地方市役所に採用された私が受けたパワハラ

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               プロローグ    その日、私は何気なく全国紙の新聞の求人欄を目で追っていた。すると、こんな記事がいきなり、目に飛び込んできた。 それはまるで、私に「見てください」と言わんばかりの内容だった。 「大学卒業程度職務経験者募集」  募集要件をよく調べてみると、――― ① 入庁時の年齢39歳以下 ② 情報処理技術者、社会福祉士、中小企業診断士の資格取得者 ③ 5年以上の企業勤務経験者 ④ 募集人員数名程度 ―――求人の発信元は北陸の小京都、百万石市だった。  不思議なことに、私は①~③のすべての要件を満たしていた。  私は前年、六年間勤めた政府系コンサルタント会社を依願退職(正確に言うと上司と衝突して馘首)して、独立を考えながら別の国家資格を目指していた。  しかし、その時はまだ、本気で市役所の中途採用試験を受けてみようと考えていなかった。地方公務員は一般的に現地採用が基本かつ有利である。たとえ、首都圏から地方の県庁や市役所の採用試験を受けに行っても、合格したという話は聞いたことがなかった。  ただ、私は同県のK市で、大型ショッピングセンターを誘致する街づくりのプロジェクトに長年携わってきた。そのことに強い縁を感じまた、自分の経験やノウハウが生かせそうな気がした。  私は翌日、永田町にある百万石市の東京事務所に願書を受け取りに行った。事務所は私が働いていたコンサルタント会社があった場所からも近かった。  冷やかし半分とは言え、受験できること自体がつくづく不思議に感じた。自宅に帰り、願書に必要事項を記入して市役所に送付した。一週間後、本当に受験票が送られてきた時、改めて「これは冗談じゃないんだな」と身が引き締まる思いだった。  受験会場はもちろん、市の所在地である。私は早々、航空券とホテルがセットになっているリーゾナブルでお得なプランを予約した。仕事で何十回と行っている同市も、まさかこの歳で、しかも市役所受験で行くとは夢にも思わなかった。ただ、合格する気がなかったのでプレッシャーもまったく感じなかった。どうせ合格するはずないし、何よりも市役所受験のための勉強など、まったくしていなかったから気楽なものだった。  あっという間に受験日がやってきた。試験前日、百万石市在住でコンサルタント時代に一緒に仕事をしたノムラさんと飲みに行き、深酒してホテルに戻ったら時刻は午前零時をとっくに過ぎていた。翌日は寝不足のうえ二日酔いで気分が悪くなったが、律儀な私はタクシーで受験会場に向かった。  受験会場に入ると、ほとんどの受験生は着席して参考書などを見ていた。試験監督の職員からお決まりの注意事項の説明があったが、私は受験する前からすでに不合格を確信していた。  午前中の一般教養は、ほぼパーフェクトにできなかった。午後になって少し落ち着きを取り戻したものの、単純な計算問題や適性検査のような試験を終えた時点で完全にギブアップだった。じつは朝、慌ててホテルの洗面所でコンタクトレンズを片方、なくしてしまった。片眼のため視点が上手く定まらない。このまま、午後の試験を受けずに帰ろうと思った。  しかし、高い交通費を掛け遠路、遥々来たのである。最後まで受けないで帰るのは、敵前逃亡に等しい。途中で諦めて未練を残すのだけは避けたかった。 午後の試験は論文だった。  私は一応コンサルタントなので職業柄、論文だけは得意だった。テーマは「今まで自分がやってきた仕事について」だった。この程度の論文は私にとっては朝飯前(実際は昼食後)だった。やっとエンジンが掛かってきたなと思ったところで、終了のゴングが鳴った。万事休すだった。  それでも、「無事試験を受けられただけ満足」というのが正直な思いだった。試験会場の外に出ると適度の疲労感が心地よかった。二日酔いはすっかり醒め、これで何も思い残すことなく帰ることができると思うと安堵した。 私は中心街からリムジンバスに乗って空港に向かった。このバスも何度乗ったことだろうか。私は「この空港にも来ることは、もうないだろうな」と思いながら最終便に乗り込んだ。  私が一次試験合格の通知を受けたのは一週間後だった。 「あなたは一次試験に合格しました。1月〇日に二次試験の面接を行います」 「えっ? マジかよ」   あの出来で、合格とは何かの間違いかもしれないと思いながらも、私は二次試験を受けに市役所に出向いた。二次試験は主に職歴について聞かれたが、私はコンサルタントとして、今まで日本各地で街づくりに取り組んできたことを正直に話した。  数週間後再び、市役所から二次試験合格通知が届いた。  その時、私は正直嬉しいという気持ちより、あまりにあっさり合格してきたことに拍子抜けしてしまった。新卒で地元の市役所試験に合格したのとは訳が違う。私はあくまで職務経験者採用枠で採用された少数のうちの一人である。私は中小企業診断士の有資格者だが、どうやら商業コンサルタントとしての実績を買われて採用されたようだった。  市役所に入ることは元々想定していなかっただけに、モチベーションを高めることが一苦労だった。地縁も血縁もまったくない北陸の市役所に行くべきかどうか最後まで迷ったが「面白そう。自分の経験や能力を発揮できそうだ」と思い、市役所に行くことを決断した。                第1章  市役所に入庁するなら健康診断、大学卒業証明書の取り寄せ、それ以外にも住居の手配、電気、水道、ガス、電話、新聞、住民票の移動などしなければならないことがたくさんあった。    2月下旬、私は三度北陸に向かった。  なかでも、住居選びは難航した。最終的に候補三件に絞ったのだが、いずれも欠点があった。二つは郊外で中心市街地からかなり離れていたので却下した。結局環境は劣悪だが、繁華街に近く市役所に通うには割とアクセスのよい、築十年のマンションを賃貸契約した。住居をここに決めた判断が後々、大きな災いの種になるのだが、これは後程ゆっくりお話ししよう。  不動産屋で無事賃貸契約を済ませ、洗濯機などの生活に必要な家財道具も買った。今まで往復四時間以上掛けて通学、通勤してきたことを思えば、歩いて二十分程度で職場に行けることは夢のようだった。電車やバスを乗り継ぎ、四回も五回も乗り換え、疲れ切った体で講義を受けたり、仕事をすることを考えれば、空いた時間で好きなことや趣味にも打ち込むことができる。  私は市役所で働くことが次第に喜びに感じられてきた。  4月の入庁式まで、私は新学期を迎える生徒のように希望に満ちた日々を想像して過ごした。――市役所に入ったら精一杯頑張ろう。  改めて街を観察してみると、百万石市は文化遺産だけでなく、自然や景観にも恵まれていた。晴れた日には遠く白山連峰が望め、街の中心部が二本の川に挟まれている。川の辺にはきちんと遊歩道が整備され、人々がウオーキング、サイクリングを楽しみ、犬の散歩をしている人までいる。    子供の頃から団地っ子で、川や緑に恵まれた生活をした経験が一度もなかった私には、この街で暮らせること自体大きな魅力だった。「住めば都」とはよく言ったもので、三日もすると私はすっかりこの街が気にいってしまった。一言で言うと「心地よい」のである。 (北陸の小京都というからきっと、人々も皆、穏やかで雅やかなのだろう)  これは後々、とんでもない思い違いだったと知ることになるのだが、その時はそんなことは露ほどにも思わなかった。  一人で生活するのは約十年ぶりだったが、生活の利便性は一応整っていた。 ショッピングセンターなどは徒歩十五分程度の距離にあるので、買物には事欠かない。また、街を歩いていて感じたのは百万石市にはほとんど坂がないことである。  私の地元は元々坂が多いことで有名な街で、自転車があっても使えないケースが多い。アップダウンが多すぎて自転車を使うメリットはないからだ。しかし、この街は自転車さえあれば街中ならどこにでも行けそうな気がした。この街で車を所有するつもりのなかった私は、自転車だけでは早急に購入しようと考えていた。  三日後は入学式ならぬ入庁式。  市役所に入る前、私はN半島にあるW温泉まで足を伸ばしてみることにした。私は39歳3ヶ月になろうとしていた。  ところで、市役所と言うと皆いったいどんなイメージを浮かべるだろうか。誰でも、今まで一度くらいは住民票や戸籍謄本を市役所に申請しに行ったことくらいはあるだろう。一般的な市役所のイメージとは、市民サービスを提供する窓口業務である。しかし、窓口業務は市役所の業務の一部に過ぎない。実際は市役所といっても様々な部署(セクション)がある。  それでは、市民のために日夜懸命に働いている市役所を紹介しよう。  当たり前の話だが、市役所のトップは市長である。  市長は会社で言えば、社長に当たる。その他、市長をサポートする助役(現在は副市長)また、市の財政を司る収入役がいる。市長、助役(現在は副市長)、収入役は「市三役」と言われ、普通の職員とは異なり、特別職と言われる。後述するが、助役は一人とは限らない。また、収入役は改正地方自治法の施行に伴い、2007年3月31日限りで廃止された。  優秀な職員は市役所を定年退職してからも、市三役に就くことができる。しかし実際は並大抵では、最高といわれるこれらのポストに就くことはできない。市長は当然、住民に選挙で選ばれるため、生え抜き職員が市長になれるとは限らない。  百万石市の場合、市役所の組織は都市政策部、都市整備部、市民部、経済部、社会福祉部、土木部、企業局、議会事務局などがあった。簡単に言えば、各々の部長は会社で言えば取締役のようなイメージでよい。その他、市内にある小中学校を統括する教育委員会などがある。  新人職員の場合、必ずこれらの部署のどこかに配属されることになるのだが、市役所庁内にあるこれらの部署以外にも様々な部署やセクションがあり、本人が想像もしなかったような部署に配属されるような場合もある。  たとえば、市には病院、図書館、大学などがある。百万石市の場合、比較的大きな市だったので市立病院、市立図書館はもちろん、市立大学まであった。これらの施設の職員はじつは全員、市の職員である。    病院に配属されれば勤務医と仲良くなれる、大学の事務局に配属されて学生と交流を深める。これも市職員ならではの特権である。市が動物園や水族館など持っていると動物園、水族館などに配属される場合もある。動物好きの人が動物園や水族館に、本好きの人が図書館に配属されるのはラッキーなことかもしれない。また、市営バスの運転手やゴミ収集車の作業員も市の職員である。  1999年4月、私は晴れて百万石市役所の職員として正式に採用された。  私が配属された部署は予想通り、商業振興課だった。私の場合、選択の余地はなかった。はっきり言ってそれ以外、使いようがないからである。    私は大卒後、大手食品卸売会社に就職した。  しかし会社の業績は思わしくなく、自分の将来に希望を持てなかった。日本中がバブル景気で沸きかえっていた頃、私は国家資格を取ることを考えた。中小企業診断士は流通業と比較的馴染みやすい資格で、勉強は面白かったが資格を取得するには苦労した。私は三回目の挑戦でやっと資格を取得することができた。その後、運よく政府系コンサルタント会社に転職して、商業コンサルタントとして一通り経験を積んできた。  余談だが、私が新卒で入った会社はその後、卸売部門が大手総合商社に吸収合併されて2000年代に入ると消滅してしまった。    講堂で市長から一通り訓示を受けた後、私たちのような職務経験採用者も新人と同じように各部署に案内された後、直属の課長や係長を紹介された。 「よろしくお願いします」  私も歳だけは食っていたが、新人らしく丁重に挨拶をした。  ところが私の座る席は末席でアルバイト以下の扱い、銀行でいえばまるで窓口係のような場所だった。入庁早々、随分酷い扱いだと思いながら不承不承、私は末席に座った。一言で言うと、アウェイ感覚満載という感じだった。  しかし私はこの時、市役所試験合格と同時に、とんでもない不幸を背負いこんでしまっていた。政府系コンサルタント時代、かつて一緒に仕事をした岩本康男が商業振興課にいたのである。  岩本は百万石市の職員で数年前に経産省に出向していた。コンサルタント時代は私がプロジェクトの担当、岩本が案件の窓口という関係でお互いに知っていたのである。しかし、まさか、ここで岩本に再会するとは思わなかった。岩本は歪んだ笑顔を私に向けると口を開いた。 「どうして今頃、百万石市役所で仕事をする気になったのですか? まあ、過去のことはすべて水に流してやりましょう」  私は一瞬、これから自分によくないことが起きるだろうという不吉な予感がした。しかし、その悪い予感は遠からず当たっていた。    市役所の五階に位置する商業振興課は課長、課長補佐の他、課員五、六名、嘱託二名、臨時職員の女性二名を含め十名程度の人員で構成されていた。  一口に商業振興と言ってもそのテリトリーは広い。個人事業者の経営相談や制度融資、助成金の申請から商店街の活性化、地域活性化など街づくりまで扱う範囲はかなり広い。ショッピングセンターや量販店など大型店の出店、商店街活性化などが専門の私は「案外、自分の専門が生かせるかもしれない」と思いつつ、しばらく様子を見ることにした。  ただ、オフィス環境にはさらに驚かされた。  フロアーはまるで旅芸人の大部屋のようだ。今時、小学生でも使わないようなスチール製のデスクが所狭しに並び、それが課ごとに島を作っている。机の上には無造作に書類が積まれ、タバコの吸い殻で溢れそうな灰皿が所狭しと置いてある。  はっきり言って、仕事ができる環境ではなかった。  個人用のロッカーもなく、スーツやコートは共同の掛け軸に適当に吊るしてある。雑然とした職場環境は私が描いていたイメージとは大きく違っていた。     私が在籍したコンサルタント会社は都内の一等地にあり、閑静な職場は集中が求められる仕事には打って付けの環境だった。しかし、市役所は年がら年中来客があり(市役所なので当たり前だが)私は仕事に集中することができなかった。  話を転職前に戻そう。  私が転職した会社は経産省が出資している半官半民会社で、資本金はコンサルタント会社には破格ともいえる12億円。 (その後、増資されて18億円になる)  社員数は約三十名。会社の三分の二は役員で、役員の大半は中央官庁や政府系金融機関からの天下りだった。仕事をする人間より管理する人間の方が圧倒的に多いのだから、だいたいどんな会社かは想像つくだろう。  天下り役員は概してヤル気がなく毎日、新聞を読みながらコーヒーを啜っているようなクズばかりだった。  民間企業から出向者もいたが社内に寄せ集め感が漂っていた。  経産省の街づくり支援会社として新設された会社に、私は首尾よく、中小企業診断士の有資格者として採用された。  そんなある日、岩本が私の会社に訪ねてきた。  地方自治体には交流人事という制度があって、岩本に白羽の矢が立った。岩本は百万石市のエリートとして経産省に出向した際、業務上関係の深い私の会社に挨拶にきた。  経産省の役人が私に岩本を紹介する。 「今度、うちの課に百万石市から出向で来られた岩本さんです」  振り返ると役人の隣に、中肉中背の暗そうな三十男が立っていた。 「志摩と申します。よろしくお願いします」  私は仕事中だったが、立って挨拶した。  この時が岩本に出会った最初の日だったが、岩本の第一印象は強烈だった。  人間の印象はほぼ第一印象で決まるというが、私の岩本へのイメージは一言で言えば最悪だった。岩本の面を見て、私は一瞬反吐が出そうになった。マジで正視できなかった。 (覇気がなくて腹黒そう。清潔感がまったく感じられない)  爽やかとは真逆の印象だった。  聞けば、岩本は名門W大学の法学部を出た秀才らしいが、学生時代、雀荘に入り浸りだったような不健康な感じがした。 (今後同じ仕事をすることがあっても絶対、深い付き合いだけはしたくない)    私はそういう気持ちを押し殺しつつ、岩本を見送った。  実際岩本の人柄の悪さには定評があって、経産省でも浮いていた。会社での評判もよくなかった。岩本と一緒に仕事をしていることを話すと「それはお気の毒様」と皆、眉を顰めた。  悪い予感はよく当たるもので、私は岩本に大きな迷惑を掛けられたことがある。柄にもなく岩本が結婚することになったのだ。その際、岩本は進行中のプロジェクトを放り投げて、さっさと新婚旅行に行ってしまったのである。  そのため、岩本が新婚旅行から戻るまで一週間、プロジェクトが中断してしまった。岩本が案件の計画書の窓口だから頓挫してしまうのは当然である。当時、私は進行中のプロジェクトを複数、抱えていたが期日に間に合わせるため自宅にも帰れず三日三晩、不眠不休で計画書を作成しなければならなかった。     コンサルタント時代、私にはこれがもっとも辛い記憶として残っている。  徹夜明けで経産省に計画書を持って行った時、岩本からは労いの言葉など一切なかった。それどころか、「できて当然」というような顔をされた。その時の岩本の傲岸不遜な態度を私は今でも忘れることができない。  しかし、こんなことが平気でできる岩本の性格なら、私が市役所に来ることを事前に察知して様々な方面に、私の根も葉もない、悪い噂を流布したことは容易に想像できた。    経産省でかつて一緒に仕事をした岩本が係長でいたことは面食らったが、それ以上に驚かされたのは課長補佐の永田隆だった。  永田は地元の工業高校を出て市役所に就職したという。  永田はとにかく柄が悪かった。  市役所の職員というより実態はヤクザに近い。言動に凄みがあって、ヤクザの若頭と言った方がしっくりきそうだ。  目付きが悪く、話していても知性や教養はほとんど感じられない。咥えタバコで話す、人前で放屁をするなどは当たり前で礼儀作法はまったくなっていない。工業高校出身の永田がどうして商業振興課にいるのか訝しく思ったが、この男をあえて課長補佐に据えたのが、人事課長の作戦だったと気づくのはもう少し後のことだ。  しかし世の中、何が幸いするかわからない。容貌通り、任侠道を地で行くような性格なので上からは可愛がられ、課長補佐まで這い上がってきた。飲み会などでも臨時職員の女子たちにセクハラまがいの悪戯もするが、女子たちも体を触られながら「キャー、キャー」言いながら結構、楽しんでいるようだ。    そのうえ、課には暇を持て余している嘱託のジイサンが二人もいる。中でも山田さんは、ちょっと認知症が入っていた。 電話が掛かってくる度に昔、勤めていた金融機関の名前を言ってしまう。 「はい。××金融公庫です」 「違うってば、山田さん。ここは百万石市役所でしょ」 「ああ、そうだった。百万石市役所でした」    だいたい、いつもこんな感じなので、対面にいた私はヒヤヒヤし通しだった。女子職員たちは他の職員に輪をかけたように愛想がなかった。挨拶しても、何を聞いても木で鼻をくくったような対応である。  彼女たちの無機的な反応を見ると、私の悪い噂は管理職から臨時職員まで、すっかり浸透しているようだった。    市役所と県庁の関係については興味深い話がある。  一般的に県庁と市役所は目と鼻の先あることが多い。県主催、市主催の会議、共通の協議会などが頻繁にあるため、なるべく近くにあった方が便利かつ好都合なのだ。  ところが、県益と市益が必ずしも一致するとは限らない。そのため県と県庁所在地の市はどこも仲が悪い。これは特に地方都市では常識になっている。今後、地方公務員を目指す人が基本情報として押さえておいて、ソンはない。各自治体間でも様々な権益を巡りまた、自分たちの面子を守るため他の自治体を敵対視するようなことが多々起きる。  考えてみれば、権益を巡った争いは中央官庁や国と県でも結構ある。 私がいた経産省出資のコンサルタント会社でも、旧建設省系のコンサルタント会社とは非常に仲が悪かった。同じ街づくり支援会社でもウチはソフトな支援策重視だが、相手はハード重視の政策を打ち出してくる。調査も先方は下請けに丸投げだった。方向性の違いのために相容れないことも多かった。  私がいた頃は経産省は旧建設省や旧郵政省とも権益を巡って対立が絶えなかった。最近では、辺野古基地の建設を巡った国と沖縄県の対立が記憶に新しい。いつまでも工事を許可しない沖縄県に対し、国は痺れを切らして代執行の手続きを取った。  百万石市では、課のどの人間と話していても県庁職員と必要以上に仲良くしているような素振りはなかった。 「市役所には市役所の矜持がある」  市職員はこういうことを早い段階から叩き込まれているようだ。  私にはとうてい理解できなかったが、これが市役所で働く職員のプライドのように感じた。  百万石市では元々、県庁と市役所が道路一本隔てた場所にあった。  ところが私がいた頃、県庁が郊外に移転することに決まっていた。2007年には県庁はすでに郊外に移転してしまっている。ちなみに、県庁が郊外に移転することはけっして珍しい話ではない。同県だけではなく茨城県、新潟県など日本各地で県庁はどんどん郊外に移転している。  それでは、郊外に県庁が移転するとどういうことが起きるのだろうか。まず、考えられることは中心市街地の衰退である。県庁が中心市街地から無くなれば県庁以外のも県警で働く人間、数千人が一気にいなくなってしまう。また、県庁に用があって来る人も郊外に行ってしまう。  これは市役所としては由々しきこと、大問題である。  一般的に県庁の郊外移転は中心市街地の活性化に逆行するような動きである。今や中心市街地の活性化は全国的な問題になっている。県庁の郊外移転はそれを加速させることは間違いない。  街中に人がいなくなれば中心市街地の売り上げがジリ貧になり、閉店が相次ぐという悪循環が起きる。これだけは避けたいのが市役所の思いである。    市役所のスタンスとしては、「県庁が郊外に移転するのはやむを得ない。でも、中心市街地の活性化だって忘れないでください」という感じである。  しかし、行政の思惑通りにいかないのが世の常である。市民は常に利便性に勝るライフスタイルを選択する。単刀直入に言うと、市民の立場としては行政機関でもショッピングモールでもアミューズメント施設でも、郊外にあった方がじつは便利なのだ。  百万石市でも郊外にさえ行けば、巨大駐車場を備えたショッピングモールがある。食料品、雑貨など生活必需品だけでなく、周辺には家電、ホームセンタ―、衣料品、インテリア、スーツ、書籍、スポーツ用品なんでも揃っている。こんな時代、中心市街地の商店街で買い物をする理由などどこにも何もない。  たとえば、高齢者が生活必需品を買うケースを考えてみよう。  商店街で買い物をすれば、いちいち重い荷物を持って歩き回らなければならない。これは足腰の弱い高齢者にとっては大きな負担になる。また、商店街では買いたいモノが十分揃わないし、八時には閉店してしまう。 「いっそ、郊外のショッピングセンターで一度にまとめ買いできたらどれだけ便利でラクだろう」  高齢者に限らず、誰もがこう思うはずだ。  現代は言わずと知れた車社会。車で郊外に行きさえすれば、カートで買い物をすることが可能である。 (ただ近年、高齢者ドライバーの事故が絶えないのは、その弊害でもある)    郊外ショッピングモールに行けば、必要なモノを必要な時に買うことができる。ハンバーガー片手に、ショッピングやレジャーに興ずるのはどの街にも共通である。ワンストップショッピングは高齢者だけでなく、若い世代にも利便性を提供する。  こんな時代、商店街にもはや勝ち目はない。商店街は全国に約二万近くあるが、その九割以上が衰退している。言葉は悪いが商店街はもはや昭和の産物で、今後どんどん淘汰され、消えていく運命にある。  かつて、街には中心市街地VS地域商店街、中心市街地VS郊外ショッピングモールという図式があったが、今はそんなもの、どこにもない。今あるのは郊外ショッピングモール同士の競合のみである。 「今週末、〇〇モールで買い物しようか? やっぱり、□□モールで買い物しようか? ニトリにもユニクロだって行きたいし」くらいのユル~イ会話が交わされるのがオチである。  素人は知らないだろうが、大型店は今や一年365日、年中無休で営業できる環境が整った。  ところが、イオンやドン・キホーテが街中で24時間営業しようとしても環境問題があるので実際はムリである。しかし、郊外ならばそんな出店も可能になる。市が規制できるのはせいぜい、街づくり条例くらいだから、大型店は規制のかからない郊外に今後もどんどん出店していく。駅前の大型店はバンバン潰れる一方、大型店の郊外進出は今後も一層増えるだろう。  はっきり言うと「街中→不便」「郊外→便利」という図式は、市民の間にしっかり浸透している。  しかし、このまま放置していけば街が二極分化して、中心市街地の空洞化が一層深刻な問題となってしまう。こんな時代を迎えて、県庁と市役所の利害が必ずしも一致しないのは明らかである。  