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本編
「ねぇ、ベハティ。あなたはウォード卿のことをどう思う?」
アレクシス王国の第一王女のアシュリン殿下が淡い水色の目を私に向けて、きょとんと首を傾げて波打つ美しい金髪を揺らして問うた。
私――男爵令嬢で宮廷侍女のベハティ・コックスは畏れ多くも王妃殿下に指名いただき、アシュリン殿下の専属侍女として働いている。
紺色の髪に緑色の目、背丈は平均的でこれといった特徴はないけれど、貴族学校をどうにか首席で卒業できたおかげで卒業後すぐにアシュリン殿下の侍女として雇ってもらえた。
今年で二十一歳になり、周囲から早く結婚するように言われているけれど、実家の家計を思うと私は結婚するべきではないと思っている。
実家が治める領地は毎年魔物被害に遭っており、父と母は男爵家の財産を切り崩して領民たちの生活を支えているのだ。
それに私には三つ年下の弟がいて、次期当主の彼が結婚して男爵夫人を迎える際にはそれなりにお金が必要になるだろうから、それまでお金を貯めておいてほしいと思っている。
魔物が度々出てくるような危険な領地に来てくれる未来の男爵夫人には、なるべく不自由なく過ごしてほしいのだ。
だから私は高給である王宮の侍女となるために貴族学校で試験の度に首席を守り抜いてきた。
そして今、夢を叶えて王宮の侍女となった私は給金の一部を実家に仕送りをしている。
それに私は愛するアシュリン殿下に仕え続けたいから、結婚するつもりはない。
もしもアシュリン殿下が異国へ嫁がれるのであればお供して仕え続けたいのだ。
(すでにいくつもの縁談が持ちかけられているのだから、もしかするともうすぐでお相手が決まるかもしれないわね)
今年で八歳になるアシュリン殿下は絵画の中から出てきたかのごとく美しく、他国から絶えず縁談が持ちかけられているためその度に王女殿下を溺愛している国王陛下と兄君である王太子殿下が躍起になってお断りしていると聞いているけれど、きっとその時は来るはず。
ちなみにウォード卿ことウィリアム・ウォード様は魔塔という優秀な魔法使いたちの集団に所属する魔法使いで、その腕を買われて王女様の魔法の教師をしている。
ウォード卿は私より三歳年下の十八歳で、月の光を紡いだようと称される銀色の髪に、氷を彷彿と察せるアイスグレーの切れ長の目を持つ、国宝級の顔と称賛される美貌の魔法使いだ。おまけにすらりと背が高くしなやかな体躯で、魔導士の正装である濃紺の上着とスラックスとローブを身に纏う姿を目にした時は、思わず見惚れてしまった。
アレクシス王国では魔法使いは貴族の侯爵位と同じくらい地位が高い。
魔法は奇跡を生み出す力で、その力を持っているのは貴族の中でもほんの一握りなのだ。
その構成はほとんどが高位貴族や王族となっている。稀に平民出身の魔導士もいるのだけれど、十年に一人くらいだ。
(もとよりウォード卿は次期侯爵家の当主だから、令嬢たちの目にはなおさら魅力的に映るでしょうね)
今年成人したばかりの十八歳ということもあり、貴族令嬢はこぞって彼の妻の座を狙っている。
王宮のパーティーで彼が現れると、会場にいる令嬢たちの顔つきが狩人のそれになるのだ。
私も未婚の貴族令嬢だが、結婚願望がないため「美人で優秀な魔導士だな~」というのが正直な感想だ。
アシュリン殿下にそのまま伝えるのはあまりにもお粗末な回答だから、私は少しだけ思案して言葉を選ぶ。
「アレクシス王国が誇る素晴らしい魔法使いだと思っております。私より三つ年下の若い方なのに次期魔塔主と期待されていて、本当にすごいお方ですね」
「もうっ、そういうことではないわ! 異性としてどう思って?」
そう言い、アシュリン殿下は頬を膨らませた。美しいアシュリン殿下の可愛らしい表情に、思わずデレデレとしてしまいそうになる。
「どうといわれましても……弟の友人を見ているような気持ちになりますね」
「お、弟の友人……」
アシュリン殿下は私の言葉を復唱すると、なぜか天井を仰ぐ。その目はどこか遠くを見ている。
いったいどうしたのだろうかと声をかけたその時、王女殿下の私室の扉を叩く音が聞こえた。
私が扉を開けると、目の前に噂のウォード卿が立っている。
そう、今から王女殿下の魔法の授業が始まるのだ。
「ウォード卿、お待ちしておりました。どうぞ、中にお入りください」
「……はい」
ウォード卿は氷のような冷たい目で私を一瞥して手短に返事をすると、スタスタと部屋の中に入る。
いつも通りの塩対応だ。
ウォード卿は「氷の貴公子」とも呼ばれており、人を寄せつけないオーラを出している。特に女性に対してそうだ。
(まあ、美形で言い寄られることが多いと煩わしく思ってしまうわよね)
しかしアシュリン殿下は例外のようで、授業中に柔らかな笑みを浮かべてアシュリン殿下を褒めているところを見たこともある。
「それでは私は授業のあとのお茶を準備してまいりますので失礼いたします。なにかございましたらベルを鳴らしてください。部屋の外にいるメイドが対応します」
私はアシュリン殿下とウォード卿に礼をとり、部屋を出た。
アレクシス王国では婚約者でも夫婦でもない男女が同じ部屋に二人きりでいてはいけないため、私は少しドアを開けて、外にいるメイドと護衛騎士が中の様子を見れるようにしておく。
「お二人とも、よろしくお願いします」
私が声をかけると、メイドと護衛騎士は快く返事をしてくれた。
「さあ、授業を頑張るアシュリン殿下のために美味しいお茶とお菓子を準備しましょう!」
気合を入れて厨房へ向かおうとした私は、廊下の先から苦手な人物が此方に向かってきていることに気づいた。
(うっ……ゴルボーン卿だわ……!)
