柚子のある風景

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 通学路の曲がり角には、古く大きな一軒家がある。秋になると庭の木には黄色く大きな実がなっていた。グレープフルーツによく似た果実だけれど、それより少し清涼な香りがした。その香りは、遠い昔の冬に嗅いだことがあるような気がした。懐かしくて、体の芯から温まるような気持ちになった。 ――あったかいねえ、花音ちゃん。 ――ぽかぽかするね、おばあちゃん。 ――そうだねえ、ぽかぽかするねえ。おばあちゃんと一緒にお風呂の中で百まで数えようか。そうしたらね、神様が花音ちゃんのこと病気からも怪我からも守ってくれるんよ。  しゃがれた声。浴室いっぱいの湯気。湯船に浮かぶ黄色いボール。沈めて遊ぼうとすれば、またぷかぷかと浮いてきた。浴室は爽やかな香りに包まれていた。遠い冬の記憶。  黄色い実のなる木を手入れしているのはおっとりとした雰囲気の老婦人だった。「おばあちゃん」よりだいぶ若く、七十代前半といったところだろう。下校する時、二ヶ月に一度ほどの頻度で目が合った。 「こんにちは」  挨拶をしてくれる声が少し「おばあちゃん」に似ていた。だから、私は笑顔で挨拶を返した。 「こんにちは!」  優しそうな人だった。たとえば、先生に怒られたり、些細な喧嘩をしたりと、ちょっと嫌なことがあっても、心が洗われるような気がした。家までの長い道を歩く足取りは少し軽くなった。  木は初夏に純白の花を咲かせた。こんな綺麗な花を育てる人だから、きっとあの老婦人は心も真っ白な人なのだろうと思った。強い風が吹いた日は、大きくて長い花びらがひらひらと舞い落ちてきた。地面に落ちる前にキャッチ出来たら、明日はハッピー。そんな願掛けをして手を伸ばす。花びらを掴めた日はとても幸せな気持ちになった。あまりに上機嫌だったから、帰り道はスキップをした。いい香りがする花びらは、朝の読書タイムで読む本の栞にした。  四年生になると、老婦人とはめっきり会わなくなった。一つ目の理由は、クラブ活動が始まって下校時間が遅くなったから。私は昔からバイオリンを習っていたので、オーケストラ部に入った。二つ目の理由は、朝の登校時刻が変わったことだ。スマートフォンを買ってもらったこと、ドラマを見るようになったことが原因で夜更かしすることが増えた。そのせいで、朝起きるのが遅くなり、今までこの道はゆっくり歩いて登校していたけれど、今では楽器とランドセルを担いだまま全力疾走で登校している。  顔を合わせることはなくなったけれど、老婦人は元気にしていると信じていた。夕日に照らされた木は相変わらず手入れされ、堂々と佇んでいたから。初夏には和を象徴するような可憐な花をつけ、秋には香り高い果実をつける。そして春も夏も秋も冬も、その木には深緑色の生命力あふれる葉が茂っていた。柚子の木の隣にある楓の木が真っ赤に染まっても、葉が落ちきって丸裸になっても、一年中変わらない緑がそこにあった。 「お嬢ちゃん、何してるの」  ほんの一瞬だけ魔が差した。給食のメニューは大人気のカレーだったので、すぐになくなってしまいおかわりができなかった。二十分休みも昼休みも氷鬼をした。今日は運悪く両方じゃんけんで負けて、ずっと走りっぱなしだった。おまけに六時間目の体育はミニバスケットボールでだいぶハードだった。オーケストラ部の間もずっとお腹が鳴りそうなのを我慢していた。何とか我慢して楽器を片付けている最中に、チェロ担当の唯奈が自慢した。 「駅前に新しいケーキ屋さんできたじゃん? パパがね、昨日買ってきてくれたの。グレープフルーツのタルトがすごくおいしかったんだよ」  ごくり、と喉が鳴った。他愛のない話だったけれど、今の私にとっては耳に毒だった。今日は両親ともに帰りが遅い日で、必然的に夕食の時間が遅い。頭の中は空腹の二文字でいっぱいだった。  そんな帰り道で、夕日に照らされた鮮やかな黄色の果実たちが芳香を放っていた。