百万石市の場合、中心市街地と郊外は別物、郊外は副都心という位置づけや考えらしいが、市民にとってそんなことは一切関係ない。魅力があって利便性がある商業集積に流れるだけの話である。市が街中に定住促進を考えても、市民は利便性を考えれば郊外に出て行ってしまう。何でも住民の物差しで考えなければならない難しい時代なのだ。  県庁の郊外移転に危機感を覚えた市役所では、市役所の隣接地に美術館を建設した。総工費百億円以上を掛けた美術館は、それなりに成果を上げているという。  私も市役所退職後、物珍しさで一度だけ訪れたことがあるが面白くなかった。大部分の人は二度目は行かないだろう。リピートする理由がないからだ。  歳は食っていても新人に過ぎない私の担当は窓口業務だった。  長いサラリーマン生活でも窓口業務だけはしたことがなかったので良い経験になると思ったが、頻繁に中小事業者が相談に来るので仕事に集中できなくて困った。融資の相談や助成金の申請などは金融機関出身のジイサンたちに任せ、私は商店街活性化の相談や大店法(大規模小売店舗立地法)申請の窓口になった。ちなみに大店法とは大型店出店のための法律である。私は商業が専門なので仕事に抵抗はなかった。  私の前職は商業コンサルタントである。  百万石市に職務経験者で入る前には、同県のK市の街づくりに五年以上携わってきた。この市は百万石市ほど大きな市ではないが、D駅にある旧市街地にあった中心市街地を特急の停車するK温泉駅前に移転させる大型プロジェクトだった。  これは商業機能以外にも将来、街の中心機能も移転させる取り組みでドラスティックな試みだった。しかしK市の場合、市の中心機能をD駅からK温泉駅前に移動させることに関して大きな反発なかった。一言でいうと行政、市民、商業者、地権者などのコンセンサスが得られやすく、利害関係の調整もつきやすかった。 「このまま変わらなければ、我々の街は衰退する一方だ」と誰もが一応に理解していたためである。  私はK市以外にもN県S市など、郊外に新しくショッピングセンターを誘致する商業集積を核とした街づくり業務に携わってきた。これこそが私のキャリアであり、最大の売りだった。  しかし、百万石市の場合はそもそも街の規模が違う。商業振興でも交通政策でも様々な利害関係があってコンセンサスが得られにくかった。そこそこ都市である分、大きなことがやり抜にくいイメージがあった。  経験上、大掛かりな街づくりやショッピングセンターの誘致などは都会よりも地方、地方でも、できるだけ小都市の方がプロジェクトを進行させやすかった。街づくりの仕事は息の長い、気の遠くなるような仕事である。K市のような人口六万人程度の市でも完成まで五年程度の年月が掛かってしまった。    私の仕事は、商業振興や街づくりに関する自身の経験やノウハウを百万石市で生かすことである。百万石市でも衰退する中心市街地の活性化に向け、起死回生の取り組みをしていた。街中に賑わいを取り戻すため、パティオ(中庭)にレストランやファッション店十店舗程度を張り付けるショボい計画があった。  凡そ、郊外のショッピングモールに対抗できるような代物ではなかったが、どういうわけか私はこの計画には一切参加させてもらえなかった。元々、商業を専門にしてきた私を敢えて外す理由はいったい何なんだろう。  仕事から排斥された私は傍観しているよりなかった。    市役所では完全に浮いた存在の私にも、しばらくすると知り合いができた。県庁のNさんとTさんである。二人とは商業振興課で大型店出店説明会など何回か顔を合わせるうちに親しくなった。  県庁の人は市役所ほど閉鎖的ではなく気さくな感じだった。Nさんの父親は同県の別の市の市長だという。Nさんの家は親子二代ともに県庁マンである。Tさんは関西の私大卒業後、民間企業を経て私と同じように職務経験者として採用された優秀な人だった。  ある日、仕事が終わった後、三人で飲みに行こうという話になった。Nさん、馴染みの居酒屋があるという。市役所にいる間、市の職員から食事や飲みに誘われたことはただの一度もなかったが、県庁の二人とは割とよく飲みに行った。  居酒屋は繁華街から少し離れた場所にあった。  居酒屋といっても、日本海近郊だけに魚はどれも美味しい。ついつい酒が進んでしまう。普段はビールしか飲まない私も日本酒など頼んでしまう。しばらくすると、Tさんが口を開いた。 「ところで、市役所の商業振興課の課長補佐、アイツは何者ですか?」 「はあ? そう言われますと」 「この前、アイツがたまたま新聞に載っていたのを見たんですけど、もの凄い目付きで写っていました。まるでヤクザそのものですね。しかし、あんな程度の低い奴が上司だと志摩さんも苦労しますね」 「まあ、そう言われても一応、上司は上司だからね」  隣ではNさんもニヤニヤしながら相槌を打っている。    余談だが、地方紙は毎日記事を埋めるのがたいへんである。同県の人口はせいぜい120万人程度。そんなに頻繁に大きな事件があるはずもない。だから、くだらない、取るに足らないような些細なことも記事なり、担当者の写真がデカデカと載る場合がある。永田の写真が載ったという記事はおそらく、中心市街地の再開発事業かなんかの記事だろう。    ところが、Nさんは岩本のこともよく観察していた。Nさんは市内の商店街でもよく岩本と顔を合わせることがあるらしい。傲慢で腹黒、人によってコロコロ態度を変える、裏表のある岩本の性格をNさんもしっかり見抜いていた。  二人の会話を聞きながら、彼らの考えていることは私と似ていると思った。まともな常識のある人間から見れば、やはりそう見えるのだろう。この街に来て初めて救われたような気分になった。  その後も三人でよく飲みにいった。Tさんは同じ中途採用という立場で、Nさんとは飲みに行くたびに親交を深めた。  市役所の中には、必要以上に県庁の人間と親交を深めてはいけないような不思議な雰囲気があったが、私は市役所の大部分の人間とは違っていた。市の不文律を一切無視して県の役人とも自由に付き合っていた。 でも、これでは市役所では一層浮いてしまうはずである。                 第2章  百万石市に来て一年くらいまでは私はまだ、観光客の域を抜けていなかった。出張では何十回と来た街だが、それはすべて仕事で来ただけである。ほとんどは県庁、あるいは郊外にある地場産業振興センターの往復だけである。  住み始めて思ったことは、街には城下町ならではの美しさがあった。人工的に作られた街でないところも気に入っていた。  ただ、私がやっと生活者の視点を持てるようになったのは、一年以上たってからである。私が最初に面食らったことはお気に入りのコンビニやファミレスがないことだった。首都圏では当たり前のセブンイレブンやデニーズがなかった。当時、経営母体のⅠグループが進出していなかったので生活に不便を感じた。イトーヨーカ堂もないので品揃えが不十分で、生鮮食品のよくないスーパーで買い物をせざるを得なかった。  それ以外、生活に不便さは特に感じなかったが、しばらくしてみると都会とのギャップを強く感じるようになった。  たとえば、休日に買物しようと中心市街地にあるデパートやファッションビルをふらついていても買いたいモノがなかった。都会人であることを気取るわけではないが、買物したくても買いたい商品がないのは相当なストレスだった。私の感覚で言えば、買いたいモノがあれば横浜に行けばたいてい手に入った。ところが百万石市ではシャツ一枚、ネクタイ一本、ポロシャツ一枚、買いたい気がしない。ショッピングの楽しさは別名、比較購買の楽しさでもある。ところが、この街では比較購買ができるほど店舗がなかった。  また、この街にはアミューズメント施設がほとんどない。  当然だが、地方の小都市に野球チームもサッカーチームもない。年に数回、イベントとして県営球場でペナントレースの試合があるくらいである。ディズニーランドに代わるようなレジャーランドもなければ、お台場のようなデートスポットもない。地歩の子供たちは都会の子供たちと比べ、さぞつまらない思いをしていると思う。  一方で、自然環境には恵まれている。  海や山も近郊にあるし、ゴルフ場も中心市街地から車で一時間以内で行ける。温泉も豊富なのでゴルフやスキーの帰りに一風呂浴びることも可能である。それだけ考えれば、極めて健康的な生活が送れそうだ。しかし、私はそうは思わなかった。  昼間はそれほど感じないが、夜は繁華街を抜けると一気に閑散としてくる。夜、郊外に出ると寂しいほどだ。地方では昼と夜、とくに中心市街地と郊外には大きなギャップがある。私はどうしても欲しいモノがあると日帰りで、高速バスで大阪や名古屋まで出かけていた。  職場では散々な目に遭っていたが、私生活ではかなり楽しんでいた。  北陸の小京都として名高いこの街は四季折々の美しさがあった。  また、そぞろ歩きが似合う街でもある。夕方になると茶屋街のどこからともなく、三味線の音色が聞こえてくる。  街全体が観光地になっているので、移動は車より自転車の方が便利だ。アップダウンも少ないので自転車に適した街でもある。  この街に来て数ヶ月、私は自転車が欲しくなった。  週末、郊外のアウトドアショップに行って衝動的にマウンテンバイクを買ってしまった。値段はたしか五万円くらいしたと思う。早々、ショップから自宅マンションまで自転車で帰ることにした。初夏の風がとても心地よい。考えて見れば自転車に乗ることは約十年振りだった。久々に開放感に浸った。    夕方、試しに川沿いのサイクリングロードを走ってみる。サイクリングロードは七~八キロ続き、河口で日本海まで通じている。私は子供のように、すっかり自転車にハマってしまった。 (これからはどこに行くのも自転車で行こう!)  こうして、私の自転車生活始まった。通勤はもちろん、買い物、スイミングクラブ、銭湯、行けるところはどこでも自転車で行った。自転車は私の生活に欠かせないものとなった。    そんなある日の昼下がりの出来事である。  買い物から帰り、自転車を駐車場に放置しておいた。  私の自宅はマンションの三階である。エレベーターでいちいち自転車を上げるのは面倒なので、駐車場の空きスペースにカギを掛けずに置いておいた。目を離したのはほんの十分程度である。家に戻って荷物を置き、駐車場に戻るとすでに私の自転車は消えていた。  自転車泥棒など世界中どこにでもいるだろうが、百万石市は相当治安が悪いのだろう。以前、横浜市内でオーダーメイドの自転車をパチンコ屋の前に置いておいたところカギを壊され盗まれたことがあったが、買ったばかりの自転車を盗まれたのは今回が初めてである。  一応警察に盗難届を出したが結局、盗まれた自転車は出て来なかった。  翌週、私は二台目のマウンテンバイクを買った。それ以降はどんな短時間でも、自転車をエレベーターで上げることを忘れなかった。ただ、この事件以降、私はこの街の人間だけは絶対に信用してはならないと強く心に誓った。  余談だが市役所を辞めた後、県警から私の携帯に電話があった。盗難された自転車が川べりで見つかったという。「どうしますか?」と尋ねられたので、もちろん「適当に処分してください」と答えた。この街の赤の他人に乗り回された自転車など、いまさら見つかっても一切用がないからである。  独身の私は自炊をほとんどせず、夕飯は外食がメインだった。  百万石市に来て間もない頃、勢いで鮨屋に入ったことがある。一人で入るのは気が進まなかったが、北陸の台所と言われる〇〇市場近くの鮨屋だったので期待できそうだと思って入店した。  暖簾を潜ると「いらっしゃい!」と威勢の良い返事。   カウンターに座り、私は口を開いた。 「それじゃ、お任せでお願いします」  ところが出てきたネタは一目食べて酷いとわかる代物だった。鮮度がいいどころか、イカは歯が折れそうな寿司ネタには使わないモノを平気で出してきた。 (一見の客だと思われて足元を見て舐められたんだろうな) 「お会計、お願いします」 「八千円になります」  私はこの街にいる限り、鮨屋に二度と入らないと誓った。    さらに笑える話がある。  市役所裏手にあったK商店街は、私が担当者として何度も顔を出していた。次第に商業者にも顔見知りができて、挨拶くらい交わす関係になっていた。その商店街の理事に四十代後半くらいの中華料理屋の店主がいた。  私はその日、久々にラーメンでも食べようとその店に足を運んだ。もっとも担当者として多少の外交辞令の気持ちもあった。  暖簾を潜ると店主が厨房で世話しなく鍋を振っている。カウンターに座ってメニューを読み始めると店主が突然、宣った。 「餃子なら、すぐ焼けるよ」 「はあ?」 (ラーメンが食べたくてきたんだから。餃子なんて食いたくねえよ) 「それじゃ、餃子でもいただきましょうか」  私は断れ切れなかった餃子が出来るまで、何か極まりが悪かった。  結局、私は餃子を食べながらラーメンを注文した。ところが、店主はラーメンに対して自分なりの思いや蘊蓄があるようで、聞きたくもないラーメン談義を延々と聞かされる羽目になった。 「今の若い奴は真面目にラーメンを作っていない。ラーメンには哲学が必要なんだ」 「たしかに、スープ一つ完成させるのも相当な時間が掛かるでしょうしね」  私は適当に相槌を打ちながら、ラーメンが出来上がるのを待った。 「へい。お待ち」  私はスープを一口啜ってみたが、何の変哲もない、可もなく不可もない普通のラーメンだった。 (口で言うほどお前のラーメン、旨くねえから)  私は千円札を出すと、この店にも二度と来ないと誓った。    また、この街の飲食店はぼったくりも結構ある。老舗で有名な鍋料理店では、一万円を出したら遂に二千円のお釣りをくれなかった。  その時はたまたま、女性と会食していたので「女性の手前、ケチな男と思われたくない。お釣りをもらわないのが粋」なんて、勝手に相手から思われて足元を見られたのだろう。  中華料理屋では注文していないモノが出てくる。  洋食は超が付くほ不味い。  鮨屋、鍋料理店はぼったくりが当たり前。  料亭は目の玉が飛び出るほどの値段。  この街に私がいられなくなるのは食い物の恨みも多々あった。  この街の最大のイベントは毎年、六月に行われる恒例の祭りである。  武者行列の他、地元企業や一般市民が参加するパレードもある日本を代表する本格的な祭りである。この時期、百万石市は踊り、薪能など祭り一色になる。多くの観光客が日本各地から集まるので、市役所も祭りのもたらす経済効果に一段と力を入れている。  例年、このイベントに合わせて、商工会議所主催の「ミスコンテスト」が開催される。ミスコンテストは独身女性の中から三名選ばれる。しかし、これが大きな声では言えないがレベルはそれほど高くない。  選考自体がミスだったのか、ミスではなく一歩間違えたら「〇スコンテスト」かと思うほどのレベルである。もちろん、後述するように市役所にだって美形はいる。  たとえば秘書課のK、人事課のS、民生課のYなど私が知る限り、偏差値六十は軽く超えていそうな美人も何人かいる。しかし、まさか立場上、身内をミスに選んでしまうわけにはいかない。だから、そこそこの容姿でも健康的で明るく元気な女性がミスコンテストに選出される。  私は客観的に見ても、親善大使として来ていたミス鹿児島の方が当市のミスより数段美しいと感じた。向こうは偏差値六十五程度、当市は偏差値五十五程度で圧倒的に負けを認めざるを得なかった。しかし、そんなことを面と向かって口に出すような不届き者は私以外、誰もいなかった。  踊りはリオのカーニバルみたいに、夕方から夜九時ごろまで通しで行われる私は警備で巡回していた時、ミス鹿児島が祭りで踊っているのを見て、彼女たちが踊りを覚えるのもたいへんだっただろう思った。  ミスに選ばれると一年間、親善大使として仕事をしなければならない。  ミスならではの苦労もあるのだ。  市役所前には大会本部用のテントが張られ、市長と助役が和服姿で仲睦まじく踊りを見守っている。まるで皆、市長たちのご機嫌を取っているようだ。私も大会をサポートする一員として警備等の業務に当たっていた。  踊りは市役所前の道路を一周するようにエンドレスで行われる。ただ、群衆が一心不乱で迫ってくる姿が私には不気味に映った。私は一瞬、北朝鮮のマスゲームを思い出してしまった。  こういう祭りは地方ならではイベントで、東京など首都圏ではまずありえない。ただ、私はこの祭りがつまらないと感じた。一度だけなら見てもよいが毎年代わり映えしない祭りなので、二度目は見たくなかった。 (でも結局、三回も見ちゃったけど)  北陸の小京都は上品な街で、ちなみにソープランドなど風俗店は一軒もない。市の条例で市内には風俗店を作れない決まりになっていた。しかし、だからと言って街がいたって健全であるというわけではない。  街にはポン引きや女が立つ怪しいスポットがあった。私の通勤路には毎日、必ずポン引きが立つ場所があった。帰りは意図的にルートを変えるのだが信号待ちの関係上、そこをどうしても通らざるをえない場合があった。  そうすると、どこからともなく声が掛かってくる。 「お兄さん、遊んでいかない~?」  この街に来た当初はかなり驚いた。薄暗いネオンから突然、声を掛けられる。私は出川哲朗ではないので、どうリアクション取ってよいかわからなかった。終戦直後の赤線みたいな感じである。  万が一、声を掛けられても自転車なら即逃げられるのだが、歩いているとそういうわけにもいかない。実際、声を掛けられるとかなり気色の悪いものだ。    実際、私が体験したある事件を紹介しよう。  私の住むマンションはユニットバスなのでよく銭湯に行った。温泉好きの私に銭湯は一瞬のリフレッシュを与えてくれた。  この街には銭湯がよく似合う。事実、近所に銭湯もたくさんあった。歩いて十五分くらいの場所に私のお気に入りの銭湯があった。レトロ感溢れる銭湯で、昭和にタイムスリップしたような感覚の銭湯を私は気に入り、多い時は週に三回くらいは行っていた。  ある寒い冬の夜、私はコートを羽織って銭湯まで出かけた。  その時、私は迂闊にも道を間違えてしまっていた。どこかで右に曲がるはずが気付けば直進してしまっていた。  直進しても右折すれば銭湯にはたどり着けるが、私はあることをすっかり忘れていた。あることとは、例の危険ゾーンを通らざるを得ないということ。    気づいたときは時すでに遅し。  途中で例の一団と遭遇してしまったのだ。どこからともなく集団が付いてくる。その数約十名。  断っておくが、ここはタイのバンコクやフィリピンのマニラの話ではない。平成の時代の、しかも日本の話である。いつの間にか、私は集団に取り囲まれてしまった。新宿歌舞伎町のキャッチバーでもおそらく、これほど酷くはない。  突然、一人の女から声が掛かった。 「お兄さん、これから遊びにいかない? 〇〇〇〇しに行こうよ」 「・・・・・・」 「ねえ~。あたしたちと遊ぼうよ~」  無視し続けたがかなりしつこい。私は正直に答えた。 「これから風呂に行くんだよ」 「だったら、ホテルの風呂で入れば同じことだよ」  近所のいかがわしいホテルが売春のスポットになっているようだ。何とか振り切って目的地に着いたが、あいにくその日銭湯は休み。泣きっ面に蜂だった。しかし、正直あの数には参った。ここはまるで無法地帯。警察は売春の摘発どころか、何も動こうとしないのだろうか。  百万石市には数々の日本の良き伝統が引き継がれている。しかし、同時によろしくない慣習もずっと引き継がれているのだと実感した。  ところが、不幸はこれだけでは終わらなかった。  百万石市に来て三年目、私のマンションの隣の遊休地で突如、SPAの建設工事が始まった。着工から数ヶ月、施設は無事に完成した。  温泉ではないが海洋深層水風呂、ジェットスパ、サウナ、露天風呂、飲食施設まで備えた本格的なSPA施設で、私はこの街に来て初めていいことがあったと喜んだくらいだ。  私は徒歩一分の施設に、毎日のように通うことにした。  ある夜、SPAに行くのが十一時近くと、かなり遅い時間になってしまった。いつものようにカウンターで料金を支払い、男湯の暖簾を潜った。  その時のことは今も鮮明に覚えている。  スローモーションで、目が点になるといった感じだろうか。  脱衣所には十数人の若い男たちがいた。しかしそれがほぼ全員、刺青をしているのだ。しかもタトゥーみたいな可愛いものでなく全身刺青だ。一目で、その筋の人たちだと思った。  私は帰るに帰れず、服を脱いで湯船に向かった。私はその後も何度か、刺青の集団と顔を合わせることになった。  彼らは私には危害を加えるようなことはなかったがさすがに凄みは感じた。しかし、別の意味であの数には参った。以前は売春婦に囲まれたばかりなのに、今回はヤクザに囲まれてしまった。  しかし、たしか施設の入り口には「刺青の方は入店を固くお断りします」とか、書いてあったような気がした。気のせいだろうか?  私は別件でその後、このSPAにクレームの電話を掛けることになる。  夜、寝ていても前のSPAの駐車場の車の音が煩くて眠れない。  施設ができたのは嬉しかったが毎日が寝不足だった。SPAの営業時間は毎日午前十二時まで。ところが駐車場に車止めがないため、車が出入りする度、叩き起こされた。私はマンションの隣にあるSPAに電話を掛けた。時間は午前一時近くである。 「前のマンションの住人ですが、オタクの施設のお客さんの車の音が煩くて、眠れないですけど。車止めを設置して防音に努めてくれませんか?」 「ご迷惑おかけしています。早急に工事を始める予定です」  SPAの従業員は素直に認め対策を取ってくれることを約束してくれたので、私はそれ以上何も言わないつもりだった。  しかし、私はあることを思い出した。 「あの、もう一つだけいいですか?」 「はい」 「誠に言いにくいことなんですが、オタクの施設って、入り口に刺青の方は入店を固くお断りしていますって、書いてありますよね?」 「あっ、はい」 「でも、刺青された方、オタクの施設、たくさん利用されていますよ」 「いえ。まあ、素人の方もいらっしゃることで」 「はあ?」 (あれが素人なら、日本にヤクザなんか一人もいないよ)    私は危害を加えられたわけではないので、それ以上は言わず電話を切った。    私はその後、〇〇〇タイムというのがあるのが空気を読んでわかった。その時以外彼らは現れないから、その時間を避けさえすれば遭遇はないわけだ。  しかし、私は自分が住んでいる街がロサンゼルスのダウンタウンより治安が悪いと思った。                 第3章  公務員の世界は、外から見るのと内から見るのとでは違いがある。公務員は身分が安定しているので、地方ではエリートと呼ばれる。    しかし当然だが、地方公務員すべてが優秀なわけではない。高度成長期やバブル全盛期に市役所に入った者と不景気な時代に就職先がなく、やむなく公務員になった者では資質やレベルに大きな差があるという。  役人、自ら語ってくれた興味深い話がある。好景気に公務員になった多くは、業界用語で「でもしか」職員という。でもしかの「でも」は、他にすることがないから公務員「でも」するかのでも。「しか」は、公務員「しか」できないという意味らしい。しかし、「でもしか」職員にもプライドはある。現代でも、地方では就職先は中小企業しかなく、県庁や市役所に入るとさながらエリートとして扱われる。だから、彼らにとっては「でもしか」職員でも一向に構わないのである。   しかし、私にとって市役所の職場環境は劣悪だった。市民が頻繁に相談に来るのでその都度、仕事が中断してしまう。  落ち着いて自分の仕事をする余裕などない。 (よくも毎日、こんな環境で仕事ができるな)    感心すると同時に、自分には絶対に合わないと思った、  コンサルタントの仕事は集中しないと仕事にならない。調査報告書、事業計画書、基本構想などを作成する時、私はよく別室に引き籠って仕事をしていた。気付けば昼飯を食べ忘れていたり、すっかり日が暮れていたこともあったが裏を返せば、それほど仕事に集中していたのである。    昼休みは、アルバイトの女子職員を中心に皆、弁当を持ってきている。中には近くの飲食店から蕎麦などの出前を取る者もいる。毎日、11時50分くらいになると、大きながま口を首から下げたおばちゃんがパンを売りに来る。まるで、昔の乗り合いバスの車掌みたいだ。 「栗田さん、今日何にする?」 「ハムカツサンド一つとおにぎり二個ね」  気が付くと彼らは毎日、ほとんど同じものを食べている。単に地方だからだろうか。 (まあよく、飽きねえもんだな)  パフォーマンスなのか、昼休みにパンやおにぎりを齧りながら熱心に仕事をしている者もいる。しかし、私はさらにショッキングなことに気が付いてしまった。皆がよく行くという評判の洋食屋に試しに一度だけ行った時、「美味いと評判のランチ」を頼んだらいきなり吐きそうになった。まるで、豚のエサかと思うほど超不味かったのだ。 (コイツ等の舌、いったいどうなっているんだろう?)  地下に食堂はあるにはあるが、隣が理髪店で前を通る時、その臭いで吐きそうになり、気持ち悪くて一気に食欲が失せてしまった。  