ゴルボーン卿は宮廷騎士団所属の騎士で伯爵家の次男。
年齢は私と同じニ十歳で、髪と目の色は茶色で背丈は私より少し高いくらい。いつもニヤニヤとした人を馬鹿にしたような顔つきで私を見てくるから苦手だ。
貴族学校にいた頃は幸いにも関わりが無かったのだが、一カ月ほど前に偶然挨拶をしてからなにかと絡んでくるから日々神経をすり減らしている。
酷い時は仕事の最中に呼び出してきては自慢話を聞かされたり、終業後に待ち構えていて食事に連れ出そうとしてくるのだ。
彼には同じ伯爵位を持つ家門の婚約者がいるはずだが、どういうわけか頻繁に食事に誘ってくるのだ。
さすがに夜に食事を誘われたときは恐ろしくなり、侍女長に相談して夜勤の仕事を入れてもらい、断る口実を作った。
今もゴルボーン卿は私に視線を定めて、どことなく悪いことを考えているような顔つきで話しかけてきた。
「よぉ、ベハティ。今は王女様は魔法の授業だろ? お前に話しがあるんだ。付き合ってくれよ」
「お話とは?」
「ここでは言えないな。そう長くはない。少しくらい俺に時間をくれてもいいだろ?」
「……アシュリン殿下の授業後のお茶の準備があるので、五分ほどでしたら……」
本音を言えば関わりたくない。 しかし騎士で伯爵家出身のゴルボーン卿に私なんかが逆らうことができず、私は渋々と頷いた。
***
私たちは王宮の回廊に移動した。
幸いにも周囲には城仕えたちがいるため、ゴルボーン卿と二人きりになりたくなかった私は胸を撫でおろす。
「ゴルボーン卿、お話とは何でしょうか?」
私が切り出すと、ゴルボーン卿は腕を組んで回廊の柱に寄りかかり、私を頭のてっぺんからつま先まで品定めするようにジロジロと見た。
「いつになったらお前から告白してくるのかと待ってやっていたのに、恥ずかしがり屋のお前が躊躇って言い出さないから待ちくたびれてしまったよ。今日からお前を俺の恋人にしてやる」
「……はい?」
ゴルボーン卿が私を恋人にするという空耳が聞こえてしまい、思わず聞き返す。
婚約者がいるはずなのに、なぜ恋人を作ろうとしているのだろうか。わけがわからない。
それにゴルボーン卿は恋人と言ったけれど、正しくは浮気相手だろう。
「だから、お前が俺を好いているのに恥ずかしがって告白しないから、俺の方から言ってやったんだよ。ありがたく思うんだな。とりあえず、今夜こそ仕事が終わったら二人でディナーに行こう」
「それって浮気の誘いですか? 絶対に嫌ですけど?!」
空耳ではないとわかった途端、全身に鳥肌が立った。
私は慌てるあまり言葉を取り繕うのも忘れてしまった。
「嫌とはなんだよ。恋人になったのだから俺に合わせろ。王女殿下には適当な言い訳を考えて夜勤を断れ」
「ふざけないでください! 私はアシュリン殿下に忠誠を誓ったのです。主君を欺くような真似なんて絶対にしません。それにあなたなんかの浮気相手になるのもお断りです!」
「なんだって?! たかが侍女の分際で調子に乗りやがって!」
ゴルボーン卿は血走った目で私を睨みつけると、唾を飛ばしながら怒鳴った。
(私なら喜んで浮気相手になるとでも思ったの?! 最低よ!)
