩道に差し掛かり足を止めると、じょいやさじょいやさとソリを引く一団が横切った。ソリには何やら豪華な品々。
「正月の買い出しもしないとな。今回の一芝居で食費も浮いたし。今年はちょっといいもん食えるかな。みんなころっと騙されたもんな。自称鍋奉行の世界一を決めるのに本物も偽物もないわな。みんな最後まで気付かなかったけど……おかげで副賞で参加費タダになったのはありがたい」
冷たい闇の中に浮かぶ赤信号を眺めながら鈴白怜は独り言ち、そして再び歩きだす。奥歯が震える頃には家に着くことができた。
「うー、さび。もう零時まわってんのか」
部屋に着くなり暖房と換気扇のスイッチを入れる鈴白怜。換気扇の下には二口コンロの側に灰皿と煙草がワンカートン置かれている。
帰ってきてまずは一服――と思ったその矢先。来客を報せるチャイムが鳴った。
「こんな時間に? はい、どちら様ですか?」
「私です。先日助けて頂いた鶴子で御座います」
「え? 鶴子さん!」
火を点ける前の煙草を放り投げ、玄関のドアを開けるとそこには見目麗しい和服令嬢の姿。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花といった具合であるが、頭に積もった雪のせいか、その華やかさは陰っている。
「こんな時間にどうされたんですか?」
「先日行われた児童養護施設でのクリスマスパーティーの件で改めて御礼をと思いまして」
ただの気まぐれと偶然。
鈴白怜は先日あった児童養護施設のクリスマスパーティーでインフルエンザの欠員が生じたのでその代役を引き受けたのだ。次の舞台公演まで間が空いたので、暇を持て余したが故の何気ない行動だった。しかし施設を経営している袋小路家は身寄りのない子供たちを支援することに大変なまでに心を割いている。
旧華族の家柄はこんなにも義理堅いものなのか。
一般人である鈴白怜は若干の驚きを覚えた。
「子供たちが怜お兄ちゃんにお礼がしたいって。そう言いましてね。ケーキとクッキーを焼きましたの。鈴白様は甘いものが好きと仰られていましたので」
「そんな気を使わなくてもいいのに」
「子供たち、すごく喜んでいましたのよ」
袋小路鶴子はそう言って風呂敷包みを差し出す。中には立派な漆塗りの重箱。中を開けるとカップケーキやクッキーがギッシリ入っていた。
「すごい……」
「私も少しお手伝いしましたの。でも子供たちが殆ど自分たちで作ったんですのよ」
「なんか申し訳ないなぁ」
「鈴白様の人徳が成せたこと。どうぞ御賞味下さいませね」
袋小路鶴子は袖口顔にクスリと笑う。だがその顔はどこか曇っていた。
「あの、折角なので二人で食べませんか?」
「宜しいのですか?」
「さ、上がってください。男鰥の汚い部屋で申し訳ないのですが」
「ええ……、では失礼します」
まだ何か問題を抱えているであろうことを察した鈴白怜は袋小路鶴子を部屋へあげる。意外にも元来まめな性格の鈴白怜の部屋はそこそこ片付いている。愛用しているクッションを座布団代わりに鶴子に宛てがい、自身は茶を沸かす。
「その……大変申し訳無いのですが……、鈴白様に一つお願いが御座いまして」
「何でしょう? 俺にできることならなんでも相談にのりますよ」
鶴子の儚げな美しさに邪な男の性を隠すようにしてコンロの火を眺める鈴白怜。
「私、父から縁談の話を頂きましたの。ですが私には既に意中の方がいまして……」
「はあ、つまるところ俺にその代役をして欲しいと」
「こんなことをお願いするのは大変申し訳無いのですが……、鈴白様は劇団員。私の意中の殿方を立派に演じる事ができると思っておりますの」
「いえ、そんなことはないですよ。きっと俺なんかにはわからない事情もお有りなのでしょう。俺なんかで良ければ是非」
そうは言っても鈴白怜の胸中に広がるのは些か残念な気持ち。だが折角自分を頼ってきた美人令嬢の申し出を無碍にもできずそれを了承した。
「後日、父との面会がありますので……その時改めて御連絡を」
「ええ、こんな大根役者で良ければ。力の限り演じきってみせますよ」
「ふふふ、鈴白様ったら。流石は私の見込んだ殿方で御座いますね」
偽りの恋人となど演じだこともない鈴白怜。だがそれでも自分を頼ってきた相手に全力で応えるのが彼の性分なのだ。
この日の出来事を生涯に渡り鈴白怜は忘れる事はないだろう。なにせこのあと袋小路鶴子の意中の相手が自分だと判明し、袋小路家に婿養子として迎えられるのだから。
「鶴子さん、俺、頑張って君を幸せにするよ」
「旦那様、鶴子はこうして一緒になれただけで幸せで御座います」
――そして誓いのキス。
偽物の関係から始まる夫婦生活もある。
最後に主人公とヒロインが誓いのキスをして終わればハッピーエンドなのである。
故に物語はここで終わる。
二人の未来に幸あれ。
了
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