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あの人がきっとここに来たら。
私は海の見える砂浜のコテージにいる。
コテージは冬の間はカフェとして経営されている。
秋になるとみんな店じまいしてしまうけど、この店だけは固くなに越冬する。
「越冬つばめ」
彼は私に暖かいコーヒーを差し出す。
逆巻く波。激しく切り立つような空の音。
「異世界みたいね。何?越冬つばめって。」
私が彼に言う。
「俺がコーヒーを買いに行っている間にそこに座っている君の姿が、越冬つばめみたいだなって。」
「なんだ。私、不倫関係なのかと思っちゃった。」
「どういうこと?」
「私のお父さんが、森昌子ファンだったから。」
「森・・?」
「全然知らないのね。」
「あー懐メロのねー。ヒュールリーって。」
「そう。」
「あー全然関係ないよ。それとは。」
「そうよね。」
彼はコーヒーが入ったカップの蓋をめくり上げ、必死に砂糖とミルクを注ぎ込む。必死なのは風で吹き飛ばされそうになりながら、であるためである。
「君はいつもブラックだね。」
「そうよ。私はこの苦味の中に甘さを感じるのがやめつきなの。」
「かわらないね。」
「あなたもね。一緒にデートする時はいつも私より甘いものばかり口にするから、なんだか私は肩身狭かった。」
「よくそんな事を覚えているね。」
「うふふ。私はあなたに首ったけだったから。忘れられない記憶。」
「ありがとう。」
彼は数年前に一命をとりとめる、という言葉がふさわしいような、自動車事故に遭った。半年くらい意識不明だったが、奇跡的に蘇り、そして今ここにいる。
「あの自動車事故がなければ、僕はきっと君と結ばれていたと思うんだ。」
彼が意識を無くしている間に、私は同じ職場の上司の課長と恋に落ちた。寂しくて逃げ場の無い檻の中にいた私をやさしく受け止めてくれ、そして気が付けば愛し合う関係になっていた。
「もう、やり直しは効かないね。」
彼が髪の毛をかきむしるような仕草をしながらこちらを振り返る。
大きな風が吹いていたから、少し聞き取りずらい。
「そうね。」
「なんで、待っていてくれなかったんだ、なんて言える立場でもない。でも魔法とか、異世界転生とか、そういうのがあるのだったら、違う世界線で君に再会したいよ。」
「またー。オタク全開なんだからぁ。そんなところも好きだったわ。」
「少しはオタクの事、理解してくれたんだ。」
「今度の彼は・・夫は全くオタクじゃないわ。」
「ふ・・ふうん。そうなんだ。」
少しスネたような風の彼。
私は悪戯っぽく笑う。
二人の二人にしかわからない絶妙な空気と間合い。
それをどれだけ強風が引っ掻き回そうとしても崩せない。
そうやって、彼と私の間に強固なコネクションがある。
だから、彼と結婚したかった。
でも、私は違う男を選んだ。
それも、彼が怪我で苦しんでいるその間に。
「まるで、奴は夜這いかけたようなものだ。」
「え?夜這い?」
「そうだ。俺といういい名づけがありながら、君のいる屋敷に忍び込んで、既成事実を作り上げた、やましいやつだ。」
「ちょっと!彼はそんな人じゃありません!!」
「・・・知ってるよ。単なるやきもちだよ。」
少し顔が紅潮した。
「結局・・あなたと一緒にいると・・私、間違いを犯してしまう・・と思うので・・帰るね。」
私は少しよろけながら、木製の椅子から立ち上がる。
飲み切れていないコーヒーの存在に気が付き、手元に取り戻す。
「間違いって。君は何も間違ってないよ。」
「わ・・・私・・・」
私の中で燃え尽きないままに残されていた彼への気持ちの礫が、再び燃え上がるのを感じていた。でも少なくとも距離を置けば、きっと元の世界、元の世界線に戻れるはず・・。
去ろうとする私の手を彼が・・。
振り返ると口づけ。
「なんでこんな事になったの。」
私は彼を押しのける。
「まって」
「待てない。私のお腹には彼の子供がいるの!」
「それでもいい!月に1回、いや、年に1回でもいい、俺と会ってほしい」
「それはできないわ。」
「なんで!!」
「私はもう・・彼のものなの!!」
私はそう言い残し、その場を去った。
行く当てもなく、海沿いの道を、長い道を徒歩で登る。
目に涙がこみあげて来る。
路肩に車を止めている彼の姿。
「お別れは済んだかい?」
「うん・・。」
「寒いから早く入って。」
「ありがとう」
車の助手席に座るように促す彼の姿。
車は走り出す。
古い彼を残して。
(終わり)
作成日:2024年11月25日
著者:lhormace
題名:『越冬の女』
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