気迫に押された私は、悔しいことに何も言い返せない。
身分を考えるとそもそも言い返せない立場なのだけれど。
「お前が媚びを売ってくるから恋人くらいにはなってやろうと思ったのに断るとは無礼にもほどがあるぞ! 俺の誘いを断ったこと、後悔するんだな!」
王宮の回廊にゴルボーン卿の声がこだまする。
彼は私に舌打ちすると踵を返し、大股で立ち去った。
私たちの様子を見ていた周りの城仕え仲間たちは、私と目が合うと気まずそうに視線を逸らす。
今ここにいる使用人たちはほとんどが貴族家の出身だが、伯爵家出身の騎士であるゴルボーン卿と比べると立場が弱い。
だからゴルボーン卿の不興を買った私とは関わらないようにしているのだ。
そうわかっていても、一方的に心を踏みにじられた直後の私には耐えがたい状況だ。
「……私がいつ媚びを売ったというのよ。話しかけてくるのはいつもゴルボーン卿からだったし、私の仕事を邪魔してまで自慢話を聞かせてきたのに、あっちの方が身分が上だから我慢して話を聞いてやっただけよ。それなのに媚びを売っていると思っていたなんて、勘違いにもほどがあるわ!」
いったいどうして私があのような告白で恋人になると思ったのだろうか。
勝手に告白して、勝手に罵詈雑言を吐かれて、怒りで頭が沸騰しそうだ。
「アシュリン殿下のおそばに仕えている時でさえやって来てはくだらない自慢話ばかりして仕事の邪魔をしてきたし、本当に迷惑だったわね。これから付きまとわれなくて清々するわ!」
身勝手なゴルボーン卿への怒りが胸の内を渦巻いている。おまけに一方的に罵られて心は傷ついている。
心の中がぐちゃぐちゃだ。
(このままでは、泣いてしまいそう)
周囲の視線にも耐えられなかった私は、王宮の庭園へと向かった。
***
アレクシス王国の王宮の庭園は魔法で気温や湿度を調節されているため、一年中花が咲いている。
庭園の外れにあるひっそりとした一角にある鄙びた透かし彫りの木のベンチを見つけた私は、そこに座った。
「ふぅ……誰もいなくてよかった」
この場所は花壇から離れており、辺りは草か小花しか咲いていないため人気がないのだ。
ぽろぽろと、涙が零れ落ちて頬を伝う。
「どうしよう。泣いたら目が腫れてしまうから、仕事に戻りづらくなってしまうわ……」
目に力を入れてみても涙が止まらない。
傷ついたけど、悲しいから泣いているわけではない。悔しくて泣いているのだ。
悔し涙は厄介で、心の中で荒れ狂う波が収まってくれないと止まってくれない。
「はぁ……アシュリン殿下のお昼のお茶の時間までに止まってくれるかしら? 目が腫れないでくれたらいいのだけど……無理よね」
成す術もなくめそめそと泣いていると、ふいに隣からにゃあと猫の鳴き声が聞こえてきた。
振り向くと、銀色の長く美しい毛並みと宝石のように綺麗な青色の目を持つ猫が座ってこちらを見ているではないか。
「君、いつの間にここに来たの?」
「にゃあ」
猫の言葉で答えてくれているのかもしれないが、あいにく私は猫語がわからない。
「綺麗な猫だけど……首輪が付いていないから野良なのよね? どこから王宮に入って来たのかしら?」
「ぐるる……」
猫は喉を鳴らすと、私の肩にスリスリと頭を擦りつけてくれる。喉を鳴らす時の小さな振動が体に伝わってくると、次第に心が解れてきたような気がした。
「ふふっ。あなた、とても人懐っこいのね」
猫の目の前に手を差し伸べると、今度は掌に顔を擦り付けてくれる。
私はすっかりこの綺麗な猫に夢中になってしまった。
喉元や額や背中を撫でると、猫はうっとりと目を細める。
「うにゃあ」
猫はそうひと声鳴くと私の膝に片足を乗せ、少し背伸びして私の頬を伝う涙を舐めてくれた。
なんだか慰めてくれているみたいだ。
ただの気まぐれかもしれないけれど、おかげで私の涙は完全に止まった。
「目の周り、腫れていないといいのだけど……、それに目が充血しているかもしれないわね」
不安になって上着のポケットから小型鏡を取り出して見てみると、幸いにも目も目の周りも無事だった。
全く腫れていないし、充血もしていないのだ。
「あんなに泣いたのに、何ともないなんて……。もしかして、あなたが治してくれたの?」
「にゃっ」
まさかと思って聞いてみると、猫は自信満々そうに答えてくれた。
以前、猫の中には魔力を持つ個体がいると聞いたことがある。
もしかするとこの猫は魔力を持っており、魔法で私の目を癒してくれたのかもしれない。
何とも頼もしい猫だ。
「ねえ、私の愚痴を聞いてくれる?」
「にゃあ」
果たして猫が了承してくれたのかわからないが、身勝手な人間である私は了承してもらえたことにした。
「私、ゴルボーン卿に媚びなんか売ってないし侍女仲間のみんなと同じように接していたのに、私が媚びを売ったなんて言われたの。あんな奴、絶対に関わりたくないのに!」
「にゃあ」
「向こうは騎士だから、私より立場が上なの。嫌がらせされたらどうしよう……。もしかすると、私がクビになるよう仕向けてくるかもしれないわ」
「にゃあん」
猫は相槌を打ってくれている。
本当に私の言葉を理解してくれているのかわからないけど、あまりにも的確に相槌を打ってくれるものだから、心なしか猫の声に同情が込められているような気がした。