心なしか輝いて見えた。 ――グレープフルーツタルトが美味しかったんだよ。  低学年の頃は遥か頭上にあったその実も、六年生になって背が伸びた今ならジャンプすれば届きそうだ。たくさんあるから一つだけなら。ここ二年間老婦人と顔を合わせていなかったから、今日に限って見つかるなんてことはないと思った。  乾燥した落ち葉が散らばる道路にそっと楽器ケースを置く。木の真下に陣取って、思いっきり腕を伸ばしてジャンプした。私の手はがっしりと実を一つ掴むことに成功する。スーパーで売っているグレープフルーツより、だいぶ果皮がデコボコしていた。その時、後ろから声が聞こえた。 「お嬢ちゃん、何してるの」  老婦人に見つかってしまった。言い逃れできないミカン泥棒の現行犯。 「ごめんなさい!」  警察に捕まってしまうかもしれないと思い、焦った。 「ごめんなさい、お腹空いてて、グレープフルーツが美味しそうだったんです。返します。今はお金持ってないけど、後でちゃんと弁償します。ごめんなさい」  彼女は私の楽器ケースを拾い上げる。 「ダメじゃない、せっかくの楽器、地面に置いたら汚れちゃうでしょう」  注意されているのに、その口調は穏やかで責められているようには感じなかった。それに、果物を盗んだことそのものは怒られなかったことが意外だった。彼女はポケットからハンカチを取り出すと、埃や砂がついた部分を丁寧に拭いてくれた。 「あとね、それはグレープフルーツじゃないわよ」  彼女は笑っていた。 「お腹が空いているんだったら、何か食べていく?」  私は反射的に頷いた。言語化できない部分で、この人を信用していた。  彼女に連れられて家に入ると、玄関には他の人の靴はなく、他の人の気配もなかった。居間に案内され、サンドイッチを出される。ふわり、といつも通学路で全身に感じている香りがした。食パンの間には黄色いジャムが挟まっている。 「いただきます」  私は手を合わせると、サンドイッチにかぶりついた。甘さの中にほろ苦さがある。美味しい。何より、爽やかな柑橘類の香りが脳に直接流れ込んでくる。私はあっという間にサンドイッチを平らげた。 「お家で、ご飯食べさせてもらってる?」  彼女は遠慮がちに質問する。 「今日はたまたま、親の帰りが遅い日で……。普段は、ちゃんと食べてます」 「それはよかった。そうよね。こんな素敵な楽器買ってくださる親御さんだものね」  彼女はほっと息をついた。私を怒るどころか心配してくれていたようだ。普通の家庭に生まれて、何一つ不自由していないのに果物を盗もうとした自分が恥ずかしくなった。 「ごめんなさい」 「そんなに萎縮しないで。育ち盛りなんだから仕方ないじゃない」  彼女は私にお茶を出しながら微笑んだ。私はそれを飲む。我が家の緑茶よりも濃厚なお茶だった。 「ありがとうございます」 「こちらこそ。いっぱい食べてくれて嬉しいわ」 「美味しかったです。ごちそうさまでした」  私が感想を伝えると、彼女は顔を綻ばせる。 「本当? 嬉しいわあ。それね、ユズのジャムなの」 「ユズ?」 「そうそう。ゆず湯って言ってね、冬至の日にお風呂にユズを入れると風邪をひかなくなったり、邪気を祓ったりしてくれるのよ。でも、今の子はやらないかもしれないわね」  彼女のその言葉を聞いた途端、あの道を歩くたびに思い出していた幼き日のお風呂の記憶が蘇る。そうか、あれはおばあちゃんが生きていた頃の冬至の日の思い出だったんだ。  おばあちゃんは四歳の頃に亡くなった。だからほとんど覚えていない。母曰く、伝統行事を大切にする人だったらしい。おばあちゃんが亡くなってからは、ゆず湯に入ることはなくなった。でも、おばあちゃんとゆず湯に入った記憶が確かに私の中にあった。それがなんだか嬉しかった。 「昔は入ってました」 「それは素敵ね」  そう言うと、彼女はお皿と湯呑を片付けようとする。色々してもらったので、せめて後片付けくらいしようと思った。 