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 暗闇に揺れる数多の蝋燭の輝きに誘われる様に、男の子は両手に持っても余る太い蝋燭をしっかりと握りしめ、独りぼっちの心細さを抱えながら歩いていた。  今にも消えそうな芯に残った仄かな火が音を立てては揺れる細い煙が無くなる前に、あの行列に加わらなくてはならないと本能に背中を押され短い足を不器用に動かす。  蝋燭の灯りに照らされてぼんやりと視界に入る自分の足に子は少しばかり首を傾げたが、とにかく今はあの集団の中に混ざらなければという思いで顔を上げ、不器用にまた一歩を踏み出す。  見知った顔は無い。穏やかに消えた蝋燭を見つめる者もいれば、困惑して静かに揺らめく炎にじぃっと視点を置いて動かない者、半狂乱で騒ぐ者もいた。そんな雑然とした人混みの間をするりするりと縫う様に行き交う男がふと声をかけてきた。 「おや、ずいぶんと小さいな。ん? もう炎は消えているね……さて、何があったか、覚えているかい?」 「わかんない……ここ、どこ? おにぃちゃん、誰?」  うーん、と唸った後、男は子を抱き上げて、再び消えた蝋燭を握りしめている老爺の傍へと近寄って行った。 突然の行動に身を硬くして息を飲んだ。 「どうだい? 把握できたかい?」 「はい。どうやら闘病の果てに全うした様です……家族にも恵まれて、そうですね、良い人生でした」 「そうか。じゃあ、此方でもう少し待っていておくれ」  そう老人に言い残すと、男は子を片方の肩に乗せて滑らかに人波を縫い進む。咄嗟に子は無造作に伸ばされた髪の一房を掴み、落ちないように男の頭を抱えた。 「貴女の灯火も消えてしまったね。ずいぶん落ち着いているけれど、納得はできているかな?」  問いかけられた中年女性は煙だけが燻る蝋燭から男へと視線を上げると、ゆっくりと頷いた。 「事故だけど、自損じゃあ仕方が無いわ。他人様を巻き込まなかっただけ幸運って事で。子供達にもきっと心労はかけちゃったんだろうけど、少しばかりの生命保険も入るし、もう成人しているんだから私の役目は終わりって事ね」  肩の上の子には彼女があっけらかんと話す言葉は何一つ理解できなかった。男は不安そうな子をしっかりと押さえると、しゃがんですっと手を差し伸べた。彼女は躊躇いもなくその手を取った。  男は再び待たせていた老爺の元へ行くと、二人を石鳥居の前に立たせ、それぞれの手を取って鳥居の中へと引き入れた。  瞬間。再び蝋燭が青白い炎を揺らし灯った。男はその二つの光をじぃっと見つめていた。  枯れ木の様だった老人は黒々とした髪をかすかな風に靡かせ、皺の消えた己の手の甲を見て目を開いた。中年女性も同様に若返り、ぺちぺちと頬を触っている。  男の肩に乗った子は尾骶骨(びていこつ)からぴょこんとひょろ長い獣の尻尾が飛び出した。 「貴方達が一番活気満ち溢れ、幸せだったと自認する頃の姿だ。相違無いかな?」  二人が互いに顔を見合わせて、双方の瞳に映った姿を確認しおずおずと頷くのを察すると、真っ直ぐに腕を伸ばし、人差し指で更に薄暗い奥を指差した。 「迷わずに手前から二つ目の狭間へ。そこで再び(とき)満ちるのを待たれよ」 「ああ……若い頃に本で読んだ事があったが、まさか本当だったとは」  元老人が呟くと、男は子の両膝を抱えていない方の手を両端が微かに上がった唇の前にかざし、指を立てた。 「さあ、心穏やかに逝かれるが良い……そして、おチビさん。本当に何も覚えていないのだね。自分が何者だったのかも。無垢ゆえに最期に見た種族(モノ)の形を模したのか……」  肩に乗った子に語りかける男は再び小さく唸ると、再び鳥居の外へ出て蝋燭の消えたもの達の元へと向かった。  半狂乱で金切り声を上げる女の傍に男が立つ。  