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 あの場所に向かいながら、俺は緊張していた。十年前の今日、彼女と最後に話したあの場所。彼女はいるだろうか。もしかすると、俺の事なんて忘れているのではないか。いや、彼女の事だから、きっと、覚えている。きっとあの場所に既に来ていて、俺の事を待っている。自然と足早になり、落ち着かなければ、と俺は昔の事を思い出して、緊張する気持ちを決意に変えようとする。  彼女と初めて出会ったのは、大学に入ったばかりの頃だ。最初は、ただバス停で見かけるだけだった。けれど、何故か次第に俺は、彼女に惹かれるようになっていった。きっかけが何だったのかは思い出せない。彼女は明るい感じでもなかったし、いつもうつむいていて、俺の存在にさえ気づいていないような人だった。だから、振り向かせてみたい、という気持ちが起こったのかもしれない。本当に自分でも理由は分からないのだけれど、そんなことを考えているうちに、彼女と話してみたくなり、日が経つたびにその気持ちが大きくなっていった。  そして、大学1年の終わりの頃、俺は思い切って、初めて彼女に話しかけたのだ。バス停で。彼女の学年も知らなかったから、もし卒業してしまったらもう会えない、と思ったのもきっかけの一つだ。聞いたら彼女は俺と同じ大学1年生だった。初めて話す彼女は、やはりそんなに明るい感じでもなかったけれど、ただそれは暗いというよりも、人に慣れていない感じで、言い方を変えれば、うぶな感じがして、それが俺には何だかかわいく思えた。そしてますます俺は彼女の事が気になり、気が付くと好きになり、付き合うようになった。そして、彼女と一緒にいるのは、最初はとても幸せだった。そう、最初だけは。  付き合って最初の頃は、本当に幸せだったのだ。俺は女性と付き合うのは初めてで、彼女の事はとても大切に思えたし、そう思える人がいるという事も、とても幸せだった。彼女と二人で過ごす時間は、ただ一緒にいるというだけで心地よかったし、だから、同棲して一緒に暮らすことになった時は、これからもずっとこうやって二人で暮らしていきたいとさえ思ったのだ。けれど。  最初は、ほんのちょっとした違和感だった。彼女からの連絡が、頻繁に来るようになったのだ。最初はこんなふうに何度も連絡をくれる事が嬉しかったけれど、次第に、何かおかしいと感じるようになった。思い切ってそのことを彼女に伝えると、彼女は、心配なのだといった。ただそれは、俺の事が心配というよりも、俺が彼女から離れて行くことが心配、という意味のようだった。そんなことはない、と彼女を安心させようとしたけれど、それが余計に彼女を不安にさせたのか、彼女はますます俺に連絡してくるようになった。  それでも俺は彼女の事を嫌いになんてならなかった。彼女も付き合いは初めてだと言っていたから、きっと心配なのだろう。もっと安心させてあげればいい、きっと、そのうちすべて解決する。そんなふうに思っていた。けれど、ある日を境に、その気持ちは壊れた。  その日家に帰ると、彼女の様子がおかしかった。どうしたのかと聞くと、俺の大学まで来て、俺が女性と話しているのを見たらしい。たったそれだけの事だった。俺は、それは研究室の同級生で、研究の話をしていただけだと言ったけれど、彼女は、本当に?と何度も聞く。俺は、彼女の入れてくれた珈琲を飲み、改めてちゃんと説明しようとした。  そして気が付くと俺は、拘束されていたのだ。手足を縛られ、猿ぐつわをかまされ、そして体に力が入らなかった。恐らく、珈琲に何か薬が入っていたのだろう。何も言えない俺を見ながら彼女は、「これでずっと一緒にいられるね」と笑ったのだ。  それから俺は、彼女に介護されるような形で日々を過ごした。彼女は毎日とても幸せそうだったけれど、俺は毎日が恐ろしかった。ただ、逃げ出したくても逃げ出せない。身体に力が入らないのだ。後から分かった事だけれど、日々の食事にも薬が混ぜられていたらしい。  俺は次第に、生きることを諦めるようになった。それに加えて、意識が朦朧としていたせいもあるのだろう。時間が経つにつれ、俺は彼女の毎日の介護が、ありがたいものに感じるようにさえなってきた。そして彼女は、それに気づいたのか、次第に俺の拘束を緩めるようになった。普段は勿論拘束されているけれど、時々拘束を外して、夜中、人のいない時間帯に外に連れ出してくれるようになったのだ。そして、恐らく食事に混ぜる薬も減らしつつあったのだろう、体力も少しずつ戻りつつあった。  体力が戻りつつあることで、俺は再び、生きたい、逃げ出したい、と思えるようになった。そして、その気持ちが彼女にばれないように気を付けながら、チャンスを待った。  そして十年前の今日、俺は逃げだしたのだ。戻ってきたとはいえまだ頼りない力で、必死に彼女から携帯を奪い、力を振り絞って走り逃げ、携帯で警察に連絡し、今向かっている約束の場所で、俺を追いかけて来た彼女は警察に捕まった。彼女は警察に引かれながら、十年後、ここで会いましょう、と泣きながら言ったのだ。  思い出しただけでも、胸が苦しくなった。今、俺には大切な家族がいる。彼女が捕まったあと、一年間俺は入院し、身体を回復させた。その後仕事も決まり、職場で知り合った女性と結婚し、子どもも生まれた。今の俺は、本当に今度こそ幸せなのだ。だから俺は、その大切な幸せを、家族を守らなければならない。彼女の事だからきっと、俺を探し出すだろう。もし見つかると、俺だけでなく、俺の大切な家族が何をされるか、分からない。だったらそうなる前に。  俺は鞄の中に手を入れる。固いものが触れる。俺が買ったという事がばれないように、気を付けて手に入れた包丁だ。いざとなればこれで…。そう思って再び俺は、緊張した。
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