この子が家にいてくれたら、どんなに仕事で疲れてもすぐに癒してもらえそうだ。
幸にもアシュリン殿下の専属侍女である私はアシュリン殿下の宮殿の中に私室をいただいており、そこで動物を飼ってもいいと言われている。
そうとなればあとは猫に聞くのみだ。
私は猫に問うた。
「ねえ、私と一緒に住まない? 私、あなたに一目惚れしちゃったの」
「んにゃあ」
二つ返事で了承してくれた。猫の言葉だから本当に了承してくれたのかはわからないが、ゴロゴロと喉を鳴らしているから、きっと「いいよ!」と言ってくれているはず。
「今日の夕方、仕事が終わったら迎えに来るからここに来てね」
「にゃ~」
私は猫を抱きしめて、その小さな口にそっとキスをする。
「じゃあ、後でね!」
その時、私はアシュリン殿下にお出しするお菓子のことで頭がいっぱいで気づいていなかった。
ベンチの上にいた猫が、淡い光に包まれていたことに――。
***
気を取り直して厨房でお茶の準備をしてアシュリン殿下の部屋へ行くと、何故か扉が閉まっている。おまけに扉の前で控えているはずのメイドと護衛騎士の姿がない。
なにかあったに違いないと直感した私は扉をノックした。程なくして扉が開き、中から飛び出してきたアシュリン殿下が私に抱きつく。
部屋の中に視線を走らせると、護衛騎士とメイドがいた。二人は私の顔を見ると安堵の表情を浮かべる。
「ベハティ! どうしましょう。わたくし、ウォード卿に大変なことをしてしまったわ!」
アシュリン殿下は華奢な肩を震わせている。私はアシュリン殿下を抱きしめ、そっと彼女の背中を撫でた。
「大丈夫ですよ。私や他の城仕えの者たちがアシュリン殿下の力になって解決しますから、なにがあったのか教えていただけますか?」
「授業で変身魔法を教わっていたのだけど、誤ってウォード卿を猫にしてしまったの。もちろん、すぐに戻そうとしたわ。ウォード卿には部屋で待ってもらうことにして、魔塔主を呼ぼうとしたのに――ウォード卿が部屋から飛び出してしまったの」
変身魔法は高度な技術が必要な難易度の高い魔法だ。
人間を魔法で別の生き物に変えてしまうため、本来なら特別な許可がないと使用することも習得することもできないのだけど、王族のアシュリン殿下は命を狙われた時に身を守るために教えられたのだろう。
たとえ刺客に襲われそうになっても、相手を小鳥に変えてしまえば命を奪われなくて済む。
「ウォード卿はどのような猫の姿になったのですか? 探して魔塔主に魔法を解いてもらいましょう」
「銀色の長くて綺麗な毛で、目は青色よ。お兄様には魔法で事の次第を話したから、お兄様が近衛騎士団に命令して探してくれているの」
「銀色の長い毛並みに、青色の目……ですか……」
私の脳裏に浮かぶのは、今しがた一緒に住む約束をして別れた、あの美しい猫。
魔法を使って私の目を癒してくれたから魔力持ちの猫だと思っていたのだけれど――。
(ま、まさか、あの猫がウォード卿?!)
猫の持つ色彩や魔法が使えるといった点を踏まえると、その可能性が高い。
(どうしよう。もしかしてウォード卿は私に助けを求めに来てくださったのに、私が泣いていたから励ましてくださったのかしら? それに私、あの猫にキスしてしまったのだけど……)
もしもあの猫が本当にウォード卿なら、いきなり私のような者にキスされてさぞや不快な思いをしたのではないだろうか。
ウォード卿を突然襲った痴女として社交界の噂になってしまう未来を想像してしまい、背筋が凍る。
(ひ、ひとまず見つけ出して、ウォード卿かどうか確かめないといけないわ。それに、魔塔主に魔法を解いてもらわないと……)
私はアシュリン殿下に庭園で似た容姿の猫と会ったことを伝え、二人で庭園に行くことにした。
***
さきほどいた庭園の片隅にアシュリン殿下と一緒に行くとそこにあの美しい猫の姿はなく、代わり探している人物を見つけた。
ウォード卿が人の姿でベンチに座り、両手で顔を覆っているのだ。
「ウォード卿、人間の姿に戻れたのですね!」
アシュリン殿下はそう言うと、安心して涙が零れたようで、目元を拭う。
「は、はい。先ほど、戻れました」
ウォード卿はアシュリン殿下の呼びかけに応えて顔を上げると、いつになくたどたどしく返事をする。
いつもは鋭い光を宿している水色の目はやや潤んでおり、その目が私を捕らえた。
「コックス嬢……」
ウォード卿は吐息を零すように小さく呟くと立ち上がり、足早に私に歩み寄る。
そしてなぜか、私に頭を差し出すように項垂れた。
彼の頭の動きに合わせて、輝く銀髪がさらりと揺れる。
「お願いです。どうか撫でてください」
「……はい?」
思わず聞き返した私にウォード卿は少し頭を上げて、上目遣いで私を見つめた。
頬を微かに赤くさせており、眉尻は下げていて切なそうだ。いつも私に冷たい眼差しを向ける、あのウォード卿と同一人物だとは思えない。
「猫の姿であなたに撫でていただいてから、またあなたに撫でられたいという思いが溢れて止まりません」
やはりあの猫がウォード卿だった。
私に撫でられた記憶があるということは、キスされたことも覚えているのだろうか。
それにしては私への嫌悪が無いように見える。
(もしかして、あまりにもショックで忘れてしまったとか……?)
