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小窓の男
現在より、ほんの少しだけタバコが自由に吸えた時代の話。
Aさんは仕事の休憩中、職場の喫煙所でタバコを吹かしていた。
喫煙所は野外に置かれた六畳ほどの広さのプレハブ小屋で、開けっぱなしの入り口の他には換気用の小さな小窓しかついていない。そこの真ん中に置かれたパイプ椅子に腰掛けて、Aさんは何をするでもなくぼんやりとタバコを吹かしていたのだが━━
━━━にぃちゃん。
突然、男の声が聞こえた。
ぎょっとして声の方を見やると、換気用の小窓から知らない男が顔を覗かせていた。
一目で浮浪者と分かる汚らしい男だった。
Aさんは即座に立ち上がると、強い口調で、「ここは会社の敷地内だぞ、出て行け!」と怒鳴った。
しかし、男は臆する風もなく、黄ばんだ歯を見せて「にぃ」と笑うと、
━━━タバコくれよ、タバコ。
と、言った。
Aさんは使ってはいけない言葉で浮浪者を強くなじった。
そして、吸いかけのタバコを乱暴に揉み消すと、喫煙所を出て守衛に連絡した。
連絡を受けた守衛は即座に駆けつけた。
しかし、かなり念入りに周囲を捜索したが、浮浪者を捕えることは出来なかったそうだ。
その日から、Aさんの会社では謎の浮浪者の目撃情報が度々寄せられるようになった。
不思議なことに、浮浪者は喫煙所でしか目撃されなかった。小窓から顔を覗かせ、タバコをくれとねだるのだ。
Aさんの会社は警察にも通報し、様々な手段を講じて何とかこの浮浪者を捕まえようとしたのだが、成果を得ることは出来なかったそうだ。
そうして、浮浪者が目撃され始めてから二ヶ月が経過した。
その頃には、浮浪者への警戒として、喫煙所を一人で利用するのは禁じられていた。
しかし、ある時、Aさんは仕事の都合で半端な時間に休憩を取ることになってしまい、喫煙所を一人で利用する羽目になってしまった。
Aさんがタバコを吹かしながら、あの浮浪者は今日も現れるのだろうかと考えていると━━
━━━にぃちゃん。
小窓から、浮浪者が顔を覗かせた。
Aさんは舌打ちをした。
と、同時に、これはチャンスであると内心でほくそ笑んだ。
実は、Aさんには前々からある『企み』があったのだ。
それは、中に大量のハバネロパウダーを仕込んだニセモノのタバコを浮浪者に渡すこと。
それを吸った浮浪者が悶絶している隙に捕まえてやろう━━そういう企みであった。
「ほら、やるよ」
Aさんは立ち上がって小窓に近づくと、そのニセモノのタバコを浮浪者へ差し出した。
浮浪者は目を輝かせ、
━━━にぃちゃんにぃちゃん、それを咥えさせておくれよ。
と、言った。
Aさんはうんざりしつつも、こいつを捕まえるためだと自分に言い聞かせ、言う通りにしてやった。すると今度は、
━━━にぃちゃんにぃちゃん、火をおくれよ。
と、言ってきた。
Aさんは無言でジッポを擦った。
ニセモノのタバコに火をつけると、すぐに目と鼻に痛みを覚えた。
Aさんはむせかえり、口元を隠しながら浮浪者から離れた。
副流煙を少し吸い込んだだけでこの様だ。煙をモロに吸い込んだ浮浪者はさぞや悶絶しているに違いない。Aさんはそう思ったのだが━━
━━━ああ、うめぇうめぇ。
驚くべきことに、浮浪者は平然とハバネロパウダーが入ったニセモノのタバコを吹かしていたのだ。
Aさんは唖然とした。
━━━うめぇよにぃちゃん。おれぁ、こんなうめぇタバコ吸ったのは生まれて初めてだよ。
浮浪者はニタニタと笑っている。
渡すタバコを間違えた? 一瞬、脳裏にその可能性がよぎった。しかし、すぐにそれはないと否定する。何故なら今しがた、Aさんはニセモノのタバコの副流煙を吸ったのだ。あれは間違いなく、ハバネロが入ったニセモノのタバコの煙だった。
━━━うめぇうめぇ、うめぇよにぃちゃん。
浮浪者は口角を大きく釣り上げ、嗤った。
最早、捕まえてやろうなどとは微塵も考えていなかった。
Aさんは逃げるようにその場を後にした。
翌日。
Aさんは会社の先輩に昨日の出来事を話した。
「お前、それはちょっとよくないなぁ」
先輩は眉根を寄せてそう言った。そして、
「ああいう人は心の病気なんだから、そういうことをしたらダメだよ。もっと思いやりの心を持ってだな・・」
と、諭すようなことを言った。
先輩は善人であったが、少々思い込みが激し過ぎるのと、自分の中の正義感を過信し過ぎるきらいがあった。会社の敷地内に何度も無断で侵入し、あまつさえタバコをねだるような奴に対して思いやりも何もなかろうにと思ったが、Aさんは先輩の説教を黙って聞いていた。
短い説教が終わると、先輩は腰に手を当てつつ、こう締め括った。
「今度あの人にあったら、お前の代わりに俺が謝っておくよ。お詫びの印として、今度はちゃんとしたタバコも渡さないとな」
満足げに一人頷く先輩を見ながら、Aさんは、「あ、はい」と答えた。
それから三日後。Aさんは書類を上司に届けに行った帰りに、先輩に肩を叩かれた。
「あの人に会ったよ。タバコも渡しておいた」
笑顔でそう言う先輩に対し、Aさんは「ああ、そうですか」と答えた。
それが、先輩との最後の会話になった。
翌日。
先輩の訃報が届いた。
夜中に突然吐血し、救急車で運ばれたそうだ。しかし、病院に着いた時にはすでに手遅れで、先輩は事切れてしまっていた。
いかなる病気によるものなのか、先輩の肺は酸で溶けたようにドロドロになっていたという。
先輩が亡くなってから一ヶ月後。
とある田舎の駅の喫煙所で、Aさんは一人でタバコを吹かしていた。他県への出張の帰りであった。
先輩が亡くなって以降、Aさんは会社で喫煙するのをやめた。理由は言わずもがなだった。
いっそこのまま禁煙してしまおうと何度も思った。しかし、どうしてもタバコをやめることが出来ない。
(禁煙治療とやらを始めてみようかな・・)
Aさんが、ぼんやりそんなことを考えていると、ふと、喫煙所の小窓が目に入った。
そういえば、この喫煙所は会社のと造りが似ているな。
そう思った時だった。
突然、喫煙所の小窓がガラリと開き、あの浮浪者が顔を覗かせた。
━━━にぃちゃん。
Aさんはタバコを落とした。
浮浪者は黄色い歯を見せ、にぃと口角を吊り上げると、
━━━運がよかったなぁ、にぃちゃん。
そう言って、ゲラゲラと大声で嗤い始めた。
Aさんは子どものような悲鳴を上げてその場から逃げ出した。
以降、Aさんはタバコを完全に絶った。
そして、『喫煙所』と書かれた場所には絶対に近づかなくなったそうだ。
<了>
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