商業コンサルタント的に言えば、飲食店の隣にペットショップ、理髪店、葬儀屋などを配置することはNGである。テナントミックスとして、この組み合わせは最悪である。市役所の人間はそんなことすら知らないのだろう。  私は昼は市役所の人間に出会わなそうな店に行った。しかし探せばよい店はあるもので、繁華街の裏通りにお気に入りの一軒を見つけて、毎日のように通った。市役所での私の楽しみは、早くも昼食だけになってしまった。  余談だが、市役所を辞めた数年後、たまたまその店に入ったら、女将さんが私を憶えていてくれて「あら、お兄さん、随分お久しぶりね」なんて言われて妙に感動した憶えがある。  そんなある日突然、事件は起きた。  百万石市に隣接するN町で大型店が出店することになり、N町で出店説明会が開かれることになった。私は当然、出店説明会について永田に同席を求めた。すると永田は「この会議はお前、一人で行け」と宣ったのである。  永田に言わせると「お前はプロの商業コンサルタントなのだから、一人で十分だろう」という、もっともらしい理屈である。  こういうケース、役所は必ず会議には複数の課員が出席する。  役所のルールを簡単に説明すると、業務はすべて主担当と副担当からなっている。「あの時、ああ言った。言わない」といったトラブルが起きぬよう、証人を置いてすべての業務を一人では担当させない仕組みになっている。  さらに大きな業務は一つの業務を三、四人で担当させることも珍しくない。一人で責任を取らなくてもよい、都合の良い責任逃れでもあるのだが、一つの業務を一人で遂行させられるようなことは絶対にしないのが、お役所のルールかつ決まり事である。それを入庁早々「お前、一人で行って来いよ」と言われたのである。  断っておくが、仕事の手順を示すガイドラインなど何もないのだ。 (言ってることと、やってることが正反対じゃないか)と思いながら、私は反論できなかった。  その時、「これは私の仕事ぶりが試されているんだな」と思った。これが、私が役所で受けた最初の嫌がらせだった。    また、配属されて間もない頃、課長の藤田正明が突然私にレポートの提出を求めてきた。  内容は「当市の中心市街地についての診断書を書け」という、まったく思い付きのような命令だった。ちなみに、私はこの種の診断書はコンサルタント時代からよく書いていたので、それほど苦にはならなかった。それでも最初から手抜きはいけないと思い、入念に調査をして二週間後、ざっくりではあったが問題点と改善策を書いた三十頁ほどの診断書を藤田に提出した。  ところが、コイツは私が土日も潰して書いた診断書を一瞥しただけで、そこら辺に分投げてしまったのである。その後、私の書いた診断書は課の連中に「適当に回覧しとけ」と回されたが、誰にも読まれることなくあっけなくゴミ箱行きになった。  しかし、嫌がらせはそれだけでは済まなかった。  繰り返すが、私の配属された部署は経済部商業振興課である。課には商店街活性化の相談、大型店の出店申請、補助金申請など様々な案件が持ち込まれる。それ以外にも頻繁に会議がある。課内で情報を共有することはどんな部署でも必要だと思うが、私はそれからも完全に無視された。  前述したように私が担当する案件の会議に他の課員が出席しないのはもちろん、私が同席すべき会議には逆に私を出席させないようにされた。そのため、事前に十分な情報が入らなくて仕事に支障を来すことが多々あった。  私は念のため、先日大店法の会議に出席した県庁の知り合いに相談してみたら、県庁の担当者のNさんがこう答えた。 「志摩さんの前の担当者の時は課長補佐がいつも同席してしましたよ」    どうやら市役所で私は徹底的に嫌われているようだ。  ただ、Nさんも岩本の性格や素行を熟知していた。車の中で一時間くらい悪口を聞かされたこともある。Nさんとは仕事の付き合いから友人になり、何度も飲みに行った。  市役所で昼食などに誘われないことは全然苦にならないが、仕事でのこの強烈な嫌がらせには正直応えた。もっとも、後ろで誰が糸を引っ張っているのかはだいたい想像がついていた。  そんなある日、永田からショッキングなことを言われた。 「ガンちゃん(岩本の綽名)が経産省時代、お前から散々、迷惑を掛けられたって言ってたぞ」  とんでもない流言である。    岩本は役所の上層部に真逆のことを言っていた。  岩本にしたら、おそらく「江戸の敵を長崎で討った」つもりなのだろう。  大きな迷惑を掛けられたのはむしろ私の方である。岩本は自分の都合の良いように話をでっち上げたうえ、私を悪者に仕立て上げていた。  岩本にしたら先手を打ったつもりかもしれない。そのため私は市役所にいる間、岩本の讒言により散々苦しめられることになる。  岩本から事前に吹き込まれた私の良からぬ風評に、職員だけでなく臨時職員まで私を白い目で見てくるのにも参った。  私は割り切って仕事をするしかないと思った。私の専門はあくまで商業である。平静を保ちつつ、商業コンサルタントとしての経験やノウハウを市役所で生かそうと考え直した。  ただ、これは相手側の思う壺だった。市役所はあくまで組織として機能している。組織から排斥されれば、どんなに専門能力があっても実績は作れない。 一方、私は傍観者として内部に居ながら市役所をしっかり観察していた。地方での不慣れな公務員生活も見方によっては結構、楽しめたりするものである。  一般的に市役所職員の取り柄は非常に勤勉なことである。もっとも勤勉さイコール能力の高さとはならないのだが、ほとんどの職員は表面上、真面目に仕事に取り組んでいるように見えた。  私は元々、凝り性で新橋あたりを歩いていた時、足裏マッサージを受けに行ったり、勤務時間中(と言っても昼休み)にデパートに立ち寄ってゴルフのクラブを購入したこともある。不届きな社員と思われるだろうが、コンサルタントの仕事は激務で就業時間などあってないようなものだったから、私にとって、たまの息抜きは必要だった。  だから公務員が仕事をサボるにはコツがいる。  民間企業と違って利益を上げる必要がない彼らがどう考えてもそれほど多忙なわけないのだ。  たとえば、隣の課の課長補佐が熱心にやっていたことがあった。それはゲームだった。一見、パソコンの画面を見ていれば傍目には何か一生懸命に仕事をしているように見える。ところが、これが「テトリス」だったのである。だから、私はこの課長補佐に「テトリス課長補佐」という称号を与えてやった。  2000年代入りパソコンが普及して、デスクワーク中のネットサーフィンは普通になっていた。しかし、あれだけ大っぴらにサボれるのは公務員くらいだろう。 (コイツ、熱心に仕事してると思ったらまた、ゲームやってるよ)    また、サービス残業が常識の民間企業と違って公務員の場合、残業代はきちんと支払われる。これも公務員の大きな魅力といってよい。商業振興課でも古参の係長が毎日、必死に残業していた。  本当に忙しいのか、本人に能力がないのかわからないが、彼らの節操のなさや税金の無駄遣いにはホトホト困ったものである。  融通の利かないのも公務員の特徴である。  私はショボイ個店の経営診断にも携わっていた。  二週間後、書店の診断のための講師を派遣して(本来、私がやった方が早いのだが)簡単な診断指導をしたうえ、改善点などの報告書を提出してもらう仕事だった。  私は会計担当の布田徹という若手職員に必要経費を申請した。その際、講師に旅費、謝金などとともにささやかな夕食を出すことがあった。  ところが、「どこで何を食べるのか、事前に決めろ」と言う。最初は「冗談だろ」と思ったが、そうしないと「予算が計上できない」と言われた。今日何を昼に食べるか分からない人間に、二週間後に食べるものがわかるはずがない。つくづく、融通の利かない役人体質に苦笑いを禁じえなかった。  ちなみに、布田は岩本と違って性格も優しくて私は嫌いではなかった。使い勝手が良い布田に、私は秘かに「コンビニエンス野郎」という綽名を付けてやった。さすがに「便利屋」じゃ悪いから(笑)。  市役所の仕事は、私がコンサルタント時代に手掛けていたショッピングセンター(SC)開発のようなスケールの大きな仕事ではなかった。  ほとんどが商店街の活性化(と言っても、街路灯の設置等)や祭り、イベントの支援などショボイ仕事の連続である。施設整備のハード事業の場合、業者との癒着もあるようで、相見積もりを取ることも儘ならなかった。  ある日、K商店街から商店街の雰囲気を高めるため、ガス灯の設置が申請された。K商店街は活性化モデル事業に認定されている特別な商店街で、ハード事業にも補助金や無利子融資など手厚い支援策があった。  私は前任者に相談して早々、業者に見積もりを取ってみた。〇〇合金からの見積もりでは、消費税込みで一基約700万円だった。私は直感で不自然なものを感じた。 「明らかに高すぎます。他の業者からも相見積りを取るべきではないでしょうか?」  ところが、「業者はすでに決定しているから」と相見積もりを取りことは許されなかった。私は市内の別の商店街で街路灯を設置したケースがないか、過去の資料を調べてみた。すると、郊外の商店街で過去に街路灯を設置した事例があった。金額を調べてみるとせいぜい一基、200万円ほどだった。  なぜ、こんなにも差があるのだろうか? 電気灯、ガス灯の差はあってもたったそれだけで、イニシャルコストである設置費用が500万円も変わるものだろうか。  補助金は上限があるが、マックスまで使うほど設置者には旨味がある。  穿った考えだが、もし最初から街路灯が数百万円だったとしたら後々、業者から御礼として商店街の理事たちにキックバックされることも考えられた。  しかし、私はこの件であまり深く足を突っ込みたくなかった。ただ、こういったことが日常化して不正の温床にならなければよいと思いながら、K商店街を通るたびに胸が痛んだ。  地方公務員には公務員だけの特権もあった。  その一つが「公務員無試験資格制度」である。これは公務員だけの大きな魅力である。  前述したように、私は中小企業診断士という資格要件で市役所に採用された。裏を返せば、中小企業診断士の資格がなければそもそも、職務経験者採用試験すら受けられなかったのである。  日経新聞の調査によれば、中小企業診断士はビジネスマンにもっとも人気のある資格の一つである。私は仕事をしながら目指したが十分な勉強時間が確保できず、三度目の試験の直前に会社を辞めてやっと取得した。ところが、市役所内部にも自称、中小企業診断士という人間が私以外に七人もいた。    しかしこれが全員、試験でなくタダで資格をもらった連中なのだ。タダという言い方には語弊があるかもしれない。要は自分の金や時間を使わずに、無試験で資格を取得した者である。中小企業診断士には本試験とは別に中小企業大学校という登録養成コースがあって、彼らは給料を貰いながら市役所から大学校に一年間派遣されて資格を取得することができる。全員合格という大甘なシステムである。一次試験、二次試験、三次試験の実習と併せて合格率、約4パーセントという修羅場を切り抜けてきた私には極めて不愉快な話だった。  ちなみに試験組と大学校組でどちらが優秀かのコメントは必要ないだろう。彼らレベルはコメントしようがないとだけ言っておこう。一言でいえば、実務面でも彼らに診断士相応の実力が備わっているとは到底考えられなかった。 また、県庁にも同様に大学校組の診断士が多数いた。Nさんも大学校組の自称診断士だった。しかし、研修などでも頻繁に顔を合わせる役所の診断士たちも周りから見たら同じ診断士である。  笑ったのは県庁や市役所の場合、大学校組より試験組の私の方がマイナーでイレギュラーな存在だったことだ。  永田からもある日、嫌味を言われた。 「お前も中小企業診断士らしいけど、あんな資格、誰でももらえるんだろ?」 (お前の頭じゃ、一生掛かっても取れねえよ)と心の中で突っ込みを入れながら、コイツを本気で殺してやりたいと思った。    ちなみに国税局や税務署の職員なども退職後、無試験で税理士として開業することができる。行政書士、土地家屋調査士、司法書士などにも特認制度などがあって無試験で資格を取得できるルートがある。これだけでも民間企業に比べて、公務員がいかに恵まれた環境かがよくわかると思う。  しかし、不幸はまだまだ続く。  前述したように、市役所には私を含め七名の中小企業診断士がいた。  中小企業診断士には各県に支部会という組織があって、有資格者は加入が義務付けられている。私もコンサルタント会社にいた頃、年会費約五万円を支払って支部会に加入していた。各支部会に研究会や診断士同士の情報交換会があったが、私は多忙で参加できず、たいしたメリットも感じなかった。  しかし、公務員には様々な役得があった。ありがたいことに公務員だけで構成される支部会費や年間たったの五千円なのだ。その際、新入りの私は他の診断士の支部会費を集める係を申し付けられた。  これが後々、「支部会ネコババ事件」に発展してしまう。  私は庁内を回って、他の診断士六人から五千円を集めた。その後、自分の分を含め、三万五千円を支部の事務局に振り込んだ。セコイ話だが、振込手数料も私が負担した。だから、私は他の診断士から感謝されることはあっても恨まれることなどないはずである。  ところが年末近くになって、なぜか他の診断士の私を見る目が妙に白いのである。不思議に思い、私は商業振興課にいた前任の診断士のKという男に問いただしてた。すると、「市役所の診断士の支部会費がまだ、振り込まれていない」という話だった。そんなバカな話はない。あれは6月くらいの話である。 私はそのガセネタの発信元が誰なのか、必死になって探し当てた。  すると、市役所に出入りしている70歳くらいの高齢の診断士が、Kに対して「まだ、支部会が振り込まれていない」と連絡してきたという。 それが私には連絡されず直接、Kの耳に入った。これで、私の知らぬ間にすっかり「支部会費ネコババ事件」の犯人にでっち上げられてしまった。  知らないのは私だけで皆、私が支部会費をネコババしたものだと思い込んでいた。万が一、会費が振り込まれていなかったとしても、担当の私にまず連絡してくるのが物事の筋というものである。「他人の金をネコババした」と疑われるだけで情けなった。額にして僅か三万円である。そんな金額じゃ、怒る気にすらなれなかった。  おしんだったら、きっとこう言っただろう。 「おしん、お前が盗んだんだろ?」 「おれ、取ってねえす。おれ、取ってねーす」って。  新年早々、私はその高齢診断士の事務所を訪ねた。しかし疑惑はすぐ晴れた。コイツが単に通帳の入金記録を見落としていただけだった。 「お前は通帳の入金管理も出来ないようなら、首括って死んだほうがいいよ」と言ってやろうかと思ったが、公務員という立場を考えてギリギリで気持ちを静めた。  ところが後日、コイツがKに電話を掛けて、こう宣ったという。 「あの野郎、随分怒ってたみたいだぞ」  実を言うと、私はコイツのことをコンサルタント時代からよく知っていた。仲間内ではもっぱら「高齢で仕事ができない」という評判だった。仕事がなさそうだったから一度だけ、市の仕事を回してあげたのだが、恩を仇で返されてしまった。この一件で、庁内の診断士の信頼を取り戻すのにはかなりの時間がかかった。もちろん、コイツに仕事を依頼することは二度となかった。  商業振興課在職中、私はあるNPO機関から街づくりフォーラムのパネラーの要請を受けた。  県の中小企業同好会が主催するセミナーで、先方は名指しで私にパネラーの依頼をしてきた。依頼してきたのは最近、独立したばかりのTさんという中小企業診断士だった。Tさんとは支部会で何度か顔を合わせて、私の今までのコンサルタントとしてのキャリアを買ってくれたのだった。  こういう場合、出席してよいかは一応、所属課長の判断を仰ぐ決まりになっている。相談したところ、課の業務とも関りがありそうなので、パネラーとしての出席が認められることになった。  しかしその時、茶々を入れてくる人間が現れた。  坪山正一は同じ商業振興課の人間だが、今は市が出資する街づくり支援会社に出向している人物だった。 「このフォーラムのパネリストは順番からいったら志摩さんじゃなくて、岩本さんでしょ?」  しかし、先方はわざわざ、私を指名してきているのだ。  それを覆してまで、岩本に行かせようとするつもりなのだろうか。私のようなよそ者には実績や手柄を立てさせないよう、それとなくさり気なく妨害してくる。これが、おそらく彼らの常套手段なのだろう。  私は市役所に入庁して数日後、最初に会った時、坪山から言われた言葉を反芻していた。 「志摩さん、人事課から滅茶苦茶嫌われてるよ。市役所は針の筵だろ?」 「はあ?」  私は返答に窮した。  そもそも私は、人事課に嫌われるほどここの市役所と親密ではない。それどころか、職務経験者採用試験を受けてまっさらな状態で市役所に入った。とすれば、岩本が人事課にチクっているしか考えられなかった。  フォーラム開催の日が近づき、パンフレットも無事刷り上がった。  後述するが、こういうフォーラムは年がら年中開催されるが、講演やセミナーに参加者が十分集まらない場合も多い。そういう場合、市や県は総動員して職員からサクラを集める。勤務時間中にもかかわらず、関心のないセミナーに駆り出されるケースは迷惑な話だがザラにある。  所属長から「〇〇君と××さんは午後から、□□フォーラムに出席してくれ」みたいなことは役所内で日常的に行われている。ところが、藤田は私のフォーラムの出席については誰にも声掛けしないのである。それどころか、完全無視を決め込んでいるようだった。  逆に、私の担当の案件を他の職員に振り替えられるようなことはよくされた。二年目、私が主担当で九州に出張する案件があったが、何とそれを新人の職員に振り返られたりもした。私の場合、レアケースだろうが、ここまでよく露骨に嫌がらせができるなと感心した。  生え抜き職員の間では「よそ者には絶対に出世の機会を与えない」というルールだけは徹底していた。ありとあらゆる手段を使って妨害するやり方はある意味、彼らの結束力の強さも感じた。  商業振興課に配属されたのは私の希望通りだったが、前述したように 「担当する会議に上の者が出席しない」 「重要な会議には敢えて外される」などの嫌がらせが続き、仕事上の支障が出て私はホトホト困っていた。  課内でも永田に事あるたびに、 「お前は前の会社をリストラされた」 「もっと分相応のマンションに引っ越せ」 「会議中の態度がよくない」とか、 訳の分からないことで因縁や言い掛かりを付けられたりした。  もっとも永田の場合、容姿はヤクザそのものなので言動には凄みがあった。普通に考えればパワハラなのだろうが、私はこの件をいったい誰に相談してよいか分からず、途方に暮れていた。  そんなある日、私は市役所内にある労働組合の存在を知った。  労働組合は市庁舎の五階の片隅あって、職員は全員が組合専従でやっている。私は入庁一年目で労働組合に相談しに行くことには気が引けたのだが、背に腹は代えられないと思い、勇気をもって労働組合を訪ねてみた。  労働組合は堅苦しい雰囲気はなく、むしろアットホームな感じだった。  私は入庁してから今まで受けた数々のことを洗いざらい相談してみた。労働組合の係長は私の話を熱心に聞いてくれた。その際、庁内でも素行が悪い永田の評判が芳しくないことも教えてくれた。    それどころか、労働組合の係長は時を変えて、人事課の山上という課長補佐との面談まで設定してくれた。  翌週、個別面談は労働組合の別室で行われた。面談では温厚そうな山上が親身になって話を聞いてくれたので、入庁以来孤立して重く沈んでいた気持ちが一瞬晴れたような、少しだけ軽くなった気がした。 (市役所には分かってくれる人もいる。やっぱり一人で悩まず、何でも話してみるもんだな)  私はすっかり、いい気分になって労働組合を後にした。  しかし、これはとんだ罠だった。山上はとんだ食わせ者で、相談の一件が逆に人事課長に筒抜けになっていた。  元々、市役所に入る前から岩本の讒言により、私の評判は良くない。そんな折、人事課に相談しようものなら、まるで火に油を注ぐようなものである。結果は火を見るより明らかだった。  私の相談内容はから人事課長の福沢にストレートに伝わっていた。  ちなみに運の悪いことに福沢は前商業振興課長で、岩本にとって昔の直属の上司だった。当たり前の話だがこれ以降、庁内で私への風当たりは一層厳しくなった。  それを証明するエピソードが多数ある。 「志摩さん、人事課から徹底的にマークされてるよ」 「志摩さん、役所に居られなくなっちゃったね。辞めて地元に帰ったら?」 「志摩さん、役所内でスパイだって噂されているよ」  労働組合への相談後、様々な人から至る所で、そんな話をされた。  地方の市役所など首都圏の民間企業に比べたらまだまだ閉鎖的な組織である。よそ者や共通の敵を排斥する時、力を発揮する彼らのネットワークやフットワークの良さはある意味、脱帽した。  後々、労働組合が本当の意味で職員の味方ではないこともわかった。  現に、私は労働組合に相談しに行ったことで後々、昇進・昇格試験などでも徹底的に嫌がらせを受けることになってしまう。  市役所の労働組合などは人事課と表裏一体で裏では繋がっている。労働組合は、実際は市役所に楯を付く職員を早期発見する窓口でもある。市役所に対する不満分子が誰なのか、労働組合でしっかり把握して人事課にフィードバックして報告する機能や役割を果たすのが労働組合だった。 「労働組合は職員の味方だ」なんて、うっかり信じてしまうと後々、自分の立場が一層悪いことになってしまう。  しかし、こういうことは実際、痛い目に遭ってみないとわからないことなので、私には苦い経験になった。  社会ではこういう人事課の言いなりになるような労働組合を御用組合という。事実、若い頃に労働組合活動を熱心にすると後々、偉くなれるという。労働組合は出世への登竜門でもある。労働組合は表向きこそ職員や社員の味方でも、会社や人事課の顔色を窺いつつ、その都度不平不満を告げ口にしにきた社員や職員を人事課に密告する第二人事部でもある。  労働組合に相談しに行ったことで逆に目を付けられ、私は以前に増して庁内で強い風当たりを受けるようになった。陰湿な嫌がらせはさらに酷くなった。  毎日、鬱々とした日々を過ごしていた私に突然、朗報があった。  課の回覧で見たものは、「百万石市の街づくりに関する論文を募集します!」というものだ。  募集要項は、「当市の街づくりに関するあなたの思いを論文にA4で十枚以上に纏めて応募してください」  実は私はこういう論文は昔から自信があった。 「一発逆転にはこれしかない」と思って、早々論文作成に取り掛かった。  私は政府系コンサルタント会社で商業コンサルタントとして全国を股に掛けて仕事をしてきた。  コンサル時代は商業集積基本調査だけでなく、基本構想、整備計画など何十本も手掛け、一通りの経験を積んできた。「街づくり」は元々、私の専門分野である。微温湯のような職場で、ロクに論文一つ書いたことがないような素人の職員に負けるわけにはいかなった。私にとってA4十枚なんて、はっきり言って軽すぎた。手応え十分で審査の結果を待った。  ところが、私の書いた論文は選外だった。  その時はもう、怒りを通り越して笑ってしまった。  応募者はせいぜい十数名程度。最優秀賞一名。優秀賞二名、佳作数名。それでも、元コンサルタントの書いた私の論文だけは選外である。明らかに公明正大さに欠ける審査だった。  私が書いた論文が特別優秀だと思わないが、少なくとも市の職員の論文に比べて見劣りしない自信はあった。私の論文を落とすよう、人事課長の福沢がプレッシャーを掛けたのだとわかった。 (徹底的にオレを貶めることで、自信を失わさせて市役所を辞めさせるつもりなんだ)  選考委員長は、私が市職員の街づくりゼミナールにも参加している国立百万石大学のK教授だった。  この人はハード系の街づくりが専門の人だった。浮世離れした仙人みたいな奴で、K教授の書いた文献を読んだことがあるが非常に分かりにくかった印象があった。一言でいうと文章が難解で素直に頭に入ってこないのである。大学教授には向くかもしれないが、学生はさぞ苦労するだろうなと思ったことをよく憶えている。   しかし、私の悪い噂は庁内だけに留まらず、大学教授にまでも届いていたとは。まあ、アルバイトにもシカトされるくらいだから嫌われ方は尋常ではなかかった。  後日、さらにもっと笑える出来事があった。  それは最優秀賞が毎年、同じポストを経験した連中から出ることだった。  私と同じ回に最優秀賞を受賞したのは前商業振興課の課長補佐、その前年は元商業振興課の課長補佐だった。  それですべて納得できた。  選考前から最優秀賞の受賞者は予め、決まっていることを私はその時、初めて知った。そして、私が在籍した時の商業振興課の課長補佐の永田も柄にもなく懸賞論文に応募して、翌年の最優秀賞を受賞してしまうのだから、まったくもって大笑いである。    