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・7
部屋の扉を開けると、メは両手をせわしなく動かして何か参考書のようなものを読んでいた。彼は『おかえりなさい』といったが、僕はそれには返事をせずに本棚に近づいた。
その、1番下の段の、右端。
今までほとんど読んだ事がなく、埃をかぶっていたその冊子を、僕はぱらぱらとめくった。
『どうしたのですか、コウヘイ』
「……。辞書」
『はい?』
「おまえ、元から『辞書機能』がついてたんだって。知ってた?」
メの取扱説明書をぱたんと閉じる。それと同時に、メの動きが止まった。
ふり返る。メはいつものように、レンズをきいきい鳴らした。
「――おまえ、僕を育てていたんだな」
僕がまだ小さかった頃、メはいろいろな事が分からず、あらゆる事に興味を持ち、そして知りたがっていた。そういうふうに見えた。
でも、実はそうではなかったのだ。
メは、自身が知らない事だけでなく、元から知っている事でも『あえて』僕に調べさせ、そして僕に学習させていたのだ。
――自分だけでなく、僕自身も同時に成長させるために。
「……メは、今となってはかなり古いロボットだ。メーカーのサポートだって終了してるし、どんなに大事にしてもとっくに動かなくなってるだろう。
……でも、メはまだ生きてる。おまえは生きるために、これからも生き続けるために、ずっと前から計画して『親』である僕の事を育成していたんだ。少しずつ知識を蓄えさせて、修理や改造の技術も身につけさせた」
『それは面白い推理ですね。でも、まったく根拠のない想像です』
「今まで勉強や進路にそれとなく首を突っ込んで僕を誘導してきたのも、自分自身のためじゃないのか? 将来僕が良い企業にでも入れば、おまえの生活の質も今よりずっと良くなるだろうし」
『話があまりにも飛躍しすぎている気がしますが、まあ良いでしょう。では仮に、もしコウヘイがいった事が事実だとして。……だとしたら、いったいなんなのですか? 何が問題なのです?』
メは小さく発光してから、両の手をぎいぎい動かした。
『自身でも理解しているとおり、コウヘイは非常に優秀です。一流と呼べる大学への進学も決めていますし、まさに順風満帆といっていい。お母様もさぞ鼻が高い事でしょう。それなのに、何が不満なのです?』
僕はメにゆっくりと近づき、「どうして黒崎を巻き込んだ」といって唇を噛んだ。
「今日、告白をしてはっきり分かった。やっぱり僕は、彼女に恋なんかしていない。どうしてそんな嘘をついたんだ」
『ああ、ようやくですか。OKしてくれたでしょう。コウヘイは気づいていないようでしたが、彼女は明らかにコウヘイに好意を寄せていましたから』
「そうだとして……どうして彼女とつきあう必要がある」
『コウヘイの未来のためです。恋愛は心を豊かにしますし、生活の質を高めてくれます。それに彼女は優秀です。容姿も良い。申し分ない相手でしょう』
「ふざけるな!」
僕はその時、おそらく人生の中で1番大きな声を出した。メにつかみかかり、力を込める。
肩で息をしながら、それでも声をしずめて、「電源を切る」といい放った。
「……僕はおまえの操り人形じゃない。まわりの人もこれ以上巻き込みたくない。だから、もう終わりにしよう」
『それは無理です』
「なんだと?」
『コウヘイには無理です。わたしがいないと、もうコウヘイは生きていけません。そうやって生きてきたんですから』
「おまえがいなくたって……!」
『では、今日の晩ご飯は何にしますか?』
「え……?」
急にそんな事をいわれ、つんのめりそうになる。メは声調を変えず、淡々と話し続けた。
『今夜お母様は仕事で帰りが遅くなるといっていましたね。ご飯も適当に食べておいてくれと。いったい何を食べるつもりですか』
「そんなの、適当に……」
『カップ麺ですか。冷凍食品ですか。それとも今から買い出しに行きますか。何を買いますか。どのくらい買いますか。金額はいくらまで使うつもりですか。いくら使ったら、お母様は怒りますか。さて、何を買いますか』
それは。本当にたいした事のない話だった。
けれど、そんな『たいした事のない話』をメに捲し立てるようにいわれ――僕は放心したように身体を震わせた。
――いったい、何を食べるのが正解なんだ?
おそらく、正解などない。何を選んでも、たいした違いはない。
それでも僕は……そんな事すら、自分で選ぶ事が出来なかった。
出来なく、なっていた。
「……」
メから指を放す。
汗なのか涙なのか分からないものが、頬を伝う。
メの、目が、動いた。
『――コウヘイ。これからもずっとそばにいて、わたしの事を育ててくださいね』
レンズがきいきい鳴る。
幻覚だとは思うが、その時メが、初めて笑った気がした。
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