聞きたいけれど、聞く勇気がない。
とはいえ無礼を働いたのは事実だ。
今すぐに地面に頭を擦り付けて謝らなければ、と私は自分を奮起させる。
しかし私が口を開く前にウォード卿はもう一度、私に撫でてほしいと催促してくる。
麗しい貴公子が目を潤ませてお願いしてくるのに断れようか。私のような凡庸な人間はできない。
私がそっと右手を差し出すと、ウォード卿は自分で私の手に頭を触れさせた。その仕草はまるで猫だ。
「ええと……まだ完全には魔法が解けていないようですね。この後すぐに、魔塔主に見ていただきましょう」
「いえ、魔塔主は魔物討伐に出ているので、先ほど魔法で王太子殿下にお願いしました。そろそろこちらに来るかと思います」
王太子殿下は魔力が多く魔法の腕が良いそうで、魔塔主がこれまでに何度もダメもとで魔塔にスカウトしたほど才能があるらしい。
そんな王太子殿下が来るまで撫で続けてほしいとウォード卿に懇願された私は、心を無にしてウォード卿の頭を撫で続けた。
***
「これは重傷だな」
庭園に到着した王太子殿下は、ウォード卿を見るなり神妙な顔でそう告げた。
王太子殿下はアシュリン殿下と同じ金色の髪と水色の目を持つ美丈夫だ。
年齢は私の一つ下で今年ニ十歳になる。
アシュリン殿下が言うには、王太子殿下とウォード卿とは旧知の仲らしい。
ウォード卿は王太子殿下の御前であるのに王太子殿下ではなく私に顔を向け、まだ撫でられ足りないと訴えかけてきている。
普段のウォード卿では絶対にあり得ない振る舞いだ。
「王太子殿下、私は魔法に門外漢のため教えていただきたいのですが、ウォード卿はまだ魔法が解けていないのですか?」
「いや、見たところ魔法は解けているが、副作用で猫の性質がウォード卿の精神に影響しているのだろう。猫の姿の時にベハティに撫でまわされた影響でベハティに撫でられることばかり考えてしまうようだ。ベハティ、お前はウォード卿をこのような体にした責任を取らねばならないだろう」
「なんだか語弊が……いえ、その通りです。ウォード卿だと知らなかったとはいえ軽率に猫を撫でまわした私が悪いのです。どのような罰も受けます」
王太子殿下たちにはまだ告白していないが、私はウォード卿にキスしてしまったのだ。
その罪悪感を少しでも和らげるためにも、謹んで罰を受けたい。
私は固唾を飲んで王太子殿下からの断罪を待つ。
するとアシュリン殿下が私を王太子殿下から庇うように前に立った。
「お兄様、ベハティは少しも悪くありませんわ。悪いのはウォード卿を猫にしてしまった私なのです!」
「安心しろ、アシュリン。責任を取れと言っただけで、罪に問うことはない」
「それはどういうことなのですか?」
「ベハティにはウォード卿と結婚してもらう。それで全てが丸く収まるだろう」
「えっ、結婚?!」
王太子殿下の話を妨げてはならないのだが、あまりにも突拍子な罰に、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
てっきり謹慎になるのではと思っていたのに、なぜか結婚。
ウォード卿は由緒正しい伯爵家の当主で、おまけに彼の領地は美しい景観が有名で治安がよく、財政も安定していると聞く。
(この人と結婚するなんて、償いどころがご褒美になりそうだけど……)
とはいえ一介の男爵令嬢が王太子殿下の命に背くことなどできない。しかしこのままでは、私に襲われた挙句に結婚する羽目になるウォード卿が可哀想だ。
踏んだり蹴ったりではないか。
「なんだ、ベハティ。納得できないと言いたげな顔をしているな」
「僭越ながら、ウォード卿のことを想うと私などと結婚しても何も丸く収まらないのではないのでしょうか?」
「そんなことはない。こいつとしては結婚できるのだから願ったり叶ったりだろう」
つまりウォード卿は結婚のことでなやんでいたのだろうか。
問題を解決するためとはいえ私を相手にするにはやはりウォード卿が可哀想だ。
そんなことを考えていると、正気に戻ったらしいウォード卿が慌てた様子で私の耳を両手で塞いできた。
「で、殿下! その話はお止めください!」
急にウォード卿との距離が縮まり、美しいご尊顔が目と鼻の先にあるせいで心臓が跳ねる。
「ちょうどいい機会ではないか。いつまでもうじうじとお前の悩みを聞かされてうんざりしていたんだ」
王太子殿下が魔法の呪文を詠唱して指先を振るとウォード卿の手が私の耳から離れた。
ウォード卿は手をぱたぱたと忙しなく動かしたかと思うと、そろりと両手を下ろして俯いた。
いつもより落ち着きがない姿が新鮮で、可愛らしいと思ってしまった。
「あ、あの、コックス嬢。勝手に触れて申し訳ございません」
そう言い、ウォード卿はしゅんとした表情で私を見つめる。
「ベハティには特別に教えてやろう。魔法で動物にされてしまった者は、好いた者のもとに駆けつける習性があるのだ」
「そ、そうなの……ですね?」
「ああ、だから猫になったウォード卿は一目散にベハティのもとに駆けつけたのだろう。動物の嗅覚ならすぐに君の場所を見つけられたはずだ」