あの程度の人物に果たしてまともな文章なんか書けるのだろうか、審査基準に改めて不信感が募る。ちなみに副賞は海外視察旅行である。ただ、三年連続で商業振興課の課長補佐が最優秀賞に受賞することに、私は呆れてモノも言えなかった。しかし、最初から受賞する者が決まっている懸賞論文だったら、敢えてやる必要なんかないと思った。最初から決まっていることをわざわざやるんだからパフォーマンス以外の何物でもない。  お役所仕事ってマジで面白い。  日頃から嫌がらせを受けたり、仕事から外されたりしていていた私は、懸賞論文の件で立ち直れないほど落ち込んでしまった。  そんな中、あっという間に忘年会のシーズンがやってきた。百万石市は日本一料亭が多い街なのだそうだ。陶芸、蒔絵など芸能などの文化や伝統を育むためには料亭も必要だったのかもしれない。  普段はしみったれた生活をしている市職員も年に数回、高級料亭でハメを外して飲み食いするのは結構好きらしい。実際、歓送迎会や忘年会は必ずといっていいほど高級料亭で開かれる。  しかし、こんな料亭で宴会を開く場合、最低数万円は覚悟しなければならない。イタイことは宴会の費用が自己負担であることだ。ところが、市役所ではどの課でも積立金として毎月数千円を徴収する決まりがある。忘年会や歓送迎会は、基本的にこの積立金の中から捻出される。    要は、単位自分で積み立てたカネで飲み食いしているだけの話である。歓送迎会や忘年会ならそこら辺の居酒屋でも構わないと思うのだが、それでは彼らのプライドが許さないようである。ここ一番の時は、精一杯見栄を張るのが彼らの流儀である。だから、歓送迎会が続くときはたいへんである。 「今日は〇〇楼、明日は□□亭」なんてことがフツーに起きる。  連荘で高級料亭に通うのは明らかに異常な行為、かつ健康にもよくない。普段から高級食材を食べなれていない私は、宴会翌日は確実に気分が悪くなった。  入庁した年の忘年会は、市の奥座敷といわれる温泉場で開かれた。完全に干されていた私は正直、気が進まなかった。幸い、その日は別件で仕事があり、遅れて会場に到着したが、その雰囲気がまた、凄かった。  忘年会はすっかり盛り上がっていた。  コンパニオンも多数いて、まるでバブル期の再来みたいな感じである。課の臨時職員からも完全にシカトされている私は当然、コンパニオン相手に飲むことになる。でも、「こんなおネエちゃん相手に飲むのならおカネ返して欲しい。無駄なカネは使いたくない」というのが本音だった。  市役所職員は日頃の鬱積した感情をこんなところで晴らしているのだろう。カラオケもあり皆、楽しそうだった。  おそらく宿泊を入れたら一人、数万円だろう。でも、これなら街の鮨屋で美味しい鮨を摘まんでいる方がよいと思った。おかしなプライドを持っている公務員と付き合うのはたいへんなことだ。  中途採用の職員には普段から横柄かつ傲慢な態度に出られる市役所職員でも、権力のある者には徹底的に弱い。  ご存じのように市役所には議会がある。  市役所には政党ごとに議員部屋が用意されている。議員の中には当選回数が多く、庁内を肩で風を切って歩いているような剛の者もいる。市庁舎最上階にある議会事務局も市のエリートが集まる部署である。  ここは他の部署と違って、仕事をする環境がきちんと整っている。その理由は議員センセイ達の窓口だからだ。    穿った見方をすれば、議員事務局にいると議員センセイと親密になれるメリットがある。日頃からセンセイ達に、様々な恩を売ってコネを作っておけば、人事異動や昇進・昇格の際、さり気なく後押ししてもらったり有利になるという。  ある古参の係長に聞いた話では、市役所内でも大物市会議員がバックに付いていることで、市役所でエリートコースに乗っている者もいるという。  市民のため視察旅行などの仕事を毎月、懸命にされているセンセイ達に対して、管理職も日頃から卒なく対応する。万が一、センセイ達のご機嫌を損ねたら、議会などでつるし上げをされ兼ねないからだ。  私も商業振興課にいた頃、大店法を担当していた関係で突然、某政党の議員に呼び出されたことがある。その時の議員の傲慢な態度が今でも忘れられない。 「大型量販店の××店の出店について、こっちまで来て説明してくれ!」  いきなり、電話で呼び出されたので面食らった。 「こんな出店、許されるわけないよな。お前、どう思う?」  一目で横柄で嫌味な野郎だった。 (コイツ、自分が何様だと思っているんだろう。議員センセイって、そんなに偉いわけ?)  余談だが今、市町村合併で一番焦っているのが議員センセイたちだという。市町村合併で議員の定数が削減され、その皺寄せが現職の議員の誰かに及ぶからである。誰かが議席を失うのだから、それは至極当然な話である。                第4章  お役所の力関係は昔も今も変わらない。    それでは、一般的に地方自治体相互の関係はどうなっているのだろうか。  末端のすべての市町村にとって、所属する県は上級官庁に当たる。そして、それぞれの県庁の上級官庁は言うまでもなく国であり、関係各省庁である。  力関係でいうと、「国>都道府県>市町村」という関係が成り立つ。わかりやすく言うと、「親亀>子亀>孫亀」の関係である。人口数万人程度の市役所などにとって、県の役人はさながら代官様のような存在である。県の役人が代官様なら、国の役人は水戸黄門のような存在だろうか。  しかし、こんなおかしな力関係があるから、市の人間は必要以上に県の役人や国の役人に対して卑屈になってしまう。県の役人も国の役人も自分の職務を全うしているに過ぎないのだが、市の人間にとって県や国の役人は当市のために特別に骨を折ってくれている、ありがたい存在だと勘違いしてしまう。  市町村にとって、たとえノンキャリ職員でも上級官庁であれば途端に偉い人になってしまう。しかし、厳密にいえばこれはそれほど単純ではない。この関係が逆転するケースが多々あるのだ。  一口に市役所といっても、財政破綻した夕張市のような人口1万人程度の市から、人口で370万人を超えるような横浜市まである。横浜市の人口は単独で石川、富山、福井、北陸三県の人口を超える規模の人口を持つ。こんな横浜市のような市を政令指定都市という。  政令指定都市とは、地方自治法で定められている「政令で指定する人口50万人以上の市」である。  人口や産業が集中する大都市では、市民に対する行政サービスが多種多様になり複雑化する。このような複雑な行政をより効率的に行い、地域サービスに滞りなくサービスが行き渡るように考えられた制度が政令指定都市である。その代表的な市が横浜市、大阪市、名古屋市などである。  政令指定都市は一般の市とは異なり、行政、財政制度などでの特例が適用されるため、県と同程度の行政権限を行使し、財源を運用することがでる。すなわち、市でありながら県並みのサービスを提供することが可能となる。  それ以外にも合理的かつ効率的に仕事を進められることにより、市民がより住みやすい都市づくりを進められる。政令指定都市の場合、県と市の関係はほぼ同格である。独自に決定権を持てる分、市にとってはメリットかつアドバンテージがある。  では具体的に、政令指定都市にはどんなメリットがあるのだろうか。一言でいうと、他の市とは与えられる権限が異なる。前述したように県庁並みの権限が与えられるため、いちいち県の判断を仰がなくても市役所内部で政策決定ができる。そのため、普段から県の顔色を伺って仕事をするしかない市役所にとっては大きなメリットがある。  私は商業が専門なので商業以外のことはよくわからないが、一例を挙げると大型店の出店である。  一般の市では到底できないような出店も、政令指定都市なら市の独自の判断で出店が可能になる。それまで大型店の出店申請がある度、県に上げ審査という流れを市役所独自でできるようになる。県と同等の権限を持てることで市役所職員の士気も上がり、ステータスも高まるというものだ。  ただし、繰り返すが県庁並みの権限を持てるのは政令指定都市に限る。こんな政令指定都市が2024年現在、日本国内には20市もある。 横浜市は北陸三県を併せた人口規模を有する市なので、県庁並みの権限を持つのは当然である。有体に言うと、横浜市長は県知事以上の権限やステータスがある。    また、政令指定都市ほどではないが、法定人口20万人以上で一定要件を満たすと中核市という称号を与えられる。地方の県庁所在地の市などは概ね、この中核市に該当する場合が多い。  百万石市はこの中核市に該当するのだが、「平成の大合併」の流れに乗って、新たな権限行使のため、分不相応に市長が政令指定都市を目指していた。  ところが、ライバルの新潟市が早々に政令指定都市に昇格したのを尻目に、百万石市の政令指定都市構想はとん挫してしまう。  訊くところによると、市長がまず近隣のN町に合併話を持ち掛けたが、N町は単独市制を目指し、新たにN市となった。合併話にはどの市町村も乗り気ではなく、百万石市はどうやら周辺市町村からも、かなり嫌われているらしい。 百万石市圏の人口は70万人を超えているが、周辺市町村との合併構想が上手くいっていないなど、今後も政令指定都市への道筋は見えていない。  市役所一年目にしてあらぬ嫌疑を掛けられたうえ強烈な嫌がらせを受け、私は自分の能力が十分に発揮できないことに気付いた。このままこの課にいたら、どんどん自分がダメになっていくと感じた私は、自己申告制度に商業振興課を出たいという希望を人事課に提出した。  すると人事課の作戦なのか、私は二年目にキャリアのいる交通政策課に異動になった。しかし、この課の雰囲気は商業振興課以上に凄かった。  まず、国土庁から出向できている30代半ば(私より四歳年下)のキャリアが課長、さらに県警から出向できている担当課長、その他、担当課長補佐が一名、係長が四名、平職員が私を含め数名という人員構成だった。しかし笑ったのは、この課では課員全員がキャリア様の下僕だったことだ。  地方都市でも県庁所在地クラスの大きな市役所になると、中央官庁からキャリアと呼ばれる官僚が派遣されるケースがある。そういう場合、普通は然るべきポストにキャリアを付けてやることが多い。国とのパイプを強くしておくことは将来様々な優遇措置を得るために、地方都市にとって戦略上とても重要になる。  当市の場合、二人いた助役(今は副市長)のうち、一つのポストと都市計画課、交通政策課いずれかの課長ポストに自治省(現総務省)、国土庁(現国土交通省)の官僚を付けることになっていた。こういう場合、市役所は国のキャリアたちを殊の外、丁重に迎えることが決まりになっていた。    地元の新聞なども、県庁や市役所にキャリアが赴任することがあればその都度、好意的に取り上げて記事にする。  たとえば、記事ではこんな感じで紹介される。 「〇〇氏は東大法学部卒業後、昭和××年に□□省に入省されて、平成〇年、△△県の部長を歴任され、今年度百万石市の助役に就任されました。当市では〇〇氏の地方自治に精通した経歴が生かされることを期待されています。誠実で温厚なお人柄で、私生活ではスポーツやクラシック鑑賞を嗜まれます等々」    したがって課内では「キャリア様の言うことは絶対に正しい。逆らわない、逆らえない」というのがプロパー職員の共通認識になっていた。  ノンキャリの中途採用者なら、最初から「リストラされたクズ」扱いでも、キャリアなら「人柄まで温厚な人格者」になってしまうのが、地方市役所での面白さである。地方では江戸時代の士農工商やインドのカースト制度などがいまだに、しっかり残っていた。  世の中は東大卒、官僚、大学教授、医師、弁護士、大企業の社長等地位や名誉があるというだけで、そのオーラに圧倒され怯んでしまう人間がいる。コンサルタント時代、私は東大出のクズもよく見てきたし、高額の謝金を強請る下品な大学教授にもよく出会った。たしか、こういうのハロー効果とか言うんだと思いながら、私はその新聞をゴミ箱に投げ捨てた。  ただ、地方の役所にとってキャリアは国の大切なお客様なのである。だから赴任中、うっかり彼らの経歴に傷でも付けようものなら後々偉くなった時、恨まれてどんな報復をされるかわからない。そのため、赴任中は彼らを丁重におもてなしをして、キャリア様を上げ膳据え膳で迎える。  しかしキャリアと言っても、いずれも世間で言えばまだ三十代の若造である。そういう若造に対して、市長自ら音頭をとって揉み手をしながら、彼らに至れり尽くせりのサービスをする。もてなされる側としては面白くないはずはないのだ。    交通政策課に異動になって、私が最初に命令されたことはキャリアの運転手である。訊けば、どうやら交通政策課は前任の課長もキャリアだったらしい。  そのため市サイドが便宜を図り、課にお抱え運転手を置いていた。はっきり言うと別に運転手がいなくても一向に構わないのだが、それでは対面上、キャリア様に対して失礼になる。  ある日、後述するパークアンドライドシステムの現地踏査のため、私は車の後部座席に乗り込んでキャリアを待っていたところ、当日、どういうわけか運転手が不在だったらしく私が急遽、キャリアの運転手の代役を務めるよう命じられた。私はキャリアから命令された。 「おい。お前が運転手やれ!」 「恐悦至極、承らせていただきます」とでも言えばよかったのだが、あいにく私は私生活上でも車を所持していなかった。  自転車の運転は得意でも、車の運転はあまり得意ではない。というか、そもそも百万石市に来たばかりで、郊外の道もよく知らなかった。道を十分知らない私が運転すれば、事故を起こさないまでも土地の者が運転するより危険なのは間違いない。  それでも、「早く、車を出せ!」とキャリアが執拗に迫ってくる。  ただ、私はノンキャリであっても、運転手をするためにこの市役所に入ったつもりはなかった。中途採用でも職務経験者として「商業コンサルタント」や「経営コンサルタント」としての知識や経験を買われて採用されたはずである。それを最初から知っていて採用された以上、程度の低いイジメに他ならない。力関係を使って、手を変え、品を変え、様々な嫌がらせを仕掛けてきた。  入庁早々から課長補佐の永田から凄まれたり、アルバイトの女性から挨拶をしても露骨に無視されたり、小学生レベルのくだらないイジメは多数あったが、あまりに程度が低いので一切無視し続けていた。  しかし、まさかキャリアを巻き込んだ形で仕掛けられるとは予想していなかった。おそらく、岩本が吹き込んだ私の根も葉もない噂は、キャリアまでもしっかり浸透していたのだろう。  意表を突かれた私はプライドを踏みにじられた気がした。堪えられなくなって自分から辞めていくのを期待しているのだろうか。私は思い切って、この件を人事課に直訴しようと考えたが、例の人事課長のことである。そんなことをすれば、さらに陰険で巧妙な報復が待っていることだろう。  私は『笑点』に出てくる座布団運びの山田隆夫のように   「はい。かしこまりました」と言うと、  おもむろに運転席に座りシートベルトを着用した。 (ただし、運転には責任持てないよ。事故起こして死んでも知らないからね)  ――そう心の中で呟くと、私はアクセルを踏んで車を急発進させた。  県庁や市役所などの地方自治体には、国からのキャリア派遣だけでなく、交流人事という制度がある。  たとえば、県と市の間での交流人事や、県、市などから一定期間、中央官庁に派遣する制度がある。  百万石市では県庁へ派遣される者、経産省に派遣される者などがいた。また、変わったところでは松下政経塾などの公益財団法人に派遣される者などもいた。  余談だが、地方自治体と民間企業への交流人事も近年、活発に行われている。私がコンサルタント時代、経産省には地方自治体だけでなく、大手損保会社からも一定期間、出向で人が来ていた。  それでは、市役所の職員が中央官庁や上位の県などに派遣されるとどういうことが起きるのか。簡単な話、自分がエリートだと勘違いしてしまう。 「オレは国からの要請で派遣された、県庁で仕事をするほど有能と評価されているんだ」という哀しいほどの錯覚、勘違いをしてしまう。  逆に言えば、こんな時にこそ日頃から鬱積したノンキャリ根性が出てしまう。 「オレは市役所職員でも、お前らフツーの市役所職員とは違う。オレは期待されているエリートなんだ」  だから、普通の職員と接する時も大きな勘違いをしてしまう。  出向する前と比べると、出向している時、帰ってきた時には確実に態度が大きくなっている。民間企業でも、何年か海外赴任をして日本に戻ってきただけで、欧米かぶれで「向こうはさ~。何か、日本とは違うんだよ」みたいに、欧米かぶれでにわかに傲慢な態度になる奴がいるが、それとよく似た感覚が市役所にもあった。  奇しくも市役所で、私の周りにはこの種の人間が多数いた。 中央官庁出向経験者、 県庁出向者、 松下政経塾出向経験者、 海外出張経験者、 中小企業大学校中小企業診断士登録養成講座修了者など挙げれば切りがない。    こういう一部の連中が、いわゆる役所のエリートとして将来の幹部に育っていくわけだが、エリートと言われる割に程度は高くなかった。    また、交流人事という意味では県庁と市役所間の交流人事だけでなく、県警などから市役所に派遣されるケースもある。また、その逆で東京都から警視庁に出向するような、各自治体から県警に出向さる場合もあり、交流人事はまさに種種雑多な感がある。  警察などと言うと、さも熱血漢を想像してしまうが警察関係者と言っても所詮は普通のサラリーマンである。自分の出世のためには、キャリアの前でやっぱり尻尾を振ってしまうのである。サラリーマンはどこまでも哀しいのだ。  キャリアが普段から丁重に扱われていることは説明した。 しかし笑えたのは、市役所で働く末端の職員までおかしなキャリア崇拝信仰が浸透していたことだ。 「あの人は本当に実務能力の高い人だった」みたいな話はよく聞かされたが、本音は「万が一、キャリアに睨まれたりしたら市役所での自分たちの将来がない」と考えて予防線を張っていたようだ。  実際、私は課内でこんなシーンをよく見かけた。  キャリア課長に五十歳前後の課長補佐が揉み手をしながら「課長、例の件どうしましょうか?」とお伺いを立てている。四十代半ばのベテラン係長が朝一番、キャリアに向かって「温かいコーヒーが入りましたよ」とミエミエの媚びを売っている。  私は彼らのコメつきバッタみたいな仕草を見て、末端公務員の悲哀さをひしひしと感じた。  会議などでも皆、キャリアの言いなり。  キャリアのご機嫌を損ねないように言いたいことも言わずに黙っている。どうやらキャリアたちは、自分中心に地球が回っているものと勘違いしているようだ。  キャリアの在任期間中は、人事課から「キャリア取り扱いマニュアル」でもあるのか、周りの者は腫れ物にでも触るような扱いをしている。キャリアの在職中に彼らの経歴に傷がつかぬようにするのは当然だが、箔付人事や表向きは先進視察と称した、意味のないヨーロッパ旅行なども行われた。  そんなある日突然、キャリアが課長から二階級特進して担当部長になった。    青天の霹靂のような出来事だった。  彼が何か実績を残したわけではない。なのに何の前触れもなく突然、部長になった。考えられるのは、単に市役所がキャリアに対してヨイショしただけである。地方交付税や補助金などをチラつかされれば県や市は国に対して頭が上がらない。だから百万石市に限らず、地方では派遣されたキャリアへの箔付人事が横行している。  百万石市では路面電車の復活が交通政策の柱の一つになっていた。しかし、立ち退きに伴う地権や利権などが絡むため、実現には最短でも五十年近く掛かると予測されていた。極端な話、いま政策に取り組んでいる連中の目の黒いうちに新交通システムができる保証はまったくなかった。    ところが、キャリアの在職中「新交通システムの視察」と称した観光に等しい欧州旅行がキャリアにあてがわれた。役所側の心憎いばかりの演出が伺い知れる。百万石市における新交通システムの計画には何の具体性も現実性もない以上、視察などは時期尚早かつ税金の無駄使いで、官官接待そのものである。 公務で行く視察には大義名分が必要なはずだ。  これでは、自民党女性議員のパリ視察「エッフェル姉さん」と何ら変わらない。市役所は、キャリアをもてなすための海外旅行費用も市民の貴重な税金から捻出されることを理解してほしい。キャリアのご機嫌を取ることだけが市役所の仕事ではないはずである。  キャリアが出向先の県庁や市役所で非常に大切に扱われていることは説明した。それでは、プロパー職員以外の中途採用者や職務経験者の扱いはどうなっているのだろうか。  はっきり言うと、ほとんど重視されていない。それどころか、三十歳を過ぎた中途採用者は庁内で多かれ少なかれ、周囲から色眼鏡で見られている。 裏では「前の職場で失敗した」とか、 「会社が不景気でリストラされた」といった根も葉もないウワサを立てられることも多い。  市役所などの地方公務員は、日頃から上司、上級官庁、キャリアなどの対応で不平不満を鬱積させている。だから、そのようなストレスの捌け口が中途採用などに向けられることになる。  上司やキャリアに楯を突けば自分たちの将来はない。理不尽だと思っても黙って従うしかない。しかし、ノンキャリの中途採用の前なら強く出ることができる。公務員の仕事に不慣れな中途採用に対して、 「期待したほど仕事ができません」 「要領が悪い」などその都度上役にチクったり、さり気なく仕事の妨害をしたりする。  一方で、自分の出世に中途採用を利用することもけっして忘れない。「コイツじゃ仕事ができないので、自分が特別にフォローしておきました」など体のいいことを言って確実にポイントを稼いでおくのである。中途採用に対してよく行われることは、一言でいえば「チャンスを与えないこと」に尽きる。  すべての中途採用に当てはまるとは限らないが、(当てはまったら困る)以下は、実際に私がされたことであり、それを列挙してみよう。 ①仕事を教えない、きちんと引継ぎをしない。 ②仕事を与えない、あるいは担当から外す。 ③重要な会議に上役が出席しない。 ④担当の会議に出席させない、もしくは会議から外す。 ⑤担当の案件を他の職員や新人の職員に回してしまう。 ⑥担当案件の出張には行かせない。 ⑦すべてにおいてチャンスを与えない、あるいはチャンスを潰す。 ⑧役所の懸賞論文には絶対に入賞させない。 ⑨歓迎会、忘年会以外の食事・酒などの付き合いは一切しない。  市役所入庁後に知ったのだが、人事評価の基準もプロパー採用職員と中途採用は最初から異なるという。地方公務員の場合、どう足掻いても中途採用は生え抜きには勝てない、上がれないようなシステムになっている。  すべての地方自治体がそうとは限らないだろうが、地方に行くほど閉鎖性が増すのは否めない。程度の差こそあれ、生え抜き職員を優遇する傾向は実際にあるようだ。  さらにもっと程度が低い場合、ノンキャリの中途採用に対し、露骨な無視、誹謗、中傷、チクリ、恫喝、脅しなども行われる。 彼らにとっては、「自分たちは役所に入って今まで散々苦労して這い上がってきた。それを、そう簡単に中途採用のお前らに上に行かれてたまるか」という連帯感でもあるのだろうか。  百万石市では通勤、通学時の交通渋滞が深刻な問題になっていた。このため市では県と協議会を立ち上げ、交通渋滞緩和のため「パークアンドライドライドシステム」という制度を導入した。  パークアンドライドシステムとは簡単に言えば、自宅から自家用車・軽車両で最寄りの駅または停留場まで行き、駐車・駐輪させた後、バスや鉄道などの公共交通機関を利用して、都心部などの目的地に向かうシステムである。欧米では普及して渋滞緩和に効果を上げている国もある。  何でも、このシステムを全国の自治体に先駆けて取り入れて実施しているのが当市だそうだ。商業振興課を早々に追い出された私は選りによって、いきなりパークアンドライドシステムの担当になった。  当たり前の話だが、パークアンドライドシステムを始めるには郊外に駐車場が必要である。ところが、行政は郊外に適当な駐車場を持っていないため量販店などを頼り、スーパーの駐車場に一定のスペースを間借りしてパークアンドライドシステムを始めることになった。  私が担当していた当時、こんなパークアンドライドシステムに供用される駐車場が郊外に四ヶ所あった。  要は、「他人の施設を利用してパークアンドライドシステムをやろう」という行政側にとって都合の良い話である。  しかし、スーパー側もしたたかなもので、公益のためとはいえ、パークアンドライドシステムに供用される駐車場にも、年間何百万円という使用料をしっかり徴収する場合もあった。  何のことはない。  役所は表向きには渋滞緩和と称しながら、裏では市民の貴重な税金をせっせとスーパーに支払っていたのである。  引継ぎ当初、私は前任者の出口に「パークの利用者は何人くらいいるの?」と尋ねてみた。  すると出口は「百五十人くらい。パーク利用者は今後、もっと増えるからあとは手柄だけだ」などと調子のいいことを宣った。  