「あ、おばあちゃん、私、片付けする」  言った後にハッとする。おばあちゃんと彼女の雰囲気が似ていたことや、おばあちゃんのことを思い出していたこともあり、つい馴れ馴れしい呼び方をしてしまった。 「あ、ごめんなさい」 「いいのよ。おばあちゃんで。その呼ばれ方も懐かしいわあ」  彼女は常ににこにこしていた。 「おばあ様はおいくつ? 私と同じくらいかしら」  母は祖母が三十三の時の子で、私は母が三十の時に生まれた。頭の中で計算をして質問に答える。 「生きてたら、七十五」 「あら、私とちょうど同じね」  彼女は一層嬉しそうだ。テーブルの上の写真立てには白黒写真と画像の荒いカラー写真。白黒写真には若い夫婦が赤ちゃんを抱いて映っている。カラー写真では赤ちゃんを抱いた若い夫婦と少し老いた女性が楓の木の下に立っている。どちらも、若い植物の苗木が傍らに映っていて、この庭で撮ったものに見える。子や孫と私を重ねているのだろうか。 「娘も孫も海外にいるのよ」  彼女は語り出す。旦那さんを早くに亡くして、女手一つで娘の楓子さんを育て上げた。楓子さんは二十五歳で娘のゆずさんを出産。仕事で忙しい楓子さんに代わって、孫のゆずさんの面倒を彼女が見ていた。ゆずさんはお転婆で手のかかる子だった。ゆずさんが十二歳の時に楓子さんの仕事の都合で、娘夫婦一家はドイツに渡った。大まかに言うとそういう話だった。  庭の楓の木は楓子さんが生まれた時に、ユズの木はゆずさんが生まれた時に植えたものらしい。娘や孫の話をするときの彼女の目は慈愛に満ちていた。私は彼女に強い親近感を覚え、本当の祖母のように感じていた。相槌を打っているうちに、気づけば敬語も取れていたが、彼女はそれを咎めることはしなかった。 「バイオリン、昔から習ってるの?」 「うん、三歳の頃から。将来は音楽の道に進みたいんだ」 「素敵ねえ、羨ましいわあ」  音楽の話は楽しい。話していて止まらない。発表会に向けて練習を頑張っていること、進学予定の中学はオーケストラ部に力を入れている学校であることなどを話す。彼女はニコニコと話を聞いてくれていた。  話は大分弾んだが、完全に暗くなる前に御暇することにした。 「またいつでも遊びに来てね」  私はとても満たされた気持ちで家路についた。  翌朝、私は早起きして余裕を持って学校へ向かった。いつもの道の清々しい香りが少しずつ強くなっていく。これはユズの香りだ。名前を知ることで、世界の解像度が上がった気がする。曲がり角に差し掛かると、「おばあちゃん」が家の前の道を掃き掃除していた。 「おはよう、おばあちゃん!」  私から挨拶をした。 「おはよう、花音ちゃん」  昨日、私は話の流れで名前を名乗った。おばあちゃんの名前は聞かなかったが、古い表札には「小守桃子」と書いてあった。本来は小守さんもしくは桃子さんと呼ぶべきなのかもしれないが、「おばあちゃん」という呼び方が一番しっくりきた。  おばあちゃんが挨拶を返してくれる。清々しい朝。私は晴れやかな気持ちで通学路を歩いた。  私は夜更かしをやめて、ゆっくり歩いて登校することにした。早い時間の方がおばあちゃんと会う確率が高かった。朝、おばあちゃんと交わす数言の会話がとても大切な時間に思えた。おばあちゃんと私をユズの木が見守ってくれているような気がした。  晴れの日も雨の日も、ユズの木の葉は青々と茂っていた。三学期になって、寒さがいっそう厳しくなっても葉はしゃんとしていた。おばあちゃんが、孫のために手入れをしている木が元気にしている。それだけで寒さも吹き飛ばせるくらいに温かい気持ちになった。 ◇  今日は小学校の卒業式だ。謝恩会では、オーケストラ部の面々でお世話になった先生や保護者に曲を披露した。演奏は大成功だった。  両親は卒業式も謝恩会も来てくれたけれど、私は三年間クラブ活動で使っていた音楽室で余韻に浸りたかったので先に帰ってもらった。充分に思いを噛みしめた後、楽器とランドセルを担ぎ直して校門を出る。  