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「え、僕は行かないよ」
それはまさに、青天の霹靂。
順を追って愛を育んできたと思っていたオレは、その言葉で硬直した。
今まで一度もオレからの誘いを断らなかった恋人。
そんな彼が、あまりにもあっさりとNOを突き付けて来たのだ。
「う、嘘でしょ? 久々の長めの休みだよ?」
「知ってる、それは嬉しいよ。けど、旅行は行かない」
「……そ、そう」
「うん。それ以外だったら考えるから」
「わ、分かった……」
「分かって貰えて嬉しい。おやすみぃ……」
「ああ、おやすみ」
隣で寝ることは全然否定しない。
むしろそこが当然みたいな顔で、身を寄せて来ている。
安心しきった様子で寝るまでの時間も早かった。
どうやら、信頼を失ったとかそういうわけではなさそうだ。
相手を起こさないように静かに考えを巡らせる。
一体オレの何が良くなかったのだろうか。
付き合い始める前から、ゆっくり時間をかけて関係を積み重ねていた。
相手をびっくりさせないように。
そして傷つけないように。
というかオレが傷つかないように。
同性との恋愛はどうかさりげなく聞いて。
オレとの距離感を何度も確認して。
もしかしたら友情さえも終わるかもしれない。
そんな覚悟の元に告白、からの了承。
本当に誘いを断ることは一度もなく。
ドキドキしながら聞いてみてもいつだって。
「うん、いいよ」
嬉しそうに、楽しそうにそうやって言ってくれる姿が大好きで。
段々と慣れてきていた自分が居たのは事実なのだけれど。
付き合い始めて3年目。
前々からいつか行こうねと話していた旅行。
それをこんなにもあっさりと断られる。
悶々として、今すぐベッドの上をコロコロ転がりたい気分だった。
もちろん、恋人が隣で寝ているのでそんなことは出来ない。
考えても答えの出ない事に悩み続けていると、声がした。
「ごめん、トイレ」
「あ、おう。寒いから上着とか着ろよ」
「うん、着てく」
眠そうにしつつのそのそと起き上がり、上着を適当に羽織りながらトイレに行く背中を見送る。
ものの数分で戻ってくると、水で冷たくなった手を絡めて来た。
「ぬくい」
「オレはちょっと寒い……けど早く温まるからいいや」
「へへへ、ありがと」
嬉しそうに笑うと、顔を胸に押し付けて暖を取りに来る。
まだ布団の中はしっかり暖かいので、暖房をつけるには少しだけ早い時期だった。
可愛い奴だなぁ、とつぶやきそうになるのを我慢した瞬間。
相手の顔が見えない今がチャンスだと思った。
「あの、さ……」
「なぁに?」
顔を上げる気配はなく、くぐもった声がする。
手で頭を撫でるフリをして、顔がこっちに向けられないように祈った。
「なんで、旅行はダメなの?」
「……ん?」
「いや、その。何か理由があるのかなって、気になっちゃって……」
「そう?」
「いっつも、オレの誘いは断らないじゃん?」
「あぁー……なるほど」
うんうん、と顔を押しあてたまま頷いている。
多分眠くて反応がちょっと適当になってる気がする。
けど、こういう時はさらに言動は素直なのもオレは知っていた。
「美味しいって言ってくれたから、かな」
「……え、何が?」
「もしかしたら苦手かもって思ってたんだけどさ、食べてくれたのが嬉しくてさ」
「う、うん? 話が見えないんだけど……」
困惑するオレにお構いなしで、寝ぼけている恋人は続ける。
「だからね、育ててるの」
「へ?」
「毎日お世話したいから、部屋を開けたくなくて」
「一体、何を……?」
ぴたりとくっつけていた顔を離して、眠そうにしながら彼は良い笑顔でこちらを見て言った。
「ぬかどこ」
「ぬ、か……え?」
「ぬか床」
「ぬかどこ……って漬物の?」
「そう~。ちょっと始めたらハマっちゃって」
「その話、オレ聞いてないよ?」
「言ってない。だまーって僕が漬けたヤツこっそり出してた」
「……出してた」
振り返ってみると、ここ最近必ずと言っていいほど漬物が並んでいた。
オレは帰ってくるのが遅かったり、そもそも家で食べなかったりする。
帰れない、なんて日もある。
連絡を入れてはいるとは言え、時間も読めないのにご飯をいつも帰ると用意してくれている。
それだけでもありがたいのに、なるべく暖かいご飯で出してくれている。
だから何を作るか、何を買って来て出すかは完全にお任せしていた。
「……あれ、漬けてたやつなの?」
「うん。好きなモノ最初と最後に食べるでしょ?」
「あ、ああ……」
「その枠にも入ってて嬉しかったから、ダメにしたくないんだよね」
「……ぬかどこを?」
「好きって言ってくれたから、おいしいままにしたくて」
「それで、旅行だけはダメ、と」
「うん」
オレのせいで、とかじゃなくて。
オレのために、みたいなものではないでしょうか。
心の声なのに何故か敬語になるぐらいには良い。
「……そっかぁ。じゃあ仕方ないなぁ」
「ごめんね」
「今度の休みはゆっくり二人で過ごそうか」
「うん。僕それだけで、幸せだから……」
まだ眠かったのか、そこまで答えてくれたけれどそのまま眠りに落ちて行った。
彼の寝息を聞きながら、理由が分かってスッキリしたオレも瞼を降ろす。
「ぬかどこって、育てるって言うんだなぁ」
考えた事をそのまま音にしても、返事はない。
丁寧に育てた関係性が壊れていないのもわかって随分と気が楽になった。
せっかくだから今度、どうやっているのか聞いてみよう。
旅行はなしになったけれど。
明日の朝食に並ぶ、彼の育てたぬかづけを楽しみにしながら。
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