芽吹く日々

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 名刺ファイルの表紙をめくる音が静まり返ったオフィスに小さく響く。次々と名刺を抜き出し、段ボール箱へと移していく。どれもこれも、この先、自分にとって必要のないものばかりだと分かっていた。それでも一枚一枚、指先を走る紙の感触に、少しだけ手が止まる。名刺の隅にメモした日付やひとことが目に入るたび、過ぎ去った場面がふと蘇る。独特なデザインや凝った紙質が、些細な出来事を記憶の隅から掘り起こすようだった。建築家やデザイナーの名刺はとりわけ印象的で、交換したときの会話さえ頭の中をかすめる。  昨日からほとんどの時間をオフィスの隅に追いやられたシュレッダーの前で過ごしている。溶解処理の依頼はしてもらえなかったから、地道に細断するしかない。個人で使用していた仕事のファイルは、引き継ぎを終えて不要分は全て処理を終え、いよいよ名刺ファイルに手を付けているところだ。退職の挨拶は済ませたし、親しい人にはプライベートの連絡先も伝えた。だからこのファイルも無用の長物なのだ。  ふと、手に取った一枚の名刺を取った時ちょっとごわごわした手触りなのが気になって見直した。控えめなフォントで書かれた名前と会社名には見覚えがなかった。多分、仕事には結びつかなかった相手だろう。名刺の隅に、  『この紙には花の種が漉き込まれています。水につけると発芽します。』  との注釈が入っていた。思わず眉を上げる。そう言われるとシュレッダーにかけるのはどうにも気が引けて、その名刺をそっと胸ポケットに滑り込ませた。  転職先への初出社を翌日に控えた夜、スーツのポケットに放り込んだまま忘れていた名刺に気が付いた。手にして眺め、そのままの勢いでコップに少しだけ水を張り、名刺をそっと沈める。紙が水を吸い込みながら、ゆっくりと柔らかくなっていく様子を見守った。  最初の一週間をようやく乗り越えた金曜日。くたびれた足取りで家に帰り、ふと窓辺に置いたコップを見やると、名刺の表面からいくつもの小さな芽が顔を出していた。その鮮やかな緑を見た瞬間、胸の奥で小さな灯がともるような気がした。  百円ショップで小さな鉢を買ってきて、名刺をそこに移して土をかけてやる。  新しい日々の中で、芽は次第に葉を広げていく。その姿に、自分もまたここで少しずつ成長していこうと気持ちが沸き立つ。小さくても誰かに何か残せるものがあるなら、それほど幸せなことはないのではないか。  言い聞かせるように思いながら、鉢に水をやってまた窓辺に戻す。  陽の光をたっぷりと浴びて育つその葉は、青々と輝いていた。
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