身を捩り、泣き叫ぶ声は掠れ、頬を濡らす涙は化粧を溶かし、もはや妖怪の類にさえ見えた。彼女の泣き声に萎縮したもの達はじりじりと距離を取り、彼女を中心に群れたもの達の輪ができていた。  肩の上の子は恐怖からか、無意識で男の髪を更に強く掴む。 「鎮まれ」  男は喚き散らす女の頭を鷲掴むと、光の無い目を覗き込んで一喝した。  女は小さく喉を鳴らし、男の腕力に逆らえ無いのか、掴まれたままの姿勢で男を見つめ返した。 「何があったか、言えるな?」 「あたし、あたし殺された! なんで? いっぱいお店通って、いっぱいボトル入れて、借金までして貢いだのに、なんで……ねぇ? なんで? なんであたしじゃない女と結婚すんの?」 「人の世の事情は知らぬがな。お前は、何をした?」  髪を振り乱し泣いていた女を見て、男の肩に乗せられたままの子をつきんと軽い頭痛が襲う。無言で耐えた子に、男は小声で大丈夫かと尋ねた。 ーーおにぃちゃんは、何でも解るんだ!ーー  子は妙に座り心地の良い肩の上で一人納得し、気にかけてもらえた事が何故か嬉しくてならなかった。 「今一度、問う。何を、した?」  力のこもった声は怒鳴り声では無いのに、身が竦む様な凍った音だった。女は暫し黙り込むと、難しそうな顔をして、口を小さくぱくぱくとさせる。 「……多分、多分ね、あの女さえいなければ良いと思ったの。高い服着て、苦労なんて知りませーん、みたいな顔してさ……下心丸出しのオヤジの相手なんてした事も無いお上品なお嬢様でお綺麗な顔であたしを見下してきて……だから……ええと、何をしたのかしら? 階段から突き落とそうとした気もするし、包丁で刺しちゃえって思った気もするの……」 「そうかい。自分が何をしたか、されたか。そして結果がどうであったか。それがはっきりと浮かび来る時に再び面前に立つ。それまで蝋燭の芯を見つめ、騒がずお過ごしいただきたい」  すぅっと指先で女の握る火の消えた蝋燭を指差すと、振り返り、鳥居の前に集まったもの達の前に立ち、一人一人に同じ質問を繰り返していた。肩に乗っていた子が覚えてしまう程に、誰にも同じ様に、何があったか、納得はしているかと繰り返している。  頷くものは鳥居を通され、先程の男女の様に消えた蝋燭が再び灯った後は若返り、言い渡された場所へと踏み出すのを見送る。  肩の上から男が指差す方向を眺めると、交互に地面に亀裂が入っている。  手前の方、三つの亀裂は緩やかでゆっくりと歩いて降りて行けそうだった。ただ、奥の奥、眉間に皺を寄せて目を細めて見なくてはならない程の暗がりにある亀裂は、なだらかな傾斜もなくただ地面が口を開けているだけに見える。男にその場を指定されたものは降りるのに躊躇し、ぐるぐると入り口をただ回っていた。 「……己の招いた事。後で良い。おチビさんも気にしない様に。ところで名前くらいは思い出したかい?」  俯いて首を振る。その振動で男はそうかと呟き、また別の火の消えたものの前に立つ。  繰り返される問いかけと応答、狂騒。そして訪れる静寂と鳥居との往復ーーこの場で行われる全てを子は青年の肩の上で覚えたのだった。  男は肩から子を降ろし、待っている様にと穏やかに言い聞かせて暗く深い闇の裂け目へと歩き出した。  心細さに追いかけそうになる足に力を込めると、連動して尾が垂れた。鳥居の内側にいても聞こえてくる半狂乱の怒声や罵声が怖くて仕方が無いのだ。人間の言葉が大半で、それでも動物の声もあった。種族関係なく子は怖くてならなかった。しかし同じくらいに、奥の裂け目も恐ろしくてならなかった。結果、男の言葉通りにその場で待つ、という選択しか思い浮かばなかった。  まるっきり独りぼっちでは無いのだと自分自身に言い聞かせ、子は男の背中を見つめ続けた。 「嫌だ嫌だ、地獄じゃないか!」  男に食ってかかる声がありったけの怒りを含んでいた。