曲がり角の木は、今日も変わらず葉が茂っていた。爽やかなユズの香りと、バターと砂糖の甘い匂いがした。中学は反対方向にあるから、この道を通ることはもうない。最後におばあちゃんに挨拶をしようと思った。インターフォンのボタンを押すと、おばあちゃんはすぐに出てきた。 「卒業、おめでとう」  おばあちゃんは私を居間に案内してくれた。ユズのジャムの入った紅茶と、ユズの香りのパウンドケーキが振る舞われる。 「今日、卒業式って言っていたでしょう? だからお祝いに久々に焼いたのよ。孫がこれ、好きだったから。って言っても、三年に一度くらいしか帰ってこなかったから数えるほどしか作ってないんだけれどね」  ユズのジャムを練り込んで焼いたパウンドケーキはしっとりしていて、重厚感の中に爽やかさがあった。私は夢中で食べて、おかわりまでしてしまった。ユズの紅茶は優しくてほっとする味だった。  食べ終わった後は、謝恩会での演奏が大成功だったこと、みんなに絶賛されたこと、バイオリニストへの道を突き進むことを報告した。 「よかったねえ。私もバイオリンやりたかったわあ」 「やらないの?」 「私が生まれたのは戦後すぐの貧しい時代でね、楽器なんて贅沢はできなかったのよ」  おばあちゃんは寂しそうな目で答えた。 「昔の話じゃなくて、今はやらないの?」  こんなおいしいケーキを作れるおばあちゃんは手先が器用だし、話している限り耳が遠いようにも思えない。 「いやだあ、私もうおばあちゃんどころか、ひいおばあちゃんなのよ」  おばあちゃんはそう言うと、私を庭に案内した。ユズの木の隣に、小さな苗木が植えてある。 「先週ね、曾孫が生まれたから植えたの。これもユズの木」  十八年前に両親とともにドイツに渡ったゆずさんも今年で三十歳。現地の男性と結婚して、女の子が生まれたと言う。名前はユリアちゃんと言って、漢字では柚里愛と書くらしい。 「でも、ユリアのユズの木が実をつけるまでは生きられないわねえ」  心臓がドクンと鳴った。 「何で……?」  おばあちゃんの顔を直視できないまま質問する。おばあちゃんは体が悪いのだろうか。 「桃栗三年柿八年って言うでしょう? あれ、続きがあってね。梅はすいすい十三年、ユズの大馬鹿十八年って言うのよ。この木も、結局楓子とゆずが日本にいる時は実がならなくてね……。ゆずが大人になってからよ、ちゃんと実をつけてくれるようになったの」  十八年後、おばあちゃんは自分がこの世にいないと思っているのだろうか。私は、おばあちゃんが死ぬ想像をしたくなかった。 「その時おばあちゃんまだ九十三歳じゃん。そんな悲しいこと言わないでよ」  私は声を絞り出した。 「九十三歳って、おばあちゃんもおばあちゃんよ。今でさえ、もう完全におばあちゃんだから何もできないのに」 「できるよ! 私のひいおばあちゃんは百歳まで元気だったもん。九十三歳なんて、全然若いよ!」  おばあちゃん、すなわち私が祖母だと思っていた人が本当は曾祖母だと知ったのは六歳の時。曾祖母の三回忌をきっかけに知った。母がおばあちゃんと呼んでいたから、私もそのように呼んでいた。曾祖母は若々しかったので祖母だと思い込んでいた。彼女は亡くなる直前まで元気で、百歳のある朝眠るように息を引き取った。 「それに、私の本当のおばあちゃんだって、生きてたら今もハイキングしてるはずだもん!」  祖母は私が生まれる前に亡くなった。享年六十歳。病死ではない。むしろ、パワフルさが有り余っていたがゆえに亡くなった。彼女は登山が趣味だったらしい。山岳事故で亡くなったと言う。  曾祖母は、昔は先に亡くなった娘を「親不孝者が」と散々言っていたらしいが、私の記憶の中の曾祖母は写真に手を合わせて優しい声で語り掛けていた。 ――天国では怪我しないように山を楽しむんだよ。  曾祖母は、祖母が亡くなるまでは彼女の趣味を応援していたらしい。自分の生きる道を貫いて、山で生きて山で亡くなった祖母。晩年はようやくそれを受け入れることができたのかもしれない。 