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煙草を吸いはじめて、たっぷり十分は経っただろうか。裏庭でイチイの木の葉がさざめく音や、往来の喧騒や、夜気と煙草の香りに包まれてぼーっとしていたおれは、ふと背後に物音が聞こえて振り向いた。
「あの人」――ハイドさんが、おれが貸したパジャマの上下に、もこもこのフリースジャケットを引っ掻けてキッチンの入り口に立っている。
「いい匂いだな」
と、ハイドさんはへにゃへにゃした笑顔で言った。
そのとき、おれは感じた。シェイクの甘ったるい匂いや、ハンバーガーとポテトの油や肉の匂い。それに混ざって感じる、異臭。肉が焼けているような、腐っているような、胸苦しくなる匂いを。
おれは吸い殻をハイネケンの空き缶に突っ込むと、ハイドさんのそばに近寄った。
「傷の具合はどうですか?」
尋ねると、ハイドさんはまたへにゃへにゃと笑って、
「まだ悪いな、でももうそれほど痛まない」
だって、たかが指を紙で切っただけだよ、というように話す「この人」。でも、おれは知っている。ここの裏庭に倒れていたハイドさんは血まみれで、左肩から背中に掛けて、皮膚は焼けただれ、壊死が始まっていた。
ハイドさんはおれのほうに手を伸ばすと、
「今日も一日お疲れ様。君の騎士みたいな凛々しく美しい顔に、また会えて嬉しいよ。だから、祝いの宴をしないとな」
大げさだしハイドさんが言ってくれるような美男じゃないし、そのうえこの人がおれの前髪を掻き上げてくるので、無頓着な距離の近さに動揺し、苛立ってしまう。その手を跳ねのけることはしないが、やんわり彼の手の甲を持って脇へと降ろさせた。
おれはつぶやく。ハイドさんの、なにを考えているのかわからない青い瞳を見つめて。
「そうですね、祝宴をあげましょう。おれは今日も一日無事に、馬車馬のように働きました。殉職もしていない。あなたを狙う敵――『エズマ』の追っ手だって、今日も来なかったんでしょう?」
「ああ。朝七時に起きて君を見送り、その後用意してもらっていた朝メシを食べて、ぐっすり眠って、気がつけば夜の八時だ。腹が減ったよ。早くその苦くてあまーい、どろりとした液体が飲みたい」
おれはちらりとシェイクが入った紙のカップに視線を向けた。純粋無垢な女の子、「マギー」がハンバーガーを手に微笑んでいるイラストが、レトロなタッチで描かれている。
「苦くてあまーい、どろりとした液体」が連想させる、とんでもなくジャンキーで退廃的な響きに、おれはため息を押し殺した。
「シェイクばっかり飲んでたら、体に悪いですよ。もっと栄養のあるものを食べて、体力をつけないと」
「じゃあ、今夜は君が食べるディナーを少し分けてくれないか? 栄養のあるものなんだろう?」
ぐっと言葉に詰まるおれ。糖質と脂質過多の食事。たまに食べるのはいいけれど、連続三日食べる物じゃないかもしれない。
飄々と言ったハイドさんに当てこすりの気持ちはないのだろうが、おれは抵抗を試みた。
「じゃあ、目玉焼きも焼きますよ。それから缶詰のトマトスープを開けて、サラダを作ります。少し待っていてください」
「それなら、ぼくはその間に傷の手当てをしているよ。ちょうどガーゼを替えようと思っていたんだ」
その言葉に、おれは慌てた。おれの見ていないところで、そんなことをしてほしくない。
なぜか、なぜだか、ハイドさんの傷口を「見る――確かめる」ことが、おれに課せられた義務のような気がしていた。
というか――おれとこの人をかろうじて繋いでいる、弱く頼りない一本の糸というか。
おれはハイドさんの、ケガをしていない側の右手肘を掴んだ。
「ガーゼを替えるなら、おれも手伝います。背中なら、一人ではできないでしょう?」
「ん? いいのか? 祝宴の時間が遅くなるよ。君は、腹が減っているだろう?」
折しもタイミング悪く鳴るおれの腹。だが、「食事をしている場合じゃないなら食べない」は職務上慣れている。
おれはハイドさんの手を、少々強引に引っ張った。
「大丈夫です。ほら、寝室へ行きますよ。それから、あなたは苦くてあまーい、どろりとした液体を飲みながら、楽にしててください。ガーゼ、おれが替えますから」
「優しいな、ウィルクス君は。モテるだろ?」
「モテませんよ」
おれたちはやいやい言いながら、寝室へ向かった。
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