泣きそうになりながら、耳を両手で塞ぎつつ、声がした方を思わず見遣る。  裂け目に手を掛け、四つん這いで覗き込み悲鳴に似た声を発する者に近づき、無言で蹴り落とす男の姿が微かに見えた。 「……え?」  彼の肩はとても居心地が良かった。何も言わなくても不安や不調を察してくれたあの優しい男が誰かを蹴り落とす姿に、子は言いつけを守る事ができなくなり、目に涙を浮かべて恐ろしい音が渦巻く暗闇を駆けた。    「待って! おにぃちゃん、やめて! やめてぇ!」  子は暗闇の中で何度も転び、両の膝から血を垂らしながらも起き上がり、無表情に行きたくないと懇願する者の背を蹴り恐ろしい亀裂へ落とす男の元へと辿り着いたのだった。 「嫌だ嫌だと小煩い……其方、因果応報自業自得という言葉、知っておろう? 此方へ導かれたのも、二度目の蝋燭が消えた時。私が見て、お前が納得したその結果。だのに今更ぐだぐだと。醜い事、全くこの上ない」  吐き捨てる様な男の声はとても冷たく、子は男の着物の裾を握り締めると、その場にへたり込んでしまった。 「罪は罰となりて贖えばいずれ赦しが訪れ……おや? おチビさん、どうかしたかな? 此方は危ないよ?」   足に縋りつく子を見下ろす男はいたって穏やかな表情を浮かべ、そっと手を伸ばし子を再び抱え上げた。 「おにぃちゃん……」  続く言葉を子は発せなかった。言いたい事や聞きたい事は幾つかあったが、辺りの空気の重さや頭を抱えて泣き喚く影の塊たちはやはり恐ろしくてならなかった。  男に担がれて初めて、大地がぱっくりと裂け大口を開けている様子が見えた。  足掛かり一つもなく降りるには絶望的な断崖絶壁に、闇より暗い穴の奥底からは微かに呻き声が、吹き上がってくる風に乗って周辺の空気を更に澱ませている。 「此方は、地獄への入り口だよ。深くて暗くて底なんて見えない、降り方すらわからない。覚悟を決めて落ちるしかない、そんな場所だよ。怖いだろう? だから待っていてねって言ったのに。全くおチビさんは……え? 怪我をしたの?」  男はちょうど目に入った子の膝から滲んでいる血を見て、少し驚いた様に語尾をあげた。  嫌だ、怖いと駄々をこねる影達を無視して、男は引き伸ばした袖の先で細かな砂を払い落とす。袖が触れる度にびくりと揺れる細い足はやはり頼りなく、赤い血を流し続けている。 「痛い、かい?」  男に優しく問いかけられた子は、一瞬息をつめ、震える声を搾り出した。 「いた、痛くな……痛くないもん、痛くな……痛ぁぅわああああん!」  突然の号泣に、男は驚き、担ぎ上げた子に回した腕にぐっと力を込めた。 「大丈夫、大丈夫。此方ではもう、死ぬ程の痛みや苦しみは……」  苦痛は無いはずなのだ。  此方は黄泉比良坂、死者の場所。  穏やかな死も、突然の死も、絶望に満ちた死も、全てが蝋燭の炎と共に消え、次の世界への為の禊が用意された廻る世界である。  蝋燭が二度目に消えるまで、男は穏やかに、ただ辺りを巡っているだけだ。揺れる蝋燭の灯りの中に浮かび上がった生前の行いを確認し、当人の納得を確認する。先程半狂乱になっていた女を鎮めたのは、魂の不安伝播を防ぐ為であった。実際、女の激しい動揺に肩の上の子は引きずられそうになっていたのだ。だが、それはあくまで、特例だ。   長い闘病から解放され、特段悪さをせず生涯を閉じたものは、蝋燭が消えても比較的穏やかで、人間界への入り口へと案内されれば素直に準備された階段を降りる。  人間とはつくづく業が深い生き物だと男は常々思う。  非道の限りを尽くした者は、地獄の大穴へと導かれ、荒ぶり叫び、声を嗄らす。  これが獣であったなら、(ことわり)に則り、弱肉強食、食物連鎖の結果として、皆がたいていは納得して示された場所へと歩みを進めるのだ。  しかし、人間だけが、抗おうとする。  