「ですが、ウォード卿の場合は私に助けを求めたのではないのですか? 好いているだなんて、そんな……」
だってウォード卿は私のことも他の令嬢と同様に苦手なはずだ。
これまでに一度もアシュリン殿下に向けるような笑みを向けられたことはないし、なんせ私が彼に好かれるような要素があるとは到底思えない。
「それに変身魔法を解く方法の一つは『愛する者からのキス』なんだ。おとぎ話のようだろう?」
「キ、キス……?!」
ギクリとした私は肩を揺らしてしまった。
そんな私の様子に、王太子殿下は笑みを深める。
ああ、いまの一瞬で、私がウォード卿にキスしたことを知られてしまった。
ちらりとウォード卿の方を見遣ると、ウォード卿は片手で口元を覆ったままそっと目を伏せている。
その顔は赤く、耳まで染まっている。
その表情を見て私は悟った。
ウォード卿は私にキスされたことを覚えている。
「ウォード卿……あの、猫の姿の時、私がキスしてしまったことを……覚えて……いらっしゃいますか?」
「……」
ウォード卿は黙ったまま、こくりと頷いた。
私の隣でアシュリン殿下が、「まあ、ベハティったら罪な人……」と呟く。
(終わった……)
私はきっとあの時から今も継続してウォード卿にとって痴女に分類されているだろう。
悲しいことに起きてしまったことはなかったことにできない。
私は心の中で頭を抱えつつ、平謝りした。
「もっ、申し訳ございませんでした! 猫に変身したあなただと知らなかったとはいえ私なんかにキスされた不快でしたでしょう。心よりお詫び申し上げます」
「申し訳ございません! コックス嬢を騙すつもりはなかったのですが、結果としてあなたの唇を奪った責任をとらせていただけませんか?!」
私の声とウォード卿の声が重なる。
ウォード卿が私を騙すつもりはなかったと言っているのは聞こえた。
しかしその後、「責任をとる」と言っていたような気がしたのだけど、幻聴だろうか。
ウォード卿はどちらかと言えば被害者なのに。
「ええと、申し訳ございません。最後の言葉をもう一度仰っていただいても?」
「……あなたの唇を奪った責任をとらせていただけませんか?」
ウォード卿の頬が更に赤くなる。まるで熟れた林檎のようだ。
その様子に、自分の頬がじわじわと熱くなるのを感じる。
まるでウォード卿の頬の色が伝播したかのように、私の頬も真っ赤になっているはずだ。
「責任って、そんな……! むしろ私が襲ってしまったようなものですよ?!」
「片想いの相手からのキスなのに、襲われたなんて微塵も思いません!」
「……え? 片想い?」
国宝級の美貌の魔導士と名高く、令嬢たちの間で理想の婚約者の首位に立つウォード卿が、私のような行き遅れの貧乏男爵令嬢に片想いしているなんて、誰が信じられるだろうか。
しかし茫然とする私に、ウォード卿は照れくさそうに「そうです」と律儀に答えてくれる。
「私は学生の頃からコックス嬢に片想いしているのです。ですから王太子殿下が仰った通り、私は猫の姿になった途端にあなたのもとに駆けつけました。魔法の作用とはいえ、あなたに撫でてもらいたい一心で探したのです」
「ええと……だけどウォード卿は私のことも他の女性を見る時と同じような目をしていたので、その……特別好いているようには思えず、むしろ嫌われている方かと思っていたのですが……」
「ご、誤解です! あなたを見ると緊張してしまって……それに今日は、私を弟の友人のようと王女殿下にお話ししているところを聞いてしまったので、落ち込んで情けない顔を見せてしまうかもしれないと思い、表情を引き締めていました」
しょんぼりと答えるウォード卿の表情を見ると、この人は本当に私を好いてくれているのだと実感がわいてくる。
純粋な好意を向けられているのだとわかると、なんだか胸がくすぐったい。
私は照れくさくなり、どう答えればいいのかわからず立ち尽くしてしまう。
ウォード卿も気恥ずかしそうに黙ってしまい、そのまま立ち尽くしている。
そんな私たちを見かねた王太子殿下が、やれやれとわんばかりに肩を竦めた。
「つまりウォード卿はベハティを好いているというわけだ。しかしこの臆病者は自分より年上のベハティに想いを告げる勇気がなく、とはいえ別の者にベハティを盗られたくないと、面倒なことをほざいていたから見かねた俺がウォード卿を可愛いアシュリンの魔法の家庭教師にしてベハティとの接点を作ってやったんだ。だというのにこいつは相変わらず奥手で何も行動を起こさないからヤキモキしていたのさ。しかし猫になってベハティに撫でられたことで理性が崩れてとにかくベハティに撫でられたくなってしまったのだろう」
「い、言い方! 王太子殿下、それ以上は言わないでください! 自分で言います!」
ウォード卿が慌てて間に入った。
彼はまだ真っ赤になっている顔で私と向き合うと、ぽつりぽつりと話し始める。
「コックス嬢を意識するようになったのは、貴族学校にいる時でした。私は放課後になるといつも魔法で自分の髪の色や長さを変えて図書館で勉強をしていたのですが、そのときにいつもあなたを見かけていました」