私は、そんなオイシイ話あるのかと訝しく思ったが、その時は黙って聞いていた。  しかし実際の利用者を調べてみると、せいぜい50~60人程度だった。登録はしたものの現在は使っていない者がほとんどだった。実際のパークの利用者は登録者の半数に満たないほど極端に少なかったのである。50~60人程度のパークアンドライドシステム利用者で、本当に渋滞緩和に効果などあるのだろうか、ちょっと賢い中学生でもわかりそうなロジックである。  さらに調べてみると不可解ななことがあった。出川が架空の実績を作るために利用者を水増しして上に報告していたのだ。  しかも登録者の大半は県庁、市役所、公的機関などに勤務する内輪の関係者だった。これらは付き合いで登録者に名を連ねているだけで、実際にパークを利用している人間は数十人しかいなかった。パークアンドライドシステムは行政側が意図的に作り出したヤラセで、これこそ究極の渋滞緩和策パークアンドライドシステムの実態だった。  しかし、こんなパフォーマンスに過ぎないパークアンドライドシステムにも法外の予算が付いていた。私は実施協議会から計上される予算を通して、パークアンドライドシステムのPRや普及活動に努めた。  県内、約五十万世帯に向けて地方新聞への折り込みチラシの配布、地元FMラジオへのオンエアーによるCM、パンフレットの刷新、ダイヤ改正に伴う路線バス時刻表の作成など実施してみたが、いずれもリアクションはゼロに等しかった。まるで、大金をドブに捨てているような感じがした。  多額な費用を投入しても効果が上がらない。  原因は元々、住民の交通渋滞に関する意識が希薄なことだった。人間、何かメリットがなければ自分から動いたり、事を起こしたりしない。パークアンドライドシステムを使うメリットや住民の意識作りこそ行政に求められていたが、協議会は何もしていなかった。住民のニーズや意識が上がらなければ何も変わらない。後述するが、百万石市はパークアンドライドシステム以外でも、ワンコインバスの運行などもやっていた。  私はパンフレットもシステム開始以来、四年間一度も変わっていないことも気になっていたが、出口は自分の頭で考えることができず、業者が提案したパンフレットやチラシを踏襲するだけだった。  一般的に行政にマーケティング的な発想はない。  関心があるのは予算を使うことのみである。普通はまずリサーチをして、何人くらい利用するのか、事前に調査するが民間の発想である。  しかし行政の場合、欧米で効果があったという理由だけで、十分な調査もせずに取り合えず始めてしまう。  私は思わず、「欧米か!」と突っ込みを入れそうになったが、キャリア様に楯は突けないので止めておいた。  地方公務員は担当する部署の予算を使い切るしか能がないから、そもそも営業という概念はない。  私は最後の手段として、市内の企業にパークアンドライドシステムの営業を始めた。民間企業から率先してパークアンドライドシステムの利用を促してもらおうと考えた。利用者が増えない以上、待ちの姿勢では何も変えられない。午後は企業訪問に明け暮れた。飛び込みも含めて市内の企業二百社くらいを回っただろうか。しかし、どれも反応は冷ややかだった。私はだんだん、仕事をしている意味がわからなくなっていった。  そんな中、日本各地から百万石市のパークアンドライドシステムについて視察したいという要望が各自治体、マスコミ、企業などから多数寄せられた。平均すると一月に一回くらいあったように思う。  実際は上手く機能していないパークアンドライドシステムを、先進成功事例として説明を求められたり、紹介することに私は胸が痛んだ。  事前に打ち合わせをした利用者を呼んで、お決まりの質問が繰り返される。 「パークアンドライドシステムを利用してどういう点がよかったですか?」 「以前のように渋滞を気にせず、イライラしなくなりました」  毎回、ヤラセのような問答に、私はうっかり利用者が本音を言わないように卒なくフォローに努めた。実際は公共交通に乗り換えてもバスが時間通り来ることはないし、パークアンドライドシステムのメリットなんてほとんどない。 マスコミや地方紙の記者たちが私や利用者の話をまとめて記事にして、百万石市のパークアンドライドシステムの成功事例として紹介することに良心の呵責を感じた。  また、本来パーク利用者は月に一回、駐車場を管理する量販店の商品券を三千円~五千円程度購入する決まりになっていた。  ところが、パーク利用者も数ヶ月するとたちまち商品券を購入しなくなってしまった。そのため無断で駐車している者がほとんどだった。分からないと思えば、どんなセコイこともやってしまうのが人間の本性である。  要はパークアンドライドシステムを企てる役所も利用者も駐車場を提供する量販店も共犯で、渋滞緩和と称しつつ、巧妙に市民を騙しているという構図だった。  ほとんどの職員は創造的な仕事は苦手だが、それもわかるような気がする。役所でスタンドプレーは嫌われる。出る杭は打たれるだけなので、前例のないことをして顰蹙を買うより、大人しく前例を踏襲する方が安全だからだ。しかし、二十代や三十代からあれでは先が思いやられる。彼らの最大の関心事は市民のことではなく自分の出世である。上層部にどれだけよいパフォーマンスを見せられるか、ポイントを稼ぐかで露骨に昇進昇格に差が出てくるから当たり前だ。    私が交通政策課に異動になった時、直属の上司に四十代半ばの係長がいた。   この男の名前を川口達也という。  川口は庁内きっての情報痛だったが反面、学歴コンプレックスや出世願望がひと際強い、ちょっと変わった奴だった。訊けば川口は教育熱心で、一人息子を県内有数の進学校通わせているという。私も川口の机の上にさり気なく「Z会の添削」が置いてあった時は正直驚いた。 「県庁の〇〇さんは、東大卒だからいいよな~」 「秘書課の××はそろそろ課長になってもいい頃かも」 「S部長とK部長とM部長は市役所三羽烏って言われていて、市長から特別目を掛けられているんだよ」とか、よそ者の私に対しても、とかく他人の人事によく首を突っ込んでいた。  川口に私は後々散々な目に遭わせられることになるのだが、その中でも極めつけの事件を二つだけ紹介しよう。    私がパークアンドライドシステムの担当になった時、利用者に聴覚障碍者の女性がいた。  その女性はパークアンドライドシステムの利用方法について、私に様々なことを質問してきた。当時、まだメールが一般的でなかったので、聴覚障害の女性との遣り取りは当然、ファックスだった。私は担当者として、女性にできるかぎりの説明や情報を提供した。  ある日、出社すると何気なく、私の机の上にファックス用紙が置いてある。ファックスの送信者はその女性だった。  そこには、私のパークアンドライドシステムの丁寧な説明への感謝の念が記されてあった。地域住民のために当然なことをしたまでだったが、障碍者の方のために役に立てたことが素直に嬉しかった。  その文面の最後には課長宛てに「志摩さんの迅速な対応と丁寧な説明について、褒めてあげてください」みたいなことが延々と書かれててあった。その女性は思いやりのある優しい性格でもあった。  ところが、川口はそれを平気で握り潰してしまった。  ファックスがキャリア課長や課長補佐の目に触れる前に、私の机にさり気なく置いたのである。まさか、課長らに「こんなファックスが届いていました。とても感謝されました」なんて自分から言うつもりはさらさらないが、やり方が陰険である。川口は、私の評価が少しでも上がることを嫌ってわざわざやったのだろう。  もう一つは許しがたい事件である。  前述したように、パークアンドライドシステムの実施団体は県と市から構成されるパークアンドライドシステム推進協議会である。この協議会の印鑑は当時、担当者である私が保管していた。当然だが起案や支払いの際にはこの印鑑が必要である。  ある朝、出社すると私の机から協議会の印鑑一式がなくなっていた。  印鑑が勝手にどこかにいってしまうことなどありえない。私は顔面蒼白になった。協議会の代表印鑑など紛失すれば、それだけで責任問題になるからである。周囲の者に訊いても皆、知らないと首を傾げるばかりだった。  私は途方に暮れた。    ところが数日して犯人が見つかった。  川口の犯行だったのだ。川口が無断で私の机の引き出しから印鑑を抜き取り、何食わぬ顔をして自分で保管していたのである。  こんなことは普通に常識ある人間のすることではない。  人を信用しないにも限度がある。まず、私に話を通してから印鑑を保管するのがまともな人間のやることである。  私はこの時、川口という男の人間性を垣間見た気がした。    商業振興課の岩本と川口は労働組合の幹部で互いに面識がある。実際は仲の良い友達同士である。だから当然、会話も弾んでいるはずである。  そんなある日、パークアンドライドシステムのフォーラムが九州で開催されることになった。本来は私がパークアンドライドシステムの主担当なので、フォーラムには私が行くはずだった。  ところが、その役目をキャリアが何と、新人の職員の橋下に振ってしまったのである。断っておくが、橋下に卓越した能力があるわけではない。  川口が私を貶めるため、ことあるごとにキャリアに「橋下は即戦力になります」なんて、橋下を持ち上げているのよく見ていた。 (オイオイ、そもそもこれはオレが主担当の案件じゃないのか? 何で選りによって副担当の新人がオレの代わりに出張に行くことになるんだよ)  キャリアも私が人事課から目を付けられていることを知っていたようだ。あるいは、川口がキャリアに私の良からぬ噂を吹き込んだかのいずれかだろう。  傑作だったのは、新入職員でいきなり大役(?)を任せられた橋下だった。この一件で完全に舞い上がり、自分が「できる人間」だと、すっかり勘違いしてしてしまったのである。  ことあるごとに私を舐めて掛かり、「わかりますか?」なんて尋ねてくる。それどころか、橋下は私の頭を飛び越えて勝手にキャリアに意見をしてみたり、やりたい放題だった。  周囲もミエミエの嫌がらせに気付いているはずだが、誰も「年長者に対して、いい加減失礼だろ?」なんて説く殊勝な人間は誰一人もいなかった。    要は私を完全に仕事から干し上げる作戦だった。  仕事から外されれば絶対に実績は作れない。だから一層、悪循環に陥ってしまう。いずれにせよ、市役所側は私を辞めさせるため時を変え、手を変え、品を変え、様々な嫌がらせを仕掛けてきた。  交通政策課二年目にも同じようなことがあった。やはり、パークアンドライドシステムの会議が私の地元であったのだが、副担当の年下の職員に振り替えられた。ここまで露骨に嫌がらせをされると笑うしか術がなかった。    パークアンドライドシステムの担当をしていた時の話をもう一つしよう。  私が担当していた年、郊外のパーク用の駐車場を提供している大手スーパーが売り上げ不振のため閉店することになった。  協議会からはこのスーパーには毎月高額の駐車料金を支払っていたが、運悪いことに閉店に追い込まれてしまった。つまり、スーパーの退店はパークアンドライドシステムを推進する市役所にも大きなダメージになった。  早急に代わりの駐車場を探すことになった。  道路一本隔てた場所に、おあつらえ向きに地元バス会社の車庫があって、そこに白羽の矢が立った。バス会社としても行政の言うことには逆らえない。急遽、ここにパーク用の駐車場を間借りしてパークアンドライドシステムを再開することになった。  私は利用開始日当日、キャリアの命令で利用者にトラブルがないように朝早く現地に直行した。キャリアはゆっくり、現場に来ることになっていた。    その日はあいにくの土砂降り。ここでユニークな事件が発生する。  役所の仕事は前述したように一つの業務に主担当と副担当がいる。この場合、パークアンドライドシステムの主担当が私、副担当が係長の川口と新人の橋下だった。  私は朝6時前から現地にいたが、キャリアは9時過ぎに、少し顔を出して早々に引き上げていった。利用者の通勤時間が一段落した10時過ぎ、私はバス会社の待合室兼休息所で一息ついていた。待合室からボーッと外を眺めていると、雨脚はさらに強くなってきた。  そこに突然、ミニバイクが入ってきた。  私は遠目から見て、それが橋下だと気が付いた。  まるで濡れネズミのようだ。  橋下が通勤に原付を使っていることは知っていたから、見間違えるはずはなかった。 (しかし、コイツが何のために今頃になって現れたのだろう?)  私は待合室から一部始終、観察をしていた。  橋下は土砂降りの中、おもむろに駐車場を見渡し、誰もいないことを確認すると、さも残念そうに駐車場を出て行った。  その時、私は理由がすぐにわかった。橋下はキャリアの課長が現場にいることを期待して、わざわざここまで来たのだ。 「自分は、こんな土砂降りの中、熱心に仕事をやっています」というミエミエのパフォーマンスを演じるためだけに。  抜け目のない奴だが、とんだ間抜けな野郎だなと思いながら、  私は「バーカ。キャリアなら、とっくに帰っちまったよ」と心で呟いた。  役所に戻った私は、橋下に対して一部始終、待合室から見ていたと話した。しかし、橋下はしたり顔をして答えた。 「あれ、駐車場に誰もいませんでしたよ」  橋下は私が駐車場の待合室にいたことを最初から信じていないようだった。 それどころか、私がきちんと職務を果たしていないことをキャリアにでもチクったりしたかもしれない。  しかし、そんなことはどうでもよかった。  私は橋下にこう言ってやりたかった。 「残念だったね。せっかく、ずぶ濡れのパフォーマンスを演じたのに。キャリアが見てなければポイントも稼げないし。でも、オレだけは認めやるよ、お前のクソみたいなノンキャリ根性とさもしい努力を」  役所にいるとよくわかるのだが、役所という職場は補助金を出すために仕事をしているのではないかと勘違いさせられることが多々ある。無利子融資など至極当然で、条件を満たし審査が通りさえすればストレートに補助金が出る場合もある。こんな制度なら、同じ〇〇なら使わにゃ、ソンソンである。  当時、中心市街地の活性化に力を入れていた百万石市には街づくり支援機関としてTMO(タウン・マネジメント・オーガニゼーション)という組織があった。私が商業振興課にいた頃、TMOが主導して街中に賑わいを創出する目的である商業施設を作ることになった。  ここに出店するテナントは、イニシャルコストほぼゼロで出店できるという手厚い補助金制度があった。普通に仕事をしている人間から見たら考えられないことだが、それが理にかなったものと行政が判断すれば、行政はカネを惜しみなく出す。街中にある遊休地をパティオにして、そこに飲食店を七、八店舗作るだけのショボすぎる計画でとても賑わい創出の起爆剤になるようなものではなかったが、私はこの計画にも一切参加させてもらえなかった。  また、百万石市には全国に先駆けてワンコインバスが導入された。  ワンコイン、つまり「百円で乗れるバス」という画期的な取り組みだった。このバスは高齢者にも優しい低床式バスで、不便で細い街路にも乗り入れ、天然ガスを使用した環境にも優しい乗り物である。  しかし、このバスは、ドイツ製で一台数千万円もする代物で、とてつもなく高かった。ところが、こんな高価なバスを購入するにも国から一定の補助金が出る。丸々一台買えば市の財政を逼迫しかねないドイツ製のバスも実際は補助金を頼りにしている。  また、ワンコインで走らせるため収益は望めない。市民サービスで走らせるといっても最初から収益度外視はないと思うのだが、赤字分は市が補填している。付けは当然、市民や税金から支払われるといったパークアンドライドシステムと同じパフォーマンス重視の構図だった。  私も試しに乗ってみたことがあるが実際、このバス自体、使い勝手はよくなかった。ワンウエイの循環バスなので、目的地に行くにはその都度、路線バスに乗り換えが必要となる。  乗り換えることを考えれば、最初から路線バスを利用する方が断然お得かつ便利である。どうやら、市役所はワンコインバスのコストパフォーマンスは意識していないようだ。    ワンコインバスは観光目的とは異なり、本来は地域住民のためのバスであるが、実際は観光客頼みで運行をしている。  ただ、こんなバスにも先進事例視察として毎月のように、日本各地から視察の希望が寄せられ、その都度多くの視察者が訪れた。しかし、これもパークアンドライドシステムと同じように行政特有のパフォーマンスの域は抜けていなかった。   担当者が視察者相手に、 「当市ではワンコインバスを導入して日々、住民の方に感謝されています」と、歯の浮くようなセリフの一つでも言うのだろうか。コストを掛けた割にコストパフォーマンスが上がらないのが行政の仕事だと感じた。  運行当初は物珍しさで乗ったワンコインバスだったが、住民の間でも色褪せていく感じは否めなく年々、乗降客数は減少している。言葉は悪いが、観光客が間違って利用する程度である。  ところがキャリアが在任中、ワンコインバスの路線が二路線から四路線に増えた。これが、そっくりそのままキャリアの手柄になった。  住民からは支持されていないバスをあえて運営し続ける市役所の思いが私には到底理解できなかった。ワンコインバスの実態調査なども実施しようとしないのも、やれば行政にとって不都合なデータ出てしまうからだろう。    パークアンドライドシステムを担当していた時、会計担当に中野というベテラン職員がいた。訊けば、中野は何回も係長昇格試験を受けているという。  普段の仕事ぶりを見ても段取りが悪く、できる印象はまったくなかった。その年、私は中野と一緒に昇格試験を受けることになっていたのだが、ここでまた、ユニークな事件が発生する。  交通政策課ではパークアンドライドシステムの普及だけでなく毎年、パークアンドライドシステムの拡大調査を実施していた。地元のお抱えコンサルタント会社に丸投げする形で、根拠も何もないお手軽でラフな調査だった。  毎年、協議会から予算が計上されるので、パーク拡大調査をやらざるを得なかった。私は最初から拡大調査に乗り気ではなく、本音では拡大調査よりまず、実態調査をする必要があると考えていたが、キャリアの手柄を立てさせる手前、そんなまともな要望が通るはずもなかった。    一般的に調査を始める手順は、コンサルタントから見積もりが出て、それを検討した上で契約書を交わし調査を始めることになっている。  私は前職が政府系コンサルタント会社のコンサルタントだったので、行政相手の調査の手順は分かり切っていた。その年も6月頃、コンサルタント会社から見積もりが出て上司の許可が降り、契約して7月にも調査が始められる手筈になっていた。  ところが、肝心の契約書がなかなか交わせなかった。  初めは会計上の手続きで遅れているのかと思ったが、とうと7月から始められる調査が10月半ばまで遅れてしまった。三ヶ月経っても契約書一通交わすことができない。  季節は夏を通り越し、すっかり晩秋である。調査を始めることができないので、私はだんだん焦ってきた。ちなみに契約を交わさない場合、コンサルタントが契約もしないうちに見切りで仕事をするようなことは絶対にない。コンサルタント時代、私がそうだったのだからそれは間違いない。業を煮やした私は中野に問い詰めた。 「契約が遅れている理由は何かあるの?」  中野は「あ~」とか「う~ん」とか誤魔化し、毎回気のない返事が返ってくるばかりである。この時、私にある種の考えが浮かんだ。  これは、中野が意図的に私の担当する調査を遅延させようとしているのではないか。キャリアの課長も課長補佐も何も言わないところを見ると、おそらく課包みの嫌がらせなのだろうか。  調べてみると、やはり川口が後ろで糸を引っ張り、調査を遅延させるよう中野にプレッシャーを掛けていた。  私が気付いてないとでも思ったのだろうが、私担当の調査を遅らせることは中野自身にしても大きなメリットがあった。同時に昇格試験を受けるライバルである私を蹴落とすことになるからだ。  中野はその後も、私担当の案件の業者への支払いを遅延させたり、様々な小細工を仕掛けてきた。職務を利用してさり気なく人を陥れる仕草を見て、私はつくづく中野を憐れに感じた。  しかし一方で、こういう人間こそ市役所を代表する人物なのだろうと納得した。気の毒なのは彼ではなく、市役所職員という職業かもしれない。  地方では、時として信じられないようなことが起きる。私が在籍した交通政策課ではパークアンドライドシステムの検討委員会が毎年、開かれた。  渋滞緩和のため、少しでもパークアンドライドシステムを地域住民に普及させようという試みなら意味もあるが、委員会で議論されるのは「東西南北、多方面にパークアンドライドシステム用の駐車場を増やそう」という、最初から結果の出ている、まるで出来レースのような検討委員会だった。  そういう場合、傑作なのは検討委員会のメンバーである。メンバーは県庁、市役所はもちろん、地元国立大学の教授を委員長に据えて、県警、地元バス会社、調査担当のコンサルタント会社などから構成される。  私は構成メンバーを見て、ある不思議なことに気が付いた。  委員会の中心になる人間のほとんどが地元大学工学部の同窓生で顔見知りなのだ。県庁の都市計画課の課長も市役所の担当者もバス会社の課長も発注先のコンサルタントも全員が同じ大学の同窓生である。 「久しぶり、元気だった?」 「この前の同窓会、来なかったけど盛り上がったんだよ」  こんな会話が、委員会が始まる前に聞こえてくる。 「彼は〇〇教授の研究室の何期生だった」とか「彼は昭和〇〇年の卒業生だ」とか、要は大学の先輩、後輩の間柄で委員長は共通の恩師だったりする。  当然、検討委員会の大学教授も教え子のコンサルタントを一歩的に貶すようなことはしない。ついつい手心を加えてしまう。それにしても、「みんな仲間」という意識でする検討委員会に意味はあるのだろうか。  私は担当者としてパークアンドライドシステムが上手く機能していないことを危惧し一度、検討委員会で訴えたことがある。 「今はパークアンドライドシステム用の駐車場をいたずらに増やすより、今年一年掛けてじっくり、パークアンドシステムの実態調査をした方がよいと思います。また、パーク用の駐車場を、利用者にきちんと使ってもらえる条件を整えていくことが先決だと思います」  そもそも利用する者がいなければ、どんなに素晴らしい交通政策を掲げても意味がない。利用者の立場に即したマーケティング志向が必要だった。駐車場の拡大より大切なのは利用者を増やすことである。    ところが、私の提案は委員会で一笑に付されてしまった。  たとえ架空な話でも市民にパークアンドライドシステムが上手くいっていることを印象付けるためには毎年、拡大調査をし続けなければならない。停滞していたらキャリアは在任中に実績を残せない。だから、私の発言は彼にとっては余計なことだった。まさに、郷に入っては郷に従えを地で行く話だった。  何よりもまず、形や実績を欲しがる彼らの姿に、私は公務員の習性を垣間見た気がした。  入庁して二年目、私はまたしても係長昇格試験を受けることになった。前年も手応え十分(というか、私には軽すぎた)が落とされた。どうせ相手はまともに採点などする気などないから受けるだけムダと思ったが、市役所としても私一人だけ昇格試験を受けさせないようなことは対面上できない。  ところが、今回はそれを実際やられちゃったのである。  試験直前になっても、私だけ受験票が来なかったのだ。私は試験のことはあまり、気に掛けていなかったのだが、隣の席の中野が「志摩さん、受験番号何番ですか?」と訪ねてきたのだ。その時、私にだけ受験票が届いていないことに気が付いた。  課長補佐の古谷に「なんか、僕だけ受験票届いてないみたいですよ」と問い掛けると「何だ? お前も一人前に昇格試験受けるのかよ」みたいな感じで、ニヤニヤ薄笑いを浮かべている。  古谷はおもむろに人事課に電話を入れると「なんか、受験票一人だけ届いてみたいだけど」というミエミエの芝居を打っている。  私は下手な猿芝居に思わず、吹き出しそうになった。  どうせ芝居を打つなら、もっと上手に芝居を打ってほしいものである。  同じ課に二人も昇格試験を受ける者がいるのに、一人だけ忘れるわけないだろう。結局、この年の論文試験も手応え十分(とにかく軽い)だったが当然、落とされた。私の場合は、受けさせない、受けさせてもまともに採点しないのだから受けるだけムダなのだ。  そして、翌年はさらに笑える事件が起きた。  私は作戦を変更して、今年は最初から昇格試験を受けないことに決めていた。係長昇格試験申請期間が迫っても、あえて受験申請をしなかったのだ。人事課がどう出てくるか、楽しみだったからである。  案の定、今度は人事課の方が焦ったようだ。今度は昨年と打って変わって、人事課から矢の催促だった。 「昇格試験どうするんだ? 受けないのか?」 「昨年は私だけ、受験票が届かなかったので、私にだけ受験資格がないものと思い、今回から見送りすることにしました」  しかし、市役所としては私を絶対に昇格させないつもりでも、受験させなかったという事実が万が一、市長にでもバレると後々困るとでも思ったのだろう。