それをどうするのか、その采配を任されているのがこの男であり、彼の導きには迷いがなく、種族に対しての区別も無い。  逝かねばならぬ場所を、ただ迷いなく指差す。  そしてお世辞にも良い死後の世界だとは言え無い場所で躊躇う魂を、在るべき場所へと、時には乱暴に落とすのが幽世之神(かくりよのかみ)から与えられた仕事であった。  何年、何百年と続けた暗闇の道案内。  彼は疑問に思う事もなく、的確に使命をこなしてきた。だが、死後も痛いと泣きじゃくる子には初めて会った。いや、本当はいたのかもしれない……覚えていないだけで。人や動物の死を見届け、見送るのに記憶は邪魔だった。覚えていれば、要らぬ心を寄せてしまう。それを覚えたのはかなり早い段階だった。他者の痛みを心に刻んでいては、この任は全うできないと男は心を閉ざしていた。  いくら神でもーー神だからこそ、男にとって忘れると言う事は、自己防衛のひとつだった。 「おにぃちゃ、優しいのに、やめて……怖いよ」  髪をむんずと掴んで離さない子が、敢えて忘れているという現実を思い出させたのだった。 ーー無垢の魂、子であるが故に情が強いのだろう。 「でもね、おチビさん。こうしなくては、彼らは逝けないんだよ。きちんと逝くべき場所に逝けないんだよ。すぐに終わらせるから、耳を塞いで、目を閉じていてごらん」 「やだよぉ……おにぃちゃんが、悪い人になっちゃう」 「ならないよ? これは偉い神様からもらった役割だから」 「でも……」  言い淀む子から流れる血は彼の白い着物の袖を染め上げてゆく。  幼児(おさなご)の伝えたい事は解らないわけではなかったが、彼にとっては幽世之神から与えられた使命を遂行する方が重大だった。その為にはまずはこの子に泣き止んでもらわねばならない。  血が止まれば少しは落ち着くだろうかと考えながら男は子供を鎮めねば、と考えた。 「おチビさん、おチビさんが心配する事は何も起こら無いから、泣き止んで。さぁ、そろそろ血も止まるよ。だから目を閉じて耳を塞いでいなさい」 「ほんとに?」  鼻を啜り上げる子に一瞬、情がわいた気がした男はその感情を慌てて振り払う。  何故なら、この子は何一つ生前を覚えてい無い稀有なる無垢だからだ。  無垢だからこそ、己の所業は、どれ程の非道に映ってしまうのだろう?   在るべき者を在るべき場所へ……たったそれだけの事に心を痛める存在が今まで傍になかった事を改めて思い知る。  己に課された使命を労って欲しいと思った事は無い……はずだ。叱責されたとて、その程度の認知かと鼻で笑い飛ばせたのだ。割り切ったはずの心を、この幼児は掻き乱すーー。 「本当だよ。おチビさんが思い出せないなら仕方無い。後でその偉い神様に会わせてあげよう」  無垢すぎて生前の記憶がないと言っても無理だろうと判断した男の頭には、自分より更に上位の神に渡す方法しか思い浮かばなかった。 「その神様、こあい?」 「ふふ、怖さなんて少しもないようなお方だよ」  男は血の染みついた袖でこの顔を隠すと、もだもだと逃げ回る奈落に落ちるべき魂を次々と蹴落としていった。   震えしがみつくこの子の記憶が戻るまでこうしてもいられない。自分には課せられた使命がある。  記憶が戻ったとしてどうするかは、幽世之神が決めれば良いのだ。それが良いのだ。  男は自身を納得させる様に胸中で繰り返し、子を落とさぬ様に無意識に気を遣いながらも蹴り落とす足を止める事はなかった。 ーーごめんな、おチビさん。これが俺の仕事の一つなんだーー  小刻みに震えながら髪の束を握り締める軽い軽い身体の子を乗せた肩だけが、やけに重いと感じる。  伝える気も無いくせに胸をよぎった言い訳めいた思いに男は苦虫を噛み潰した様な不快感だけを覚えた。
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