髪色を変えないと、彼の婚約者の座を狙う令嬢たちに追いかけられてしまい、なかなか勉強時間を確保できず苦労していたらしい。
放課後の図書館で過ごす時間が、彼にとって学園生活で唯一の心安らぐひと時だったそうだ。
「あなたは時に楽しそうに、時に必死で勉強しているので、その表情をつい見てしまうようになったのです。どんなあなたも輝いて見えました。一度でもいいからあなたと話したいと思っていたのですが、どのように声をかければいいのかわからず悩んでしまい、声をかけられなかったのです。なので、試験前にあなたから勉強を教わっているご友人を見かける度に嫉妬して眺めていました。そうしている間にあなたが卒業してしまって後悔しました」
情けない話ですよね、とウォード卿はほろ苦く笑う。
「魔法で猫の姿になった私は猫の思考に支配されていましたが、意識も残っていました。あなたの泣いている姿を見た時は慰めたいと思って自分からあの行動をとりましたし、あなたからゴルボーン卿の話を聞いた時は腸が煮えくり返っていました。今にあなたを愚弄した罪を償わせますので少しお待ちください」
ゴルボーン卿の話をするウォード卿の声が低くなる。目が座っており、底光りしているように見える。
ウォード卿は本当に、私のために怒ってくれているのだ。
「コックス嬢、猫の私にしてくれた一緒に住む約束ですが――人間の私にも有効でしょうか?」
「それって、まさか……」
ウォード卿は蕩けるような笑みを浮かべると、私の前に跪く。
私の右手を恭しく掬い上げると、その指先にそっとキスをした。
「私と結婚していただけませんか?」
「あ、あの、私の実家はあまり裕福とは言えないので持参金を用意できないかもしれませんし……」
「持参金は不要です。きっと私の両親も、数多の縁談を断っていた私がようやく結婚するなら喜んで持参金はいらないと言うでしょう。このところ、ずっと結婚しろとせっついてきていますから」
ウォード卿は幼い頃に縁談がいくつかあったのだが、相手の令嬢がウォード卿に執着してウォード卿に付きまとうようになったせいで魔法の鍛錬に支障がでたため断ったそうだ。
ウォード卿のご両親は高位貴族には珍しく息子の意見を尊重し、また未来の侯爵夫人が夫に執着して侯爵夫人としての責務を果たせなくては困ると思い、縁談を断ってきたらしい。
「ですが、私はアシュリン殿下に仕え続けたいので、もし殿下が外国に嫁ぐとなれば……」
「ベハティ! 私のためにあなたの人生を捧げなくていいのよ。私はベハティに幸せになってほしいの!」
アシュリン殿下はやはり聡くて優しい方だ。
侍女である私の幸せを願ってくれるこのお方に、やはり仕え続けたい。
「お二人とも、ご心配なく。その時は私も一緒に異国へ行きます。――ですから王太子殿下、もし王女殿下を異国に嫁がせるのであれば私は他国の魔導士となりますので、それを覚悟の上ご検討いただくよう陛下にお伝えください」
と、ウォード卿は王太子殿下に対して脅しのようなことを口にする。
しかし王太子殿下はそれを鼻で笑った。
「安心しろ。俺も父上も可愛いアシュリンを異国にくれてやるつもりはない。そもそも、誰のもとにも嫁がせるつもりはないからな」
それはそれで安心できない発言である。
突っ込みを入れるべきだろうかと悩む私に、ウォード卿が甘く低い声で呼びかける。
「コックス嬢、私のような年下で弟の友人のような男とは結婚できないでしょうか?」
眉尻を下げて問うウォード卿の切実な表情に、私の心臓は大きな音を立てて跳ねる。
断る理由はなくなってしまった。
そもそも侯爵家の令息であるウォード卿からの求婚を男爵令嬢の私が断れるはずはないのだけれど、彼なら私の意見を尊重して、断ったら引き下がってくれるだろう。
だけど私は――。
「……私で、よろしければ……」
猫の姿になっていても私を励まそうとしてくれた、不器用で心優しい彼となら結婚したいと思った。
***
その後、あれよあれよという間に私とウォード卿は婚約し、半年後に式を挙げることになった。
私が気にしていた持参金問題は、折よく領地で魔鉱石の鉱山が見つかって工面できるようになり解決した。
ウォード卿は気にしなくていいのにと言ってくれたけれど、私は実家の体面を考えるとやはり用意したかったのだ。
おまけに最近では騎士団や魔塔が地方都市の見回りを強化してくれるようになったため、魔物被害が起きていないらしい。
私とウォード卿とはお互いの休日が合う日に一緒にお茶をするようになり、王宮で会った時は少し言葉を交わすようになった。
その間、私は絶えず「撫でてほしい」と要求されている。
今日も私たちは王都のカフェの店先でお茶を飲んでいる。
「あの日以来、ベハティ様に撫でてもらわないと不安になってこまっています。今だって……」
ウォード卿は言葉を止めると、切なげな眼差しで私の手を見つめる。まるで、「撫でて」と言いたげな目だ。