そこで、嫌がらせはしても形だけ受験させたことにしようと考えたのだろう。  書いている当の本人も情けなくなるが、実際あった話である。  大の大人が集まって小学生並みの嫌がらせをしてくる。私は引っ張りに引っ張って「受けない」と意思表示を変えなかった。  しかし人事課があまりに真剣に困っていたので、課長補佐と人事課の面子を立てて受験してやることにした。結果はもちろん、不合格だった。  年の瀬も迫り、忘年会のシーズンがやってきた。  交通政策課では親睦を兼ねて県警とのゴルフコンペが企画された。仕事では散々な目に遭わせられていたが、この日のゴルフコンペだけは楽しみにしていた。この日のために新たにゴルフシューズを買い替え、練習にも何度か行った。車を持たない私にとって練習に行くこと自体困難なので、当日は思い切りプレーしようと思った。  待ちに待ったコンペの日がやってきた。  組み合わせを確認すると、私のパーティは県警から出向の課長、県警の人、川口と私の四人だった。組み合わせ表で川口と同じと知り、「川口と同じパーティか、嫌だな」と憂鬱な気持ちになった。 実はプライベートで、川口と何度かゴルフをしたことがあった。 ところが、プレー中にいつも茶々を入れてくるのが鬱陶しくて、一緒のラウンドだけは絶対に避けたかった。 しかし、私は思い直した。 (でも、今日は県警とのコンペだ。いくら日頃から卑劣なことばかりしている川口でも、それくらい節度ある行動は取るだろう)  クラブハウスで川口に会った時、念のため「今日は正々堂々とやりましょうね」とクギを刺しておいた。  しかし、私の考えはやはり甘かった。  コンペが始まって早々に妨害が始まったのだ。  パー4の1ホール目、私はボギーで上がった。  皆、最初のホールなのか調子が上がらず、2ホール目は私がオナーでティーグラウンドに上がった。  ドライバーを何度か素振りして、ティーアップに掛かる。  バックスイングに掛かかろうとしたその瞬間、後方から「これ、OBだよ」という声が微かに聞こえた。  声の主はもちろん川口だった。  いつも通り、川口がプレーを妨害するために放った一言だった。 (アーア。やっぱり、今日も同じだよ)  私はスイングの途中で言われた川口の一言で、切り返しのタイミングを崩され、ドライバーを曲げて林の中に打ち込んだ。  それからも散々だった。ショットやパットの度に川口の妨害に遭い、スコアどころではなかった。  コイツの卑劣な性格は直しようがないが、仕事以外の場まで役所のルールを持ち込むのには呆れてモノも言えなかった。私に向けられる悪意の数々は、長年の鬱積した公務員生活への不平不満なのだろう。  私は言うだけムダだと思ったが、川口に「いい加減にしろよ」と諭すと「だから謝っているじゃん」と言って、反省の色さえ見せなかった。  ゴルフは楽しんでするスポーツである。時のユーモアやおふざけも必要だが、それは他人のプレーを妨害するような行為であってはならない。それは明らかにルール違反である。  程度にもよるが、プライベートのラウンドならOB球を誰も見ていないことをいいことにそのまま打ってしまうことや、スコアの過少申告などのミスもよくあることだ。これらは褒められたことではないが、直接他人に迷惑をかける行為ではない。しかし、他人のプレーを妨害することは卑劣な行為そのものだ。    ラウンド途中で完全に集中力が切れた私は、今日は反撃に出ることにした。  川口がティーグランドに立った時、私は静かにその瞬間を待った。川口がティーアップした後、おもむろに素振りを始めた。    ゴルフでは他人がショットやパットをする度、「ナイスショット!」や「ナイスイン!」など言って相手のプレーを称賛するのがマナーである。  しかし、それはあくまでプレーが終わってからの行為である。それをプレーの途中ですれば、相手が動揺してプレーを妨害することになる。  それはルール以前の話で、幼稚園児でも理解できることだ。しかし、それが川口にはできなかった。   一つ大きく呼吸して川口がゆっくり、バックスイングに掛かった。  トップの位置で止まったその瞬間、  後方から私は「ナイスショット!」と言い放った。  意表を突かれた川口が固まったのがよくわかった。  切り返しのタイミングが一瞬早くなった川口の打球は案の定、大きくスライスして右の林に飛び込んでいった。川口の球がOBになったのを見届け、私はほくそ笑んだ。 (これでお相子だからね。オレを恨むなよ)  川口が落胆して、打ち直すのを見てから私は歩き出した。 (でも、たまにはこういうのもいいでしょ。毎回毎回、コイツにはやられっ放しなんだから)                 第5章    市役所職員にとって最大の関心事は自分の出世である。  一般的に公務員には使命がある。国家公務員なら国益、あるいは省益、県の役人なら県益、市役所なら市の利益を考えて仕事をしていると思われている。    ところが、市役所の仕事の対象は残念ながら、スケールが小さすぎる。  私は政府系コンサルタント会社にいた頃、ショッピングセンターの企画、開発など国家プロジェクトに何件か携わってきたが、市役所に入った時、あまりの仕事のレベルの低さに失望した憶えがある。市役所の仕事とは市民の利益を考えるよりもパフォーマンス重視の仕事と理解できた。哀しいかな、それが小役人の世界の現実だった。自分が認められるため、小手先だけのその場限りの仕事になってしまう。  市役所に限らず役人には稟議制度というものがある。  どんな案件でもその都度起案を書いて、いちいち上にお伺いを立てなければならない。独断や即決は公務員にはけっして許されない。市役所に限らないが、どんな会議でも報告書の提出が義務付けられている。だから事務処理ばかりで仕事の効率やスピードは一向に上がらない。  私が実際にやられた嫌がらせを一つ紹介しよう。起案を書いて上にあげても、稟議書が見られなければ承認されるまで一週間以上も掛かってしまう。  私は重要な案件だけにイライラしていたが、キャリアはそれすら楽しんでいるようだった。あえて意地悪をしているのか、半径五メートル以内の五分で済むものが一週間以上立っても決済されなかった。稟議一本通すのにこんなに時間が掛かるのならこの際、決済には新幹線や飛行機でも使った方がいいかもしれない。  毎日、こんな環境で仕事をしているから市役所の大部分の職員は創造的な仕事に関心がない。前例を覆すようなことができる人間は一人もいない。仮に何か新しいことを始めようとしても、役所の古いタイプの人間たちによって潰されるのがオチである。  多くの職員は「前例のないことをして失敗するより、何もやらない方が無難」と割り切って仕事をしている。彼らの日常は毎日、ルーチンワークの繰り返しである。生産性のない仕事を、いかにも一生懸命仕事をやっているようなパフォーマンスをしながら、上役に気に入られるようにホウレンソウ「報告、連絡、相談」を繰り返していた。トップダウンや即決は役所ではありえない。     ちなみに、役所では一発逆転はありえない。  当然、敗者復活戦もない。評価は減点主義のみであって加点主義はない。だから絶対に安全で、万が一上手くいかなくても最終的に自分が責任を取らなくていい範囲内だけの仕事をする。これが彼らの流儀である。言葉を変えればお膳立てが整っていない仕事はしない、できないのが彼らである。  いかにノーミスで、あるいはミスをできる限り少なくして係長になれるか、課長に辿り着くかが職員の勝敗の分かれ目となる。だから、私のようなよそ者の人間以外でも、職員同士の陰湿な足の引っ張り合いも結構あった。  当たり前の話だが、安定した公務員を辞めるような人間は普通いない。  公務員は景気に左右されない。彼らの身分は定年まで保証されている。  飲酒運転で人身事故を起こす、未成年への援助交際や強制わいせつなどで逮捕でもされない限り、公務員を辞めさせられことはない。ちなみに酒気帯び運転で逮捕されたぐらいでは公務員はクビにならない。懲戒、減給、停職くらいの穏便な処分で済ましてくれる。民間企業のような懲戒解雇やリストラとは無縁なのが公務員である。  女性も定年まで勤め上げる人が多い。結婚後、出産しても容易に元の職場に戻れるのが公務員のメリットである。民間企業なら寿退社が一般的なことを考えると、やはり公務員は恵まれていると考えるのが妥当である。  公務員になった時点で一生は保証されているのだ。  定年まで波風立てず、大人しく勤め上げれば六十歳で定年になった時点で、役所から天下り先も紹介してくれる。六十五歳からは悠々自適な年金生活が待っている。こんなシナリオを描けば誰しも冒険する気にはなれないだろう。だから、民間企業から安定を求めて公務員になるものは多いが、その逆は皆無である。  しかし、残念なことに市役所には規格サイズの人間しかいないことである。上に意見を言える人間がいない。全員が上役の顔色ばかり窺っている。私が観察した限り、市役所職員には独得なオーラがあった。「貧乏オーラ」と言ってもよいかもしれない。景気が良くなっても不景気オーラをまき散らしているのが市役所や県庁の職員である。しかし、それは彼らの高等戦術かもしれない。 彼らが民間企業のように派手なパフォーマンスをしていたら、仕事の割によい待遇を受けている手前、市民や県民に申し開きが立たない。だから、いつも地味に貧乏臭く、振舞っているのだ。  そもそも公務員に営業という概念はない。営業して自ら販路を開拓したり、クライアントを獲得しなくても食い扶持は保証されている。予算を使うことには熱心だが、初めから利益の概念は持っていない。上層部から押さえつけられれば自由な発想も持てない。自己満足だけで、仕事に遣り甲斐を感じている人は見たことがない。公務員が心底、人生を楽しめるようになるのは定年後だということも私はわかる気がした。  百万石市を表す言葉に「市役所一家」という言葉があるそうだ。この言葉は実際入庁式の時、訓示で市長が述べていたことである。 「当市には市役所一家という言葉があります。市役所職員は皆、同じ屋根の下に住む同じ家族のようなものです。喜びは分かち合い、辛い時は互いに力を出し合い、喜びや苦しみを皆で共有することができます。これが当市の一番良いところです」  私はその言葉を聞いた瞬間、何か妙に嘘っぽいものを感じたが、新入職員たちは市長のこの言葉に洗脳された人間も多いはずだ。  結論から言うと「市役所一家」という言葉は、私のような部外者には完全に当て嵌まらない言葉だった。「市役所一家」はむしろ、よそ者や部外者を徹底的に排除するときに力を発揮する言葉だった。  私にとっての「市役所一家」は「よそ者や部外者は当市では受け入れるつもりがない」という意味に解釈できた。  入庁して数ヶ月立った頃、市長と新人職員が懇談するという会が開催された。表向きは市長と新人職員が車座になって、ざっくばらんに語り合おうという、いかにも行政の好きそうなパフォーマンスである。歳は喰っていても新人職員には変わらない私も懇談会に呼ばれることになった。  私はその際、冗談で「訓示で述べられていた市役所一家って、どういう意味ですか?」と市長に直接尋ねてみようと思っていた。市長の言う「市役所一家」という言葉の真意は果たして何なのか直接、市長から聞きたかったのだ。    しかし、この願いは無残にも打ち砕かれてしまった。  市長と懇談する会に人事課長の福沢が同席していたからである。  市長に直接、訊きたいと思っていることも、福沢の巧みな誘導で思うように質問することができない。市役所について不利益なことを言われないよう、福沢が市長の隣でしっかり目を光らせている。  そもそも懇談会の主旨は「市長と新人職員がざっくばらんに話し合うこと」だったはずである。  それを人事課長が隣で監視しているのではシャレにならない。閉鎖的かつ開かれた市役所ではないことを如実に表している。懇談会を紛糾させないで、丸く収めようという魂胆がミエミエだった。  私はその後、この人事課長からも散々陰険な仕打ちを受けるのだが、地方の市役所は非常に風通しの悪いところだと理解した。  要約すれば「市役所一家」とは、「自分たちの縄張りや権益は自分たちの手でしっかり守ろう。そのための手段は選ばない。外部からは蟻一匹入れてはならない。そのために皆一丸となって戦おう」  市の標榜する「市役所一家」は所詮、この程度の認識である。  市長、幹部職員、一般職員、新入職員どころか、アルバイトの臨時職員、コンサルタント、大学教授、業者までこんなおかしな共通認識があるということは、裏を返せばいつまでたっても大きな変革は望めないということだ。  一般的に地方公務員というと、市民のよき理解者、弱者の味方といったよいイメージがある。   これは、普通の市民が概ね抱いている市役所の一般的なイメージである。しかし、これは間違いである。結論から言うと、職員の大部分は安定を求めて仕事として公務員を選んだ人間である。  そのため職員は市民の方を向いて仕事をしていない。ならば、市役所の職員はどこを向いて仕事をしているのか。答えは上を向いて仕事をしている。平職員は係長を、係長は課長を、課長は部長を、部長はさらにその上をといった具合である。役所人事はすべてポイント制。しかも前述したように完全なる減点主義で、仕事上のミスは許されないうえ出世にも大きく響く。  だから、市役所内は当然のようにパフォーマンス、オベンチャラ、チクリなどが横行する。彼らにとって最大の関心事は市民のためになることをするのではなく、いかに自分が上の人間に評価されるか、重用されるかである。なかには志の高い人間もいるのだろうが、私が出会った職員にはそんな奇特な人はいなかった。  市役所の職員といっても、出世を目指すという意味では民間企業と何ら変わらない。「上に良く思われる」ことが最大の出世の条件なら、それも当然である。しかも、それが民間企業のように仕事への評価ではなく、パフォーマンスの良しあしで決まってしまうのだから、公務員の世界は一層陰湿になる。  市役所などの場合、「仕事をいかにもきちんとやっています」というパフォーマンスが何よりも大切になる。いたずらに成果を上げるより、前例を踏襲して在任中、大過なく業務を勤め上げた者が自ずと評価される仕組みになっている。その際、もちろん根回しも必要だが、これではそもそもヤル気のある人間には耐えられない。  驚くべきことに、市役所では係長昇格試験なども与えられたテーマを自分で試行錯誤するのでなくその都度、上司に意見を求めるのが慣例となっている。これでは、本当の意味で公正な試験ではない。すべてにおいて、上役の顔色を窺うことが出世の常道かつ早道である。日頃のオベンチャラ精神が効果を発揮するのはこんな時である。可愛い部下は上が自然と引き上げてくれる。  それだけでなく、市役所内では陰険なチクリも結構ある。  私の場合、入庁前から吹き込まれた根も葉もない噂に尾ひれが付いて、全員に干されたのだが、気に入らない人間をそれとなく陥れたりすることも多い。 庁内で目立ちすぎている人間は足を引っ張られやすいし、出世が遅れている人間はスケープゴートの対象にされやすい。力関係を推し量ることにかけては彼らはプロ中のプロである。利用できると思った人間にはトコトン尽くすが、利用価値がない、強く出てもよいと判断した場合は途端に手のひらを返し、横柄になるのが不思議だった。  市役所職員の出世は遅い。  市役所の場合、五十歳前後でやっと課長のポストに就くことができる。ポスト不足は市役所でも深刻な問題になっている。  私の在籍時は団塊の世代がまだ現役だったため、役所はポスト不足解消のため管理職のポストを増設した。課長の下に課長補佐がいるのは常識だが、市役所では課長の下に担当課長という訳の分からないポストがあった。さらに、その担当課長の下に担当課長補佐というさらに訳の分からないポストがある。 市役所では民間企業のような能力主義ではなく、いまだ年功序列制度が根強く残っている。  団塊世代以降の者は、入庁後三十年程度立つと正課長になることができる。五十歳にして、やっと一国一城の主になれる。だから、市役所職員の本当の楽しみは概ね五十歳から始まる。市役所職員は非常に気が長い人間の集団と思う。課長になるためとはいえ、三十年間もじっと待ち続けることなど私なら絶対にできない。都市計画課のように課員二十名近くを抱える大所帯の課もあるが、少ない課の場合は十名程度である。  それでも、市役所で課長まで出世できれば一応成功である。課長まで上り詰めて定年まで大過なく勤め上げれば、定年後の心配はない。役所から天下り先を紹介してくれる。だから、課長まで昇進できると市役所職員はホッとするという。  市役所職員なら誰しも課長を目指して日夜、頑張っている。彼らの合言葉は「とりあえずビール」ならぬ「とりあえず課長」である。これが男性職員、共通のスローガンである。  また、稀に庁内の有力部署の課長を務めた場合、次長、部長というコースも用意されているが、大部分の職員は課長止まりである。日頃のオベンチャラ精神に加え、信用できるコネやしっかり根回しをして、運も味方すれば定年間際に末席の部長ポストが回ってくる可能性もあるが、こんなことはレアケースである。  いずれにせよ、五十歳前後でやっと課長である。この時点で人生の約四分の三は終わっている。課長になった時は疲れ切っているので、もはや創造的なことや新しいことをする気力は残っていない。これが市役所で働く職員の実態である。固い頭で考えた政策は斬新さがなく、平凡でつまらないものばかり。  私が見た限り、市の職員は皆従順だった。  出世に響くので言いたいこともいわず、上の人間の顔色ばかり窺うことに神経を使っている。彼らが安定を求めるばかり守りに入る気持ちも分からなくはないが、一抹の寂しさを感じた。  ただ、こんな市役所にもエリート養成部署というのはあるようだ。  一般企業でも、人事や経理(カネの動き)などを扱う部署は中枢セクションといわれる。さすがに市役所にモノを扱う部署はないから人事課や財政課がそれに当たる。また、市長や助役(副市長)のスケジュールを調整する秘書課などもエリート養成部署と言われている。  これらの課は市役所の普通の課と異なり、一般市民には開かれていない。幕府でいう「大奥」のような感じである。一言で言えば、人事課、財政課、秘書課は他の部署のように大部屋ではなく、仕事がしやすい環境が整っている。  秘書課には政界、財界の大物やマスコミなどが年がら年中やってくる。大河ドラマが放映されることが決まれば、主演の俳優が市長を表敬訪問する場合もある。市民課が一般市民に開かれたセクションなら、秘書課はVIP待遇の人たち向けの窓口である。また、各部署を総括する役割の総務課や企画調整課、国際交流課などもエリート養成部署と言われる。  二十代の頃、こういう部署に配属されると将来、エリートコースに乗れる可能性が高い。しかし、大部分の職員は一階のフロアーで、海千山千の市民相手に泥臭い窓口業務に従事する。市民課、市民税課、固定資産税課、住民課などはどこの市役所でも皆、一階にあるはずだ。  若い頃、これらの課を経験するのはよいことだが、四十歳過ぎでこれらの課に配属されると将来は見えてしまう。  理由は、誰がやっても同じ仕事だからだ。定年まで窓口で同じ業務に従事するのが通例となっている。戸籍謄本、住民票の申請業務に深い専門知識は不要である。大切なのは、役所内の人の動きやカネの動きをしっかり把握することである。早い人では二十代の頃から人事や財政、市長の世話をする秘書課などに配属され、一般の職員が経験できないような仕事に携わることができる。しかし、こういう経験が自身の将来を左右してしまう。    典型的なエリートコースを紹介しよう。  入庁後、市民課などに配属されて数年は窓口業務をこなしながら組合活動も熱心に行う。その後、人事に顔が利く組合の幹部に気に入られて人事課や財政課に引っ張ってもらい、人事や予算に関する経験を一通り積む。三十代になって商業振興や工業振興に携わったり、企画関係の部署で役所全体のマスタープランなどに取り組み、マネジメント能力を身に付ける。その間、中央官庁や県などに出向できればさらに良い。  こんなことを繰り返しながら、四十代半ばで人事課や財政課の管理職の端くれに付ければチャンスがある。  話は変わるが、県知事の前職は中央官庁の官僚が圧倒的に多い。それ以外は県庁所在地の市長出身、元ニュースキャスター、タレントくらいである。生え抜きで知事まで這い上がるのはまずムリな話である。ただ、生え抜きならほぼ間違いなく若い頃、人事課や財政課を経験している。人事課や財政課というセクションはそれほど重要だということである。                 第6章  一般的に地方には大企業が少ないので、県庁や市役所は安定した就職先として依然人気がある。県庁や市役所にも一握りのエリートいわれる者がいる。それでは、いったいどういう者たちがエリートといわれるのだろうか。  一例をあげると、市長の秘書をしていた者、中央官庁や他の機関に出向していた者、市の経費で国家資格を取得した者、一番多いのは地元の国立大学を卒業した者などである。こういう人たちは、一般の市役所職員と異なり、将来の幹部候補と目されている。    実際、彼らのエリート意識はものすごいものだった。 「市長の秘書をしていた」 「経産省に出向していた」 「県庁に出向していた」 「中小企業大学校に派遣されて国家資格を取得した」 「松下政経塾に派遣された」 「博士号を持っている」  また、「オレは北陸の東大卒だ」なんて、訳の分からないことを言い出すような奴もいる。あげれば枚挙にいとまがないほどだ。    もっとも、十年も役所にいれば誰でも一つくらいは自慢できるようなことはある。何も誇れるものがない人間など「オレは市長からタカシなんて、綽名で呼ばれてるんだぜ」とか「お前の住んでいるところは〇〇(地名)だったな」とか、市長との距離の近さを必死にアピールしてくるようなイタイ奴もいた。  要は、市役所のような閉鎖された世界でも、自分が特別な存在であることを周りから認められたがっているのだ。「オレは市役所勤めだけど、そこら辺のフツーの窓口係とはちょっと違うんだよ」という感じ。  しかし、もっとも憂えるべきことは小学校や中学校の同級生が大卒後、市役所に就職してから二十年くらい立って同じ課に配属されてしまうケースである。こういう場合、傍で見ていても火花が散っているのがよくわかる。  私が最初に配属された商業振興課では不幸なことに、このレアケースに該当してしまった。中学時代の同級生だった二人が運悪く、同じ課に配属されたのである。その際の二人の仲の悪さは私から見ていても怖いくらいだった。旧知の仲なはずなのに、仕事中も互いに一言も交わさないのである。  訊けば、二人とも地元国立大学を卒業したエリート職員である。互いのライバル意識は相当なものだった。こんなことは都会では滅多にないとは思うが、地方などは同じ小学校、中学校、高校を出て同じ役場に勤めるなんてことが珍しくない。しかし幼馴染が三十年後のライバルなんてことがあるから、つくづく地方公務員という職業は辛いものである。  こんな閉鎖的な地方の市役所で、よそ者は共通の敵、標的の対象とされる。  ここでいうよそ者とは、中途で採用された私のような人間を指す。中途採用といっても元々、市の人間ならば敵対視される確率はそれほど高くない(彼らも郷土意識への欠片くらいはある)が、それが完全な部外者だと「敵」という認識は一層強まる。  普段は足の引っ張り合いをしている連中も、己の利害と権益のためにこの時ばかりはガッチリとスクラムを組む。プロパー職員にとって、よそ者は自分たちのテリトリーを脅かす怖い存在である。  そういう人間は全員で潰しにかかる。 「仕事を与えない」 「手柄を隠す」などは序の口である。  それとなく根拠のない誹謗、中傷を流して全員で潰しにかかる。  私とともに民間企業から中途採用で入ったMさんは、以前は大手電機メーカーのシステムエンジニアだった。地元国立大学出身で優秀なMさんは情報処理の難関国家資格も持っていたが、彼が配属された部署はなんと卸売市場だった。  素人がいても明らかにMさんのキャリアを生かせる職場ではなかった。Mさんとは何度か飲みに行ったが仕事はつまらなそうだった。職務経験者といっても、最初からチャンスを与えられなければ実力を発揮しようがない。  表向きは、「民間企業の豊富な経験を役所の業務に生かしてほしい」とか言っていても、裏では外部から来た中途採用者を絶対に表舞台に出さないよう足を引っ張っている。私のような中途採用者は普段から鬱積が溜まっている職員の格好の憂さ晴らしの対象でもあった。  そもそも最初から担当を外されたのでは、仕事をしたくても実績を作りたくても何もできない。  市役所生活三年目、私は思い切って当時の課長(キャリアではなく、生え抜き)に進言したことがある。すると意外な一言が返ってきた。 