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初めてのお酒
彗星が空を駆ける夜、私は下駄をカツカツと鳴らして小走りしておりました。
もうこんなに暗いというのに私の旦那様はまだ帰ってこないのです
旦那様は絵描きというもので、けれど熱心に一つ作るとそれをどうにか高く売らせてその金が無くなるまで酒屋に居座るのです、朝から昼から晩からと日の高さなど関係なく、旦那様のお金に寄ってくる仲間たちとのんきに歌って飲んでゲラゲラと品なく笑っておられます。
今日もきっとそうでしょう、隣にダンサーだか飲みの嬢だかの綺麗な人を侍らせて楽しくお酒を飲むのです、好きに女遊びをして、女として足らぬ私を辱めるために着替えを持って来させ金を渡すのでしょう、
私は右の胸に膨らみがなく子を産めぬ腹を持っております腹は生まれた頃から、旦那様も最初は「それは良い、子供は面倒、金食い虫だ、産めぬならそれでいい」と私を迎えてくださいました。
それでも旦那様の女遊びも酒も初めの頃から変わることの無いことですが私はどうもその悪い遊びをする旦那様がとても素晴らしいお方に見えて旦那様に尽くしており、そう居ていればたくさんの女の中から選んでいただき一人の妻という称号をくださったのです、私が真の旦那様のただ一人の女と認めてくださったのです。
周りは辞めなと言いました。けれど私はそれが一層嬉しく、親も友も何も捨てて旦那様に寄り添ったのでございます。
旦那様のお遊びは収まることはなく、ずっと変わらなかったのですが、私が右の胸に病を抱え、その女の膨らみを無くしましたら痛ましいような妬ましいような目をなさるようになりしだいに家にいることが無くなったのでございます。
この頃には私はなんて自堕落で自分勝手で下品な方に寄り添ったのかと思いました。
でもそれが旦那様なのです、先日一人の女が旦那様に子を作りました。
それを聞いたのは女が旦那様に子の名前をもらいに来た1週間後のこと、珍しく家で酒を飲む旦那様がその子の元に行きたいのだと思いました。
「私は離縁されるのでしょうか」
私がそう申せば旦那様は1言
「とんでもないことを言うな」
それだけ言って盃をひっくり返し酒を無心いたしました。
私はそれが嬉しくて、やはり旦那様の真の女は私だけなのだと心躍る思いでお酒を注ぎました。
その翌朝はとても冷え私も旦那様も日も登らぬうちに目が冷めました。
「朝飯」
旦那様はそうおっしゃってアトリエに入っていきました。
私はつまみやすい旦那様の好きなサンドイッチを作って、絵を書く旦那様のそばに置いて部屋を出ました。
その日の絵が売れたのでしょう、画商の田中様が旦那様が着替えを求めてらっしゃる、急がなければいけない、もう米もないでしょうと言って帰っていったのですから、その田中様からも微かなお酒の香りがいたしましたから旦那様に飲まされたのでしょう、言葉は伝えたと田中様はすぐに帰られました。
もっと早く言って下さればいいのに飲まされていたものだから、遅くなったのか、こうして私は彗星が駆けるのを見ながら酒屋に向かっているのでござきます。
カツカツ音を立てながら、旦那様に女として扱われなくなった私はこんな夜道に女で一人で歩かなければならないのです、
なんとか何もなく酒屋に付けば男も女もなく楽しく飲む旦那様の集り達が楽しく高らかに歌っているのです。でもその中に旦那様のお姿はありません、いつも宴の席の真ん中で大きな声で歌っていらっしゃるのに今日の宴には旦那様のお姿が見えないのです、
静々と仕事をする女将に声をかけます。
「女将様、旦那様はどちらに?」
私がそう聞きましたら女将は痛ましい顔をして
「今日は帰りなさい、お米がないなら少し分けてあげます、今日はあの人に合わないほうがいい」
女将のその言葉にいつもの私ならハイハイ聞いたのでありましょうが、どうにも胸のざわめきがさめやらぬもので
「旦那様はどこですか」
少し言葉を強めて言えば女将は首を振って
「向かいの宿屋にいらっしゃる、女といっしょにいらっしゃる」
何だそんなもの、いつもの事なのになぜ女将は痛ましい顔をして、私を追い返そうとしたのか
「あい、わかりました。ありがとうございます」
私はそれだけ言って酒屋を出て宿屋に行きました。
宿屋の女将も顔見知りでございます、女将は私を見ますとこちらも痛ましい顔をしてこう言うのです
「着替えは預かりましょう、お金は明日、明るい時にもらいに来なさい、送りを付けてあげますから今日は帰りなさい」
酒屋の女将も、宿屋の女将もどうして私を送り返したいのだろう、いつもならあんなどうしょうもない人を健気に支える私に呆れて私のしたいようにしてくださりますのに、何を隠したいのかと思っておりましたら女の声がいたします
「もう柳様、そんなにお身体をお壊しになるほど飲んではいけませんわ、ほらほら一人で厠もいけませんもの」
「香子、お前はいい女だなぁ、俺のハナタレ小僧の頃からそうさ、お前が貴族でなければよかったのに」
それはベロベロに酔った旦那様と私によく似た、いえそれでも私より美しく気品のある女性でした。二人は私に気がつくことなくお手洗いの方へ消えていきました。
女将様はそれはそれは痛ましい顔をして
「今日は帰りなさい」
それだけ言いました。
私はぐるぐると雷雨の雲のように黒い靄が胸を締め付け、けれどあの女性を知りたく、酒屋に帰りました。
戻ってきて私の青い顔を見て女将は首を振りました。
私は静かに女将の前に座りました。
女遊びはいつものことですお酒はいつもの事です。
女将は静かにコップを洗って、酒を叫ぶ男に酒瓶を渡して、何も言わず仕事をしながら私に暖かなココアを入れてくれました。
そこに意地の悪い嬢が、私に妻というあの人の特別を盗られ嫉妬していた嬢が笑って言いました。
「柳様は重田財閥のお嬢様の幼馴染なんですって」
「おやめ!八重!」
「重田財閥の使用人の息子でお嬢様と幼い頃から居たけれどお嬢様は許嫁様がいて柳様とはご一緒になれなかったそうよ、そこにあなたが現れたご様子、だから貴方達には子が居ないのね、夜はもう当分ないのでしょ?あのご令嬢はお酒もたしなめて楽しい方だったわ」
笑う嬢は別の男に誘われて宴会の渦に戻っていきました。
「女将様、お酒を1杯」
「あんた、飲まないだろ」
「お願いします」
私がそう言うと女将様はおにぎりとお酒を1杯私の前に置いてくれた。
「空きっ腹は危険だからそのおにぎりを食べなさい」
私は女将様が握ってくれたおにぎりを頬張ってポロポロ泣いた。
私が真の愛されてる妻だと思っていました。
ハグハグとおにぎりを食べながら女を思い出す。
私をキレイにしたような美しい気品のある女の人
ポロポロ涙は流れる
私は
私は彼女の
【ニセモノ】
だったのだ
おにぎりを食べ終わって私は人生で初めてお酒を口にした。
「まずい」
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