噂の氷の貴公子がいるため周囲の客たちはちらちらと私たちを見ているのだ。
私がウォード卿を撫でるといつも、周囲から羨望と好奇の視線が飛んでくるから外では控えたいところ。
だけどウォード卿の潤んだ目を見ると、まあいいかと思ってしまうから困っている。
「こ、これはかなり重症……」
「王女殿下は強い魔力をお持ちですから、副作用が長引いているのでしょう」
「い、いったいいつになったら完全に治るのでしょうか?」
このまま猫のように甘えてくれると可愛いし癒されるから嬉しいかもしれないという、邪な期待もある。
「個人差があるので何とも言えません。一生涯残るかもしれませんし、明日になればすっかり治るかもしれません。――あの、やはり我慢できないので撫でていただけませんか?」
「わ、わかりました……!」
恐る恐る手を持ち上げると、ウォード様はまるで待ちきれないとでも言わんばかりに頭を私の掌に押し付ける。
普段は涼やかな目が今は蕩けており、口元が微かに微笑を湛えている。
この人が本当にあの氷の貴公子なのだろうかと、あまりの変わりように毎度新鮮な気持ちで驚いてしまう。
そして撫でているとやはり、周囲から向けられる視線に居心地が悪くなる。
国宝の顔が蕩けているのだから、思わず見てしまうのだろう。
「ウォード卿、ここは人目がありますので……」
「ウィル、と呼んでください」
と、強請るように言われると私はいつも負けてしまう。だっておねだりするウィルが可愛いのだもの。
ウィルからの求婚以来、私はもう人間の姿のウィルにもメロメロだ。
普段は以前のように氷の貴公子然としたクールなウィルが、自分の前ではふにゃりと笑ったり猫のように甘えてくれるのだ。
そのギャップの破壊力は凄まじく、私はすぐに陥落してしまった。
「ウィル様、人目があるのでこれ以上は我慢してください」
「……」
「馬車の中でたくさん撫でて差し上げますから」
「わかりました」
口ではそう言っているけれど、ウィルの目は物足りなさそうに私の手を見つめている。
いったいどれほど撫でると満足するのだろうか。結婚した暁には少し試してみたいかもしれない。
もちろん、その時にまだウィルの副作用が続いていたらの話だけれど。
「そう言えば、ゴルボーン卿が実家を勘当されたそうです。なんでも、婚約者がいながら幾人も恋人を作っていたため多額の慰謝料を払って破棄することになったそうですよ。先日騎士団をクビになったばかりですので、ゴルボーン伯爵家は彼を一族の恥として追放することにしたのでしょう」
「騎士団の仕事を後輩に押し付けて浮気相手と遊んでいましたものね。どちらからも愛想を尽かされて当然です」
ウィルから婚約された翌日、アシュリン殿下とウィルと王太子殿下はあらゆる手段を使ってゴルボーン卿が騎士の仕事を放棄していた証拠や他の女性と浮気していた証拠を集めて騎士団長やゴルボーン卿の婚約者の父親に渡した。
特にアシュリン殿下とウィルは、私を泣かせたゴルボーン卿を必ずや断罪してやると鬼気迫る勢いだったと王太子殿下から聞いた。
「ウィル様、そろそろ行きましょう。人目が多くなってきました」
「そうですね。馬車の中でゆっくり話しましょう」
店を出て馬車に乗ると、ウィルは私の差し向かいの席にすわるとすぐに、頭を私に差し出してきて撫でてほしいと要求してくる。
初めの頃は慣れなかったが、今ではその姿に癒されるようになった。
「なんだか、すっかり猫らしくなってきましたね」
思わず笑ってしまうと、ウィルは席を立って私の隣に座る。
私を見て蕩ける水色の目が間近に迫る。
「やはりまだ猫の感覚が抜けませんから、試しにもう一度キスをしていいですか? もしかすると、この副作用が治まるかもしれません」
「……っ!」
もう一度、とウィルが言うけれど、一回目は彼が猫の姿だからできたのであって、人間の姿の彼にそう簡単にできるはずがない。
躊躇う私に、ウィルは「ダメですか?」と眉尻を下げながら問うてくる。
そんな顔をされると断れない。
自分の美貌をわかってこのような仕草をしているのだろうかと勘繰ってしまう。
「……一度だけですよ?」
「はい。今は一度だけで、我慢します」
「ちゃっかりと『今は』をつけましたね?」
やはり確信犯なのかもしれないと、私はジロリとウィルを睨む。
ウィルは眉尻を下げて申し訳なさそうに私に顔を近づけると、甘えるように自分の額を私の額にそっと触れさせる。
「ベハティ様、愛しています」
優しく、そして愛おしさを込めた囁きが耳元に落ちた後、私の唇にウォード卿の唇が触れた。
一度だけと約束したからだろうか、一回目のキスよりもずっと長い時間、ウォード卿の唇は離れてくれず、私が身を引こうとすると背中に手を添えて逆に引き寄せてきた。
ちなみにこの先、何度ウォード卿とキスをしても、ウォード卿は私にだけ猫のように甘えるままだった。
それは結婚してからも、そのずっと先の未来も。
(結)
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