「君には積極性が感じられない」 (仕事から外されたら積極性なんて出しようがねえよ)と言いたかったが、殻らにそんなまともなロジックなど通用しないようだった。二十一世紀に入っても依然、村社会が続く地方公務員の世界である。  信じられないかもしれないが、これらは実際にあったことや経験したことである。この他にも、私が担当する案件を取り上げてわざわざ新入職員に出張させてみたり、仕事を妨害して契約や業者への支払いを遅延させたり、様々な嫌がらせを受けた。  特徴的なのは、これらはすべて水面下で行われることだった。  人目に付かぬよう上にはわからぬよう、こっそりさり気なくやるのが彼らの流儀だった。係長昇格試験の受験票が届かなった時も、「きちんと受験する意思を伝えなければダメ」と理由にすらならない理由で跳ねのけられた。他に異議を唱えても結局、有耶無耶にされた。  ただ、こんな四面楚歌の状況でも私を温かく見守ってくれる人もいた。Iさんはそんな数少ない職員の一人だった。ミエミエの嫌がらせに気付いていたIさんはことあるごとに「志摩さんは川口に出し抜かれた」と言っていたという。    人間、極端にマイナスのイメージや良くない先入観を植え付けられると取り返しがつかない。私の場合、入庁前に吹き込まれた根も葉もない噂話に尾ひれがついて、市役所内に広がっていた。そのため、保身が身上の職員は私にあえて好戦的な態度を取り、挑発を仕掛けてきた。ただ、たった一人の人間から発せられた誤った情報で一人の人間が葬られてしまうのだから、つくづく先入観とは恐ろしいものである。  しかし、人間どんな環境でも慣れれば耐性が付くのも事実である。何度も苦渋を味わせられているうち、だんだん嫌がらせのパターンが読めてきた。いつしか、今度はどんな嫌がらせが来るのか楽しみになってきた。  免疫ができて図太くなり、嫌がらせの度「今回は八十点くらいだな」「どうせやるならもっと上手くやれよ」とかその都度、彼らを評価するようになっていた。傍観者の視点を持てば市役所生活も結構、楽しめるものだ。 「ギンギラギンにさりげなく」を地で行く感じだったので、私はこういうことが起きるたび「ギンギラギンにさりげなく~♪ そいつがオレのやり方~♪」と口ずさんでいた。  毎日のように私がマッチを真似て「ギンギラギンにさりげなく~♪ そいつがオレのやり方~♪」を歌っていたので、永田からは勤務中の態度が悪いとさらに目を付けられた。  またまたセコい話だが、市役所にいると講演会のサクラに駆り出されることがよくある。交通政策課にいる時、普段から滅多に話したことがない課の茶髪女が突然、私に声を掛けてきた。 「志摩さん、今週の日曜日空いています?」 「えっ? いつも暇ですけど」 「それじゃ、頼みたいことがあるんですけど~」  茶髪は柄にもなく、語尾を上げるように媚びて話す。 「何でしょうか? 僕にできることなら何でもしますけど」     茶髪はたまに、人を小バカにするようなことも言ったりする。ゾウの脳ミソ程度の頭しか持たないのに性格のいい女だった。 「今度の日曜日、講演会があるんですよ~。それで志摩さんに是非、出席してもらいたいんですが~」 「お安い御用です。それで、どこに行ったらいいんですか?」    要約すると日曜日に教育長の講演会があるが、思うように人が集まらなくて困っている。だから、私にサクラで出席してほしいということらしい。断る理由もないし、私は内心、「ちょうどいいアルバイト」くらいな感覚で快諾した。ちなみに、役所にいると勤務時間中に講演会やセミナーの出席はよく頼まれる。しかし、それはあくまで勤務時間中の話である。    気だるい日曜日の昼下がり、車を持たない私はマウンテンバイクに跨り、わざわざ郊外にある講演会場まで出かけた。  講演会は超つまらなかった。  そもそも、自分の意志で聴きにきた訳ではない。  よっぽど署名だけしてフケってしまおうかと思ったが、市役所の誰が見ているとも限らない。最後まで神妙にメモを取るふりをして苦痛だった講演は終了した。    せっかくの休日が台無しだった。そして、問題は翌日に起きた。 「講演会、行ってきましたよ」 「ありがとうございました。助かりました」 「昨日の講演会、もちろん休日手当付くんですようね?」 すると茶髪がこう宣ったのだ。 「あれはボランティアでお願いしているんですよ~。だから手当は付かないんですよ~」 (えっ~。また、ボランティアかよ)    茶髪はしたり顔で話した。  こっちは休日返上で嫌々参加してるんだから、休日手当くらい要求するのは当然の権利だろうが。初めからボランティアと言ってくれれば出席なんかしなかったのに。またしても、茶髪女に一杯食わされてしまった。  役所で出世するためには日頃から偉くなりそうな人間に取り入ったり、組合活動を熱心にするなど様々な処世術があるが、そもそも職員は入庁時から見えないランク付けをされている。  哀しいことだが事実で、これが途中から変わるようなことはけっしてない。 Sランク・・・地元進学校から地元国立大学卒(別名、北陸の東大) Aランク・・・地元進学校から難関国立大学卒、早慶上智など難関私立大学卒 Bランク・・・進学校以外、あるいは私立高校から地元国立大学卒 Cランク・・・関関同立などの近畿地方あたりの有名私立大学卒 Dランク・・・進学校以外から東海地方あたりの無名私立大学卒 Eランク・・・無名校から地元の私立大学卒卒、もしくは工業高校卒等  では、これを具体的に説明しよう。  この中で、もっとも出世が約束されているのはいわずもがなSランクの人たちである。彼らは元々優秀。ナンバースクールといわれる地元進学校から地元国立大学を卒業した。一言で言えば、県庁にも市役所にも高校や大学のOBがたくさんいる。高校時代や大学時代の可愛い後輩が役所に入ってくれば、自然と上に引き上げてもらえる。  次に良いポジションを取るのはAランクの人たちである。彼らは優秀だが、地元の国立大学出身ではないだけに出世では多少のハンデがあるといわれる。 ちなみに商業振興課時代の藤田や岩本はAランク。   Bランクの人たちは地元国立大学卒だが、高校時代の先輩が少ない分、出世ではかなりソンをすることがある。  百万石市は関西圏だけに関西の大学出身の人も多数いた。彼らは可もなく不可のなくといった、Cランクの人たちだった。関関同立などは近畿地方の名門大学だが所詮、役所では主流にはなれなそうな雰囲気があった。ちなみに坪山はCランク。    近畿圏だけでなく、名古屋など東海地方の無名私立大学出身も結構いた。Dランクの彼らは常に本流から外れたポジションにいて、頼りになる先輩もいず役所内で苦労を強いられている気がした。ちなみに川口はDランク。    最悪なのはEランクである。  無名校から地元の私立大学を卒業して役所に入るケースである。百万石市はアカデミックなイメージがあり、市の規模の割には大学も国立大学以外複数あった。しかし、偏差値の低い無名大学から市役所に入ると後々、かなり辛い現実が待っている。永田はもちろんEランク。  たとえば、同じ地元国立大学の出身者でもAさん(地元進学校卒)とBさん(私立高校卒)では明確な差がある。Bさんがいくら能力的に優秀でも役所上層部に多数先輩がいる分、根回しの点ではAさんには叶わない。  役所では正攻法で自分の能力だけでは戦えるとは限らない。そういう場合、あえて汚い手を使う連中もいる。それは一般的に寝技と言われる。    ここで寝技について説明しよう。自分ではどうすることもできない場合、人間最後は寝技に持ち込む場合が多い。ビジネス用語として使われる「寝技」には、「交渉」や「裏工作」といった意味がある。正面から戦っても勝ち目がないと判断した場合に、戦略を立てて事前に仕掛けることを表す言葉である。接待、泣き落とし、ミエミエの甘え作戦、相手の弱みに付け込むなどやり方は多岐にわたる。  DランクやEランクにいる職員にはこのタイプの奴が多数いた。たしかに学歴、能力、人脈いずれ持たなければ手段を選ばないのも否めないだろう。  役所だけに限らないと思うが、美人は中枢部署に集中する。  時の権力者が何人も側室を抱えたように、それは役所でも例外でない。たとえば、人事課や秘書課には美人が多い。  採用の際も、その年の一番は役得で人事課が取ってしまう。あるいは市長の身の回りの世話を吸う秘書課などに配属される。もっとも、秘書課は市長への直接の窓口だから、入庁後すぐに配属されることはないのだがルックスの良い女性が配属される可能性は極めて高い。  女性に対しても人事課の権限は強いので、人事課に知り合いがいたりすると「おいおい。来年はもっとマシな女を回せよ」なんてことが平気に言える。人事課と仲良くしておいてトクすることはあってもソンすることは絶対にない。むしろ、各課とも人事課に嫌われないように必死だ。  人事課に嫌われれば、新年度にルックスの悪い女性があてがわれる可能性は非常に高いからだ。 実際、市役所における美人度ランクにも明確な位置づけがある。 Aランク・・・秘書課、人事課、議会事務局など役所の顔と言われる部署 Bランク・・・観光課、伝統工芸課、文化政策課など頻繁に取材がある部署 Cランク・・・一階のフロアーなど一般市民に開かれた部署 Dランク・・・庁内の比較的目立たない各部署 Eランク・・・郊外にある出先機関等 Fランク・・・一般市民にはあまり開かれていない部署  職員の配属先を見てみると、やはりルックスの良い女性は人事課、秘書課、議会事務局やマスコミの取材がある特定の部署に優先的に配属されている。  実際、人事異動、昇進・昇格などは全然平等なんかじゃないのだ。美人は早い者勝ちで人事課が確保してしまう。昇進・昇格だけでなく、配属も人事課の思惑通りに決まる。偏差値六十五くらいの美人は入庁後まず、人事課に配属され、数年後、秘書や議会事務局に配属される。  一方、平凡な容姿の女性がかなり高い確率で一般の部署に配属される。さらに悪いと最初から出先機関や市の出張所だったりする。ちなみに、このルールはアルバイトなどの臨時職員にも適用される。  いくら職業に貴賤はないと言っても、いきなり卸売市場やごみ収集所に配属されたら、やっぱりテンションが下がるだろう。    私が市役所にいた頃、近所に秘書課に勤務する女性が住んでいた。彼女は美人と評判で近所に住んでいたので通勤時に会うのが私の唯一の楽しみだった。実は私は一度だけ、コクったことがある。  ところが、あえなく振られてしまった。  私はその時、思った。 (アーア。当たり前だよな。そう言えばオレは元々、Eランク以下の人間以下の扱いだった。私の場合、家畜も同然の扱いだった)  市役所に入ると、市の仕事を遍く知るために一通り何でも経験させられる。   39歳で入庁した私も例外でなく、他の新入職員とともに研修に参加させられた。その日はゴミ収集研修といって研修の中でもとりわけキツイと評判の、誰もが嫌っているものだった。  簡単に言うと丸一日、市の現業職員とともに市のゴミ収集車に分乗してゴミ集を体験しようというものである。役所の好きそうなパフォーマンスでもある。市役所前に集合して、マイクロバスでゴミ収集センターに移動した。一通り連絡事項、確認事項を終えると、ゴミ収集センターの職員の人たちに「今日は一日、よろしくお願いいたします」と挨拶をした。  普段、ネタがなくて困っている地元テレビ局も「百万石市の新人研修」と称して、朝から取材に来ていた。  いよいよ、ゴミ集収集研修の始まりである。午前中は生ゴミ、燃えるゴミの収集作業である。  ゴミ収集ポイントの数は思ったより多く、ドライバー以外の職員はほとんど走り通しとなる。傍で見ているとラクそうな仕事に見えるが、実際はハードな仕事である。おまけにゴミ収集車の車高がかなり高いので座るのに一苦労する。元々腰痛持ちの私にはキツイ業務だった。午前中の仕事を終えてセンターに戻ると早くも疲労感はピークに達した。毎日、清掃業務に従事している方には頭の下がる思いだった。  昼休みを取り、午後の業務に向かう。午後は不燃物の収集だった。汚さで言えば生ゴミに勝るものはないが、不燃物の収集にはキケンが伴う。陶磁器やガラス、スチール製の椅子など様々なモノがゴミとして捨てられている。私もガスコンロを無造作に持ち上げた時、うっかり手を挟んでケガをしてしまった。  軟な奴と思われるだろうが、私にはゴミ収集研修が思いのほか辛くその後、体調を崩してしまった。  他にも美大に行って絵を描く研修などもあった。役所の仕事とどういう関りがあるのかわからないが、果実など静物画を描くのである。これらの研修はすべて職員の義務である。サボったり、パスしたりすることは許されない。そして、どのような研修でも終了後に感想文を書かされる。 「たいへん、有意義な研修でした。役所の仕事の一環が体験できて、とても勉強になりました」みたいな感じで。  日本では国勢調査が五年に一回、実施される。  市役所の平職員は国勢調査も担当しなければならない。私が在職中にも国勢調査が実施された。調査担当エリアは概ね、自分が住むエリアないし隣接するエリアである。私の住むエリアは治安の悪い、市内でも極めつけのエリアだった。  半径一キロ以内に暴力団の事務所もあれば、夜になると売春婦の立つスポットもあった。実際、私は買ったばかりのマウンテンバイクを盗まれてしまった。日常生活に普通に売春婦、ヤクザ、自転車泥棒がいる。私は選りによって、そんなエリアを担当することになった。  以下は、その時の体験談である。  近所に築五十年は過ぎているボロアパートがあった。そこの住民は、ほぼ全員が近くの繁華街で働く水商売関係者のようだった。仕事を終えた夜間、調査票の回収に行くと案の定、誰もいない。何度通っても不在なので、私はあまり気が進まなかったが出勤前に回収に行くことにした。思い切って呼び鈴を押すが人の気配がしない。しかし、私は調査票を回収しなければならないため、ベルを押し続けた。  数分後、荒々しくドアが開かれると五十歳くらいか、茶髪のド派手な女が髪を振り乱しながら不機嫌丸出しで出てきた。 「今、寝たばっかりなのに何なの~?」 「お休みのところ、たいへん失礼しました。国勢調査の回収に参りました」  元々、彼らは国勢調査などには興味や関心が一切ない。そもそも頼む方がムリな話なのだ。    別件で他のアパート(こちらは一応鉄筋コンクリート)を訪ねた時、ある部屋の前に立つと何やら悪臭がする。猫の死骸でも数体転がっていそうな雰囲気である。それでも、私は思いきってブザーを押した。  するとブザーの音に反応したのか、部屋の中で「ワン、ワン」という鳴き声が聞こえる。どうやら室内で犬を飼っているようだ。異臭の原因は犬の臭いのようだ。結局、そこに延べ十回以上も通ったが遂に一度も人は出て来なかった。しかし、中にいる犬はどうやって生活しているのだろう。餌や排泄の世話はどうしているのだろうか。他人事ながら心配になった。  畜犬を職業としている世帯にも行った。  勘違いしてほしくないのだが、畜犬とは食肉用の犬という意味ではなくブリーダーやブローカーを指す。ここに行った時はいきなり、ドーベルマンが出てきて嚙み殺されそうになった。まさに命懸けの国勢調査だった。  こういう調査をして感じたことは、世の中には国勢調査などに無関心や非協力的な人がいかに多いかという事実である。私の担当したエリアだけが特別と思いたいが実際、世論調査などにも関心がある人は意外に少ない。しかし、あれでは正確なデータは取れないだろうなと思う。  地方公務員、とりわけ市役所というところは基本的にボランティアが好きだ。ボランティアの中でもとくに大好きなことがゴミ拾いである。私のいた市役所では毎年一回、「海のクリーン作戦」と「河のクリーン作戦」というものがあった。作戦というのがいかにも笑える。これは市民の有志たちで、海辺や川辺でゴミ拾いをして街をきれいにしようという取り組みである。  その日は市を挙げての「海のクリーン作戦」の日だった。  私も朝五時に起きて愛車のマウンテンバイクに跨り、担当エリアの河口に向けて出発した。早朝のサイクリングは気分爽快だった。 (少なくともその後、ゴミ拾いがなければの話だけど)  現場に着くと、感心なことに多くの人はすでにゴミ拾いを始めていた。こういう、いかにもやってます的なパフォーマンスが将来、出世に響くので一切手抜きはできない。私は駐車場に自転車を停めると担当エリアに進んだ。 「おはようございます」  課長はすでに来て熱心にゴミ拾いをしている。市役所三年目の課長はノンキャリだが小心で真面目な人だった。 (課長も朝早くからたいへんだな。おそらく、本音ではゴミ拾いなんかしたくないって思っているんだろうな)  しかし、そんなことを言い出す奴など一人もいない。  皆黙々とゴミ拾いを続けている。たしかに、ゴミ拾いの志は正しいし間違っていない。しかし、私にはこれが結構辛かった。腰痛の持病があるので長く腰を屈めてゴミ拾いをしていると痛くて立てなくなる。時間は朝の7時から10時まで休みなしで行われる。  ゴミ拾いには市役所の職員は率先して駆り出されることになるのだが、よほどの事情がない限り不参加は認められない。役所のボランティアに「行きたくない、やりたくない」は通用しない。市役所職員はパブリックサーバント(公僕)だから当然だろう。  しかし、困ったのはせっかくの休日がボランティアのため潰れてしまう。私は土日を利用してよく旅行をしていたのだが、ボランティアがあると計画が潰れることがよくあった。たとえ半日でも、午後は寝不足で使えないこともあった。  役所のボランティア活動は真の意味でボランティアではない。ボランティアの強制に過ぎない。一般市民でもクリーン作戦に自発的に参加する殊勝な人もいる。しかし、これはあくまで自主的に参加してくれた人たちである。しかし、ボランティアは強制された瞬間からボランティアではなくなってしまう。  ボランティアとはちょっと違うが、防災訓練なんていうのもあった。 「今朝、〇時〇分、地震が発生しました。速やかに□□に避難してください」みたいな文言を一語一句間違えずに、課内の人に電話で伝言するのだ。 たしかに大切なことだ。しかし、わざわざこんな電話を掛けてこられて、朝っぱらからたたき起こされるのである。はっきり言って迷惑な話だ。  伝言ゲームみたいに、最後の人に伝わるときは「武蔵丸がケガで休場して、横綱が不在になりました」くらいな、とんでもない文面になっていたりするので、よくよく注意が必要である。  市役所はとかくスタンドプレーを嫌い、集団で何かをすることが大好きな集団である。私のように集団生活に馴染めない者は最初から公務員など志すべきではない。    役所の人事評価はすべて上司の好き嫌いだけで決まる。  これは間違いない。では、どうしてそうなのかを説明しよう。  そもそも、公務員の仕事にはノルマという概念がない。厳密に言うと毎年、目標みたいなものはないことはないのだが、民間企業のような明確な数値ではない。民間企業であれば、今年の売り上げは前年度売り上げ120%を達成しようとか、利益率を何%アップさせようとか、目標をきちんと数値で示すことができる。  しかし、役所の仕事は配分された予算を使い切ることそのものが仕事である。彼らの頭はお上から与えられた予算をきちんと年度内に消化し、使い切ることで一杯である。民間の発想ならありえないことだが万が一、予算を使い切れなければ翌年度から予算を削られ減らされてしまう。  結果、自分の部署に迷惑を掛けることになってしまう。だから、一見意味のないような仕事でも予算を消化するため湯水のごとく金を使う。実際、役所にいてよくわかったのは、職員の間では使える予算は多ければ多いほどよいという共通認識があった。  しかし当たり前の話だが、こんなことで正当な人事評価なんてできるはずがない。したがって評価は各人の仕事の成果ではなく、パフォーマスの良し悪しで露骨に決まってしまう。 「ワンコインバスを二路線から四路線に増やしました」 「自分は苦労して、パークアンドライドシステムの駐車場を増やしました」 「〇〇資料館ができて、こんなに市民の方に喜んでもらいました」等々。  しかし、どんな仕事だって皆、真面目に取り組んでいるはずである。たまたま時流に乗った仕事が回ってくれば高い評価が得られるが、パークアンドライドシステムのように、すっかり下火になってしまった仕事ではどう足掻いても華々しい実績など作れるわけがない。  私の場合、そもそも限りなくマイナスからのスタートである。それを上手くいっているように誤魔化したり、派手なパフォーマンスをする気持ちにはなれなかった。ましてそんな仕事を一元的に評価することなど難しいし、できるはずがない。  だから、上司の裁量一つで決まってしまう。最後は、どれだけ上司に好かれているかで評価が決まる。  交通政策課にいた頃、隣の席に嫌らしい人間がいた。 「ここまでやったんですけど、私の力ではここまでが限界でした。この点で、〇〇さんのお力をお借りしたいので是非、アドバイスをお願いします」なんて、ミエミエの甘え作戦で上司のプライドを擽って見事、係長昇格試験を突破したセコイ奴だった。  お気に入り人事や馴れ合いの評価システムでは、中途で入って来た者は浮かばれない。  市役所の職員には入庁後、様々な職場ローテーションが組まれている。  複数の職場を経験することで、市役所の業務全般に精通する職員やゼネラリストを育成しようという目論見である。しかし、このシステムが弊害をもたらすことも多い。  たとえば新人の場合、入庁後、市民課などに配属されて一通り窓口業務を経験した後、各人の専門性や適性等に応じた部署に配属されていく。しかし、それも三~五年程度のサイクルで異動がある。  たとえば市民課の三年、民生課に四年、商業振興課に三年、教育委員会に四年等々。全く関係ない仕事をゼロから覚えなければいけないようなローテーションが延々、定年まで続く。  したがって、彼らは定年まで確固たる専門分野など持てない。商業振興課に配属されてもロクに決算書も読めない、商店街とショッピングセンターの区別もつかない、そんな人間ばかり増えてしまう。  何でも一通りできることは、何もできないのに等しい場合がある。つまり、役所ではスペシャリストが育たない。毎年、表面を撫ぜるだけの仕事の繰り返しである。少し仕事に慣れてきたと思ったら、もう人事異動の時期である。だから仕事に対する姿勢も当然、その場限りのものとなる。また、大部分の職員は仕事への責任感など最初から持たない。 (上手くいってないけどもうすぐに異動だし、表沙汰にならなければいいや)  前任者がやった仕事で問題なく進んでいたと思われた仕事がいざ、蓋を開けてみたら実はとんでもないトラブルを抱えていたなんてことはザラにある。 国税局や税務署の職員は何十年も税務一筋である。だから退職後、税理士の資格を取得できる。裁判所の職員も法務一筋である。その点、市役所職員は好むと好まざるに関わらず、ありとあらゆることをやらされる。気の毒だが、市役所にもそろそろ本物のスペシャリストが必要な時期ではないだろうか。  役所内では散々無礼な扱いを受けていた私だが、反面彼らの要求は厳しかった。まず、日常の挨拶である。前述したように新人の頃は率先して挨拶を励行していたのが、職員はおろかアルバイトからもロクに返事が返ってこないので私はだんだん挨拶をしなくなっていった。  また、電話の受け答えでも困った。コンサルタント時代は「〇〇〇〇です」と会社名だけ言えば通っていた。もっとも私の会社の名前は非常に長かったし、課も少なかったから、これで問題なかったのである。  ところが百万石市役所では電話の受け答えの際、課名どころか苗字まで名乗ることが義務付けられていた。たとえば「百万石市役所交通政策課〇〇です」みたいな感じで。これは慣れていないと舌を噛みそうになる。また、仕事中に電話を取るのも私には難儀だった。  そんなある日、また事件が起きた。  あいにくその日は会議で人が少なく、課員は私の他数名しかいなかった。仕事中に電話が掛かってきてもスピーディにこなさなくてはならない。私はパソコンでデータを収集処理していて手が離せなかった。その時突然、電話が鳴った。私は咄嗟に電話に出た。 「はい。交通政策課です」  はっきり言って人手がなくて余裕がなく、これが精一杯だったのである。 「〇〇課長、おいでるか?」  電話の主は陰険な人事課長の福沢だった。ちなみに「おいでる」は北陸地方の方言で「いらっしゃる」という意味の尊敬語である。 「〇〇課長は今、会議中で席を外しています」 「ああ、そうなんや。どころで、あんた誰や?」 「志摩ですが」 「お前、ちゃんと名前言わなきゃダメや!」  いきなりどやされた。 「ふざけるな」と言ってやりたかった。  たかだか一度くらい名前を言わなかったくらいで、とんだ言い掛かりである。もっとも福沢は岩本の元上司だから、私のイメージは相当悪く伝わっているはずだ。入庁以来、私は福沢から様々な嫌がらせを受けたが耐えてきた。    一年目にヤクザに等しい永田を私の上司の課長補佐に据えたのも福沢だった。永田は工業高校出身なのだから工業振興課ならまだわかるが、敢えて商業振興課に異動させたのは私に凄みを効かせるためだった。  