「おばあちゃんも、やりたいことやろうよ。おばあちゃん、まだ若いんだから」  私はケースからバイオリンを取り出した。子供も孫も手が離れたおばあちゃん。自分の道を歩んだっていいはずだ。 「今からでもやろうよ、バイオリン。みんなが日本に帰ってきた時、びっくりさせちゃおうよ」  私は楽器の持ち方をおばあちゃんに説明した。おばあちゃんが恐る恐る私のバイオリンに手を伸ばす。大事に受け取ると、私が教えたとおりにバイオリンを構えた。人に教えた経験はないけれど、手探りで弓の使い方を教える。掠れた音が何度か鳴る。諦めない。おばあちゃんにバイオリンを楽しいと思ってもらいたい。やりたいと思ってもらいたい。  何度目かの挑戦で、完璧とまではいかないけれど綺麗な音が鳴った。確かに、おばあちゃん自身が奏でた音だ。 「鳴った! 鳴ったわ!」  おばあちゃんが大きな声で喜んだ。声が踊っている。目が輝いている。 「ほら、できたじゃん!」  私も嬉しくなって、開放弦の演奏法だけでなく、弦の押さえ方も教えた。さっきのはまぐれだったのかもしれない。音が安定しない。それでも、頑張って教えた。おばあちゃんも頑張った。そうしたら、また綺麗な音が鳴った。 「ほら、弾けてる! おばあちゃん、バイオリン弾けたんだよ!」 「花音ちゃん、ありがとね」  おばあちゃんは丁寧に私にバイオリンを返した。 「始めてみようかしら、私も。花音ちゃんはバイオリン、どこで習ってるの?」  キラキラした目で尋ねられる。私は嬉しくなって、通っている教室の名前とバイオリンを買ったお店の名前を教えた。 「せっかくだから花音先生の演奏も聴きたいわ」  バイオリンをしまおうとすると、おばあちゃんに演奏をリクエストされる。私は今日謝恩会で弾いた曲を弾く。たった一人のためのコンサートは生まれて初めてだ。演奏を終えると、おばあちゃんが拍手をしてくれた。 「素敵。木も喜んでるわ」  音楽を聴かせて育てると、植物がよく育つと言う俗説があるらしい。 「私も十八年練習したら、今の曲も弾けるようになるかしら」 「その半分で余裕だよ。私、九年目だもん」 「だといいわねえ。そしたら、花音ちゃんと一緒に音楽できるわね」 「うん、セッションしよ! 約束だよ」  私たちは指切りをする。先週植えたユズの木が一人前になるまでに、一人前のバイオリニストになろう。おばあちゃんと一緒に、この木の下で最高の演奏をするんだ。 「ねえ、私、また時々遊びに来るよ」 「あら、花音ちゃんの演奏を聴いたら木も早く育つかもしれないわね」 「おばあちゃんが練習してるだけで、きっと元気に育つよ」 「じゃあ、頑張らなくちゃね。じゃあ、またね」 「うん、またね。おばあちゃん」  さよならを言うつもりでここに来たけれど、「またね」と言って別れた。  通学路を風が吹き抜ける。大きなユズの木の葉がさわさわと音を立てる。おばあちゃんが三十年間見守り育ててきた木。今度はこの木が、新たな道への一歩を踏み出したおばあちゃんと子供の木を見守る番だ。  この木は来年もその先も変わらず、おばあちゃんや通学路の子供達を見守り続けるだろう。五月になればこの木は綺麗な花をつけ、秋になればまた美味しくて綺麗な実をつけるだろう。でも、きっと今年の花は去年より綺麗で、実は去年よりおいしい。おばあちゃんのバイオリンを聴いて生きるからだ。 「よしっ、私も頑張るぞ」  私には三人のおばあちゃんがいる。育ててくれたおばあちゃん、自分の生き様を貫いたおばあちゃん、そして同じ道を進むおばあちゃんだ。三人のおばあちゃんに恥じない自分になるために、今まで以上に練習しよう。明日からじゃなくて今日から頑張るんだ。  帰り道に向かってまっすぐ私の影が伸びている。進むべき道を示すように夕日が照らしている。六年間歩き続けた通学路を、私は思いっきり駆け出した。
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