二年目にわざわざキャリアのいる課に異動させたのも福沢の仕業だ。係長試験の受験票が来なかったのもおそらく福沢の指示だったろう。  福沢はどこまでも陰険で卑劣なクズ野郎だ。  私はよっぽど、こう言ってやりたかった。 「オレが名前を言わないことよりも、お前が人事課長として昇格試験の受験票を発効しなかったことの方が、よっぽど反省すべきことだろうが」  私は受話器を握りしめ、いつかコイツを殺してやりたいと思った。  人事課の役割は、職員を公明正大に評価することである。自分の部下の意見だから鵜呑みにしたり依怙贔屓してはいけない。しかし、こんなこともわからない人事課長の下では、百万石市役所は変わりようがないだろうと思った。  市役所のおかしな人事制度の中でも、交流人事で来た中央官庁のキャリアが特に優遇されていることは再三、説明してきた。  私の提案だが、キャリアをそこまでおもてなししたいのなら、最初から「キャリアおもてなし課」みたいな課を、市役所に創設したらどうだろうか。これなら何をしても正当化できるし、課の主旨とも違わない。  キャリアを在任中、徹底的に接待しまくる。  高級マンションなど住居の世話はもちろん、お抱え運転手付きの送迎、接待に等しい海外旅行の数々、箔付人事、宴席などへの招待、伝統工芸品等お土産の贈答、こんなことをやればキャリアも骨抜きになり、偉くなった暁にはきっと百万石市のために骨を折り、要望も何でも聞いてくれるはずだ。  いかがなものだろうか。  私が百万石市にいた際、市長は三期目だった。  ところで、市長という仕事には任期ごとに退職金が支払われることを知っているだろうか。一期四年勤めあがると約四千万円の退職金が市長に支払われる。市長という仕事は実は、かなりオイシイ仕事だ。  仮に五期二十年間市長をやると、退職金だけでざっと二億円ももらえる。庶民感覚からすると考えられないような額である。  もちろん、それ以外も仕事に見合わないほどの高額な給与もあるので、市長など一期やったら辞められないはずだ。それどころか、何期も市長の座にいると周りに茶坊主やイエスマンなど取り巻きの連中ばかりになる。彼らは気に入られるため胡麻をすり、市長に耳障りなことは一切言わず、良いことばかり話している。  パークアンドライドシステムなど、市長には良いことばかり上げて悪いことは一つも言っていないはずだ。市長はパーク用の駐車場にはおそらく、一度も足を運んだことがないだろう。ロクに現場を知らない市長は困りものだ。  私は交通政策課長だったら当時、やってみたかったことがたくさんあった。  パークアンドライドシステムが上手く機能していなければ拡大調査や根拠のない交通実験より、私なら一年間掛けてじっくり実態調査をしたと思う。  ワンコインバスも本当に住民に支持されるか見極めるため、実態調査やアンケートを実施した。するべきは拡大調査ではなく、まずは実態調査であったはずだ。  しかし、行政は自分にとって不利になることや都合の悪いことは絶対やろうとしない。こういったところが閉鎖的で、市民目線の地方自治でないのは明らかだ。他にも私がやりたかったことは、高齢者買い物難民向けの低料金送迎バスの実施である。ワンコインバスなんかより高齢者にはよっぽど喜ばれると思う。今は高齢者ドライバーの事故が絶えなく、大きな社会問題になっている。これを防ぐには買い物送迎バスが一番よいと思う。もっとも路線バスやタクシーとの競合もあるのだが、一考の余地はあるのではないだろうか。  一方で意味のないことには変な拘りがある。  この街の特徴を一つ上がると用水が非常に多いことだ。この街ではドブのことを「用水」という。川から用水を引き出し、街のいたる所に水路を張り巡らしている。これが、市長に言わせれば街のアイデンティティを高めているのだそうだ。  たしかに街に水路が流れていれば、夏は涼しげな感じがして観光客受けするかもしれない。ただ、それも限度がある。どこもかしこも水路を作ればよいというものではない。ただでさえ狭い道に用水なんか作ったら、危なっかしくて歩けるものではない。歩行者の安全性や衛生面を考えたら、用水の復活は限定すべきである。それを市長はさらに推し進めると断言している。市長はおそらく、ナルシストなんだろうと思う。                   第7章  私は入庁後、わずか三年で市役所を辞めた。    一言で言うと、公務員の世界に失望したからである。私は新卒ではなく、職務経験者採用という枠で入った。しかし、この世界は民間やコンサルタント時代の経験を生かせる場所など最初からなかった。役所の中は完全な前例踏襲主義だった。前例を否定したり、新たな提案をすることは許されなかった。  商業振興課でも交通政策課でも明らかにおかしいと感じていても私の意見が採択されることはけっしてなかった。民間から広く人材を求めるといっても、本音と建前は全然違うこともわかった。  市役所三年目、当時の課長に「退職したい」旨を話すと二つ返事で快諾してくれた。慰留されるはずもないと思っていたし、私もその方が都合よかった。形ばかりの送別会の話もでたが元々、入った時から歓迎されていないのを知っているので丁重に断った。  私は大学卒業後、民間企業七年、政府系コンサルティング会社六年、地方公務員三年という異色のキャリアを持って、コンサルタントとして独立した。それぞれの立場で言うと、民間には民間の面白さがあり、公務員には公務員のメリットがあった。   利益を上げるという意味ではやはり、民間企業に勝るものはない。私の会社は、どちらかと言えば利益より売上重視の会社だったがモノを売る大変さ、営業の厳しさはこの時随分と教えられた。結局、私のいた卸売部門は大手総合商社に吸収合併されてしまうのだが、生き馬の目を抜く厳しさは公務員の仕事のような微温湯体質ではなかった。  コンサルティング時代の仕事はスケールも大きかったが、仕事の進め方はもっと面白かった。様々な立場で、官と民を使い分けられるからである。プロジェクトを進めたいと時は、「当社は国策会社ですので、国の指導でやらせていただいております」、また利益を上げたい時は、「株式会社という手前、利益を上げないわけには参りません」等々。  一方、クライアントの方も強かなもので、「お前らは経産省がバックに付いているんだろう? だったら国の力で何とかしろ」と言われた。親元の経産省からは、「株式会社なんだから、ちゃんと利益を出してもらわないと困る」と決算のたびに説教された。  しかも社員の半数以上が天下り役員であり、数少ないプロパー社員だけで、利益目標を達成するのは至難の業だった。私は創業時から会社にいたが度重なるストレスからに自律神経を乱し過敏性腸症候群になった。その頃、毎日ように途中下車してトイレに駆け込んだ。しかし、これ以上いたら殺されると思って会社を辞めた。  最後の公務員は、外から見た世界と内から見た世界はまるで違った。「市民のため、地域住民のため」は表向きのスタンスだった。  市役所職員の大半は自部の出世のことしか考えていなかった。市役所内ではパフォーマンスが横行し、上司によく思われることが最大の関心事だったのである。  当たり前の話だが、市役所で一番偉いのは市長である。  市長の命令は絶対であり、市長の意向が市政にストレートに反映されることも多い。もちろん形ばかりの議会はあるが、市役所の組織は市長を頂点とした完全なピラミッド社会で、稟議などあってないようなトップダウンである。  したがって、市長の考えは役所の組織の隅々まで深く浸透していく。  たとえば、市長が 「街中にはこれ以上、車を入れるな」 「ワンコインバスを、あと二路線増やせ」 「街に旧名の町を復活させろ」 「街中にある用水の蓋を全部外せ」 「街中にポケットパークを増やせ」と命じたら、  職員はその実現に躍起になる。    かくして他の自治体から見たら、とんでもなくおかしな施策が実現、実行されることになる。仮に「明らかに間違っている、税金のムダ使いだ」と思っていてもあからさまに市長に逆らうことはできない。反対意見でも言って市長に睨まれたりしたら、役所のような狭い世界にいることはできない。  私が交通政策課にいた際、「パークアンドライドシステムは拡大調査をするより、この際一年間じっくり掛けて実態調査をした方がいいと思います」なんて言えば、市長の方針は拡大一辺倒(キャリアの手柄づくりという側面もある)だから、私の意見はお上に水を差すようなものである。  自ら市長のご機嫌を損なうような奇特な人間はいないだろう。    ちなみに新交通システムの導入にあれほど乗り気だった百万石市だったが、20年以上立った今でも、LRTやBRTといった新交通システム導入の目途は立たず進展も見られない。パークアンドライドシステムも当時に比べると駐車場の数だけはべらぼうに増えたようだが、肝心の利用者が増えたかは定かではない。おそらく、今でもパフォーマンスの領域を超えていないのではないだろうか。  役人に敗者復活戦はない。  暴言を吐いたりミスをしたら命取りで、二度と浮上できない。「当たらず、障らず、目立たず」が市役所職員のモットーである。  私が出会った市役所の人は皆、規格サイズの小さな人間だった。彼らには独特なオーラがあるがコピー人間と言ってもよいほど個性がなかった。  動物園で配給される餌を待っている動物と変わらず、毎月の給料や年二回のボーナスを待っている。他人より偉くなることが唯一の生き甲斐で、冒険はしないしできない。そういう人たちの集まりだった。本来、そんな役所に風穴を開けられるのが唯一職務経験者のはずだがそれすら、上手く機能していない。  ところで市役所を退職する際、一般的に退職者は市長から直接、辞令を渡されることになっている。  しかし私の場合、異例ともいえる人事課での辞令交付だった。私は入庁時から数々のパワハラを受けたが、最後の最後まで軽く扱われた感じだった。  後で考えると、市役所側は私の市長への直訴を阻みたかったようだ。市長にだけは真実を知ってもらいたかったが所詮、それも叶わぬことだった。  市長には役人が大好きな言葉、「アカウンタビリティ(説明責任)」があると私は思う。私が何故、市役所でこんなに理不尽な扱いを受けたのか、首長なら説明する義務があるしまた、納得できる説明ができるはずである。  2007年には現職の長崎市長が射殺される事件があった。  その時、世襲を訴える市長の遺族の娘婿が市長選に出馬したが、長崎市企画部統計課長の田上富久氏が僅差で当選した。私はその時、市の「統計課長」にすぎなかった田上氏が市長になってくれて、安堵したことをよく憶えている。  しかし、その時の百万石市長のコメントが笑えた。 「こういうことは、あってはならないことだ」  既に起きてしまったことについて質問されているのに、「問いをもって問で答える」コメントしか言えない市長に改めて失望した。  その後、北陸新幹線の開通を念頭に六期目当選を目指した市長は落選した。退任に当たり、市長が話していたことが私は興味深く感じた。 「職員の方は誇りを持って仕事をしてください。私はこれからも、ずっと職員の皆さんを信頼しています」  たしか、こんな意味の言葉を言っていたのを私は新聞で読んだ記憶がある。  しかし、職員の仕事を評価するのは市長ではなく、あくまで市民のはずである。最後まで勘違いしている市長に私は呆れてしまった。どこまで、傲慢でナルシストなんだろうか。  私が市役所を辞めて四半世紀近く立った。  2006年は地方自治体の不祥事が続き、現職の知事三名が逮捕される「地方自治体・未曽有の危機の年」だった。この年だけで自治体の首長が十五人も逮捕された。2024年はパワハラや業者へのおねだりが問題になった兵庫県知事が失職して出直し選挙が行われ、県民から再選されるというお墨付きもあった。 「便宜を図った見返りや権力を笠に着て業者から利益供与を受けるのは当然」と考えている自治体の長が数多くいるのは嘆かわしいことである。果たして、こんな地方自治体に明日や未来はあるのだろうか。    平成の時代になってから政府は地方分権を推進している。中央集権型行政システムの制度疲弊を取り除き、官僚制度やヒエラルキーの解消を目指すものだ。平成の大合併以降、時代は市町村合併を推し進めるとともに、地方自治体への権限委譲に傾いている。民間の活力を活かして、企画立案できる人物の養成や会計制度の導入などを謳っている。ところが、令和に時代になっても大きな変化や進展はみられていない。    また、自治体の首長選挙に出る候補者の人選も問題である。政治家以外でも、元ニュースキャスター、タレント、スポーツ選手などが地方自治に担ぎ上げられた。同県でも、プロレスラー出身の国会議員が県知事選に出て当選して今や県政を担っている。それでも2024年元旦、N半島で起きた震災での一連の混乱は記憶に新しい。  地域住民はいったい誰を首長に選んでよいかわからず、不安は払拭できない。私利私欲のために権限を利用する官僚上がりより、素人で純な分、彼らが支持されるのだろうか。たしかに元ニュースキャスター、タレント、スポーツ選手が持つ知名度は抜群なので宣伝効果は高い。それなりの経済効果はありそうだ。  私は「タレント首長とは一種の滋養強壮剤のようなもの」だと思っている。「一時的に地方自治体を元気にする」そういう役割を果たしてくれるのが彼らタレント首長である。しかし、勘違いしてほしくないのは、それは一瞬であって、決して長続きするものではないことである。  それが証拠に、東国原英夫は一期限りで知事職を退任した。この人も、おそらく知事になりたかっただけの人なのだろう。  一般的にタレント候補は政治手腕に問題があるといわれる。自治体の首長は宣伝能力(セールスマン)だけでは務まらない。トップマネジメントが求められる地方自治体の首長とは企業のトップそのものである。その自覚が本当に彼らにあるのだろうか。しかし、こんなことを繰り返している限り地方分権など夢物語だろう。尊敬できない首長の下で働かされるのはかなわない。地方自治の不幸は住民だけに止まらない。  そこで働かされる公務員もまた、不幸である。  今、地方自治体にも民間企業のような貸借対照表や損益計算書が導入されている。国立大学は独立行政法人になり、企業や大学のように地方自治体にもマネジメント感覚や計数感覚が求められる時代である。  首長は、企業と株主の関係のように一年の仕事の成果を市民にきちんと報告する義務がある。また、情報が開示され公の情報も住民にオープンにされている。議会の様子さえ、何時でも誰でもインターネットで簡単に閲覧できる時代である。  しかし、こんな情報開示の時代でも不透明な部分は多い。その一つが「お気に入り人事」である。兵庫県の事例でもあるように役所では今でも、お気に入り人事が頻繁に行われている。  首長が自分のお気に入りを側近に取り立てるようなことは早急に止めるべきである。職務経験者は硬直した役所の組織に風穴を開けることを目的に採用されている。しかし、それが上手く機能していない。身内にはとかく甘く、外部から入ってきた者は受け入れない体質も改善すべきである。民間企業や外部から入っていた人間にも仕事を与え、昇進・昇格の機会も均等に与えるべきである。公明正大な人事と口で言うのは簡単だが、長年の慣習は一朝一夕には変えられない。開かれた市政の実現にはまず、内なる改革が必要ではないか。今後、地方自治の将来がどこに向かうのか興味が付かない。  市役所を辞めた私は、地元に戻りコンサルタント事務所を開いた。  その後、市役所で私が関わった連中は結構出世したようである。世の中はいつもマジョリティが正しい。地方の市役所のような閉鎖された職場はとくに、マイナーな人間が認められるような世界ではないようだ。  彼らの取った行動は絶対多数の原理である。一方、私が変えようと試みたことはまったく意味をなさなかった。マイナーな人間に残された道はただ、一つ、全国を市場とすることだった。  市役所を辞めてコンサルタントの世界に戻った私は一年後、ビジネス書を上梓した。ちなみに、我々コンサルタントにとって本を書くことは、役所の昇格試験程度の軽いことである。  コンサルタントは別名、本を書きたくてたまらない人種である。もしコンサルタントで本が書けないとしたら、コンサルタント時代に真面目に仕事をしなかったか、そもそも資質がないかどちらかである。  私も市役所時代と違い、コンサルタント時代に培った経験を糧に著作活動に集中して数ヶ月で原稿ができた。本にする分苦労したが無事、書店に並んだ。  初めて書いた本にもかかわらず、幸い書店での評判がよく、大手書店でも数ヶ月平積みにされた。手放しでは喜べないが、私の本は全国の図書館にも多数蔵書された。調べてみると全国の県庁所在地クラスの図書館に私の本はほぼすべて入っていた。最終的に全国の図書館に四百冊程度蔵書されていた。  本が発売されてから三ヶ月後、私は試しに百万石市の図書館の蔵書検索を行ってみた。するとその時点で、市立図書館に私の本はたしかにあった。その時、「百万石市でも私の本を蔵書してくれたんだ」と感慨深く思った。  しかし、それはとんだ見当違いだった。半年後に蔵書検索してみると、すでに私の本は無くなっていたのである。おそらく年に数回ある図書館の整理期間に託けて、私の本を破棄処分にしたのだろう。  役所のやり方に反抗した者の著作物など彼らがもっとも嫌うはずだからだ。私の推測通りなら、明らかに彼らの報復行為である。  ついでに興味があったので、市内の書店についても調べてみた。今はネットで調べれば書店の蔵書検索など簡単にできるが、念のため市内でもっとも大きなU書店に電話を入れてみた。 「お世話になります。〇〇〇〇という本はありますか?」 「しばらくお待ち下さい」と店員から言われ、電話の保留ボタンが押された。     待つ待つこと十分ほど。  私の苛立ちもそろそろ限界に達していた。店員が電話を取る。 「お伺いした件ですが当店ではあいにく、その本は取り扱いがありません」  店員は、木で鼻をくくったように答えた。 「はあ? 取り扱いがないとはどういう意味ですか?」 「とにかく、ウチではそんな本は扱っていません」  店員はぞんざいに答えた。私は「わかりました」と言って電話を切った。    私の本は初版五千部、紀伊国屋書店、丸善、ジュンク堂、三省堂、ブックファースト、八重洲ブックセンター等、全国にある大手書店では軒並み平積みになっていた。  実際、自分の目で確かめたのだから間違いなかった。書籍の流通に必要なISBNコードも付いているし、日販、東販など正式なルートで販売されている。取り扱いがないなど、そんなおかしな話があるはずがない。おそらく、U書店の大口の取引先である市役所がプレッシャーを掛けて、私の本を積極的に販売しないように仕向けたのだろう。  それ以降も、新刊の準備を進めていたところ何の前触れもなく突然、編集者が出版者を退社したり、ネット上の記事が突然打ち切りになったり、様々な嫌がらせがあった。考えてみると、今は個人メールなども簡単に盗み読みできる時代である。そこら辺の事情についてはすべてわかっているつもりだが、つくづく役所というのは不思議な職場である。  最後に地方公務員を中途で受験する人に述べておきたい。  中途採用は、実際は大きなハンデキャップを伴う。二十代ならまだハンデを取り返せるが、三十代からは茨の道が待っている。私はそのことを身をもって学んだ。とくに、私のように首都圏から地方の市役所に転職する場合、待っているのはバラ色の人生なんかではない。また、役所の実態はコネ、カネの世界である。首長の談合、公費乱用、お気に入り人事、キャリアの優遇、パワハラ、セクハラ、モラハラ、職員の飲酒運転など、役所は私がいた頃より増して酷くなっている感じがする。  きれいごとでは済まされない場面にも多々遭遇する。こんな役所に徒手空拳で行っても潰されるのがオチである。冷や飯を食わさせられることを覚悟しておきたい。地方はまだまだ閉鎖的である。よそ者や外部の人間を受け入れるような環境は十分に整っていない。昔からの慣習や前例を、粛々と継承しながら仕事を進めているのが実態である。  それ以上に、私のように資格要件で入った場合はさらに落胆するだろう。私のように受験して資格を取得したのではなく、周りは全員研修で資格を手に入れた者である。はっきり言って、無試験有資格者のレベルの低さは目を覆いたくなるほどだった。そんな中、あなたはたった一人でやっていける自信があるだろうか?    機会は平等ではない。  いくらあなたが苦労して資格試験を突破しても、あなたしかない確かなキャリアがあっても、それを周りできちんと評価してくれる人がいなければまた、周りが利く耳を持たなければすべて徒労に終わる。  周りの者が全員、養成講座で資格を手に入れた場合、あなたが逆にマイナーな異端者になってしまう危険性だってあるのだ。  それでも今後、職務経験者や資格要件採用で公務員を目指す人がいるならば、私は安定などを求めないでほしいと願う。安定よりキャリアアップを重視してほしい。公務員で得られる経験は貴重である。普段は知ることができない役所の実態を内部から直で観察できる。この経験を是非、今後に生かして欲しい。  私も市役所や県庁を内なる世界から見て、いろいろ考えさせられた。ビジネスに生かせるようなことも経験させてもらった。 また、すべての役人のレベルが低いとは思わない。中には、志の高い優秀な人もいるだろう。しかし繰り返し述べるが、中途で公務員を目指すのは、非常にハンデキャップや不利を伴う。ハンデを背負ってかつ、それに耐えうる人、糧にできる人だけがチャレンジに値する人である。                                   エピローグ  世の中には、時に信じられないようなことが起きることがある。  市役所を辞めた年、私は所用があって東京まで出かけた。  その日、いつものように私鉄で品川まで出てから山手線に乗り換えた。電車がちょうど浜松町に着いた時だった。私がだらしなくドアに凭れかかっていると、対面のドアから一人のダサい男が乗ってきた。その男は、百万石市商業振興課時代の課長の藤田だった。  浜松町はモノレールで羽田空港と結ばれているから、おそらく藤田は出張で東京に来たのだろう。藤田も私にすぐに気づいた。ただ、私と目が合うと気まずかったのか、藤田は急にオドオドしだして、コソコソと車内に紛れ込んでいった。私は追いかけるつもりはなかったが、藤田もきっと根は善良な小市民なのだろう。気の毒に感じた。  翌年には、さらに笑える出来事があった。  私は市役所を退職後、二年目にビジネス書を上梓した。その日、本の陳列具合や売れ行きを確認するため、八重洲ブックセンターに向かっていた。東京駅八重洲口から書店に向かうと前方から一人の中年男が歩いてくるのが見えた。     コイツこそまさしく、私を散々イジメ抜いたキャリアだった。  私はキャリアから、ずっと目を逸らさなかった。  キャリアも早々、私の存在に気が付いたようだ。  次第に距離が近くなっていく。  10メートル。  5メートル。  3メートル。  1メートル。  すれ違いざま、  私はキャリアに「おい、お前! ちょっと待て!」と叫んだ。  すると、コイツは何と一目散に逃げて行った。  それを見て私は憐れに感じた。百万石市役所では、その他大勢がバックアップしてくれたから傲慢な態度に出られたのだが所詮、一人では何もできない奴なのだろう。  最後に岩本のことを述べておきたい。  十数年前からブログはもちろん、誰でもツイッターやフェイスブックなどSNSを使って、身の回りのことを発信できる環境が整った。  ある日、私は岩本の近況を偶々、岩本のフェイスブックと知ることになった。それによると、どうやら岩本は市役所を退職したようだった。プロフィールで市役所が以前の職場になっていたからだ。  辞めた理由は分からないし知りたくもないが、あれだけ、えげつない奴だから当然の成り行きかもしれない。  私が百万石市で酷い仕打ちを受けた要因は、入庁前に吹き込まれた岩本の私への数々の誹謗中傷、言動がすべてだった。  ただ、誤解されたくないのだが、私はたとえ岩本に誹謗中傷されなくとも市役所を辞めていただろう。  それは一言で言えば、私が  「市役所の仕事にほとんど遣り甲斐を感じなかった」からだ。  それでも、あれだけ岩本から誹謗中傷されなかったら、私が市役所で徹底的に嫌がらせを受けたりしなかったし、おそらく円満退職だってできただろう。   返す返す返す返す、たった一人の人間から発せられた誤った情報で、人ひとり社会的に抹殺してしまうことに恐ろしさを感じる。  人がいる限り、組織が生まれる。    組織があれば必ず、パワハラやいじめが生まれる。    パワハラやいじめは学校、会社、役所どこにでもある。    そして何より、力関係さえ使えば簡単に相手をねじ伏せることができる。  組織がある以上、パワハラやいじめはこの先もずっとなくならない。
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