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『靴』
「だって彼ったら、踵を潰して履くのよ」
彼女はそう言って男を振った。
「靴はね、一番重要なの。オシャレは足元からって言うでしょう?」
いたずらっ子のように笑う彼女は、黄色いヒールを鳴らしながら、躍るように振り向いた。その時の顔を、僕は一生忘れられないだろう。
*
段ボールに跨り、慎重にガムテープを張り付ける。ふと顔を上げると、そこは入居時よりも寂れた部屋があるだけだった。無造作に積まれた段ボールは、背景のように溶け込んでいる。
大学生活を4年間過ごしたこの部屋と、明日別れを告げる。入学前の嬉しさと緊張が入り混じった気持ちも、初めての二日酔いの気持ち悪さも、君への想いも、君との日々も、全部この部屋に置いていく。
最終確認のためにクローゼットを開くと、奥に隠れるように箱が置いてあった。それを見つけた時、心臓が脈を打った。伸ばした手は震えていたかもしれない。そっと箱を掴み手前に引っ張り出す。それは埃こそ被っていたものの、確かに新品の箱だった。
田舎から出てきた自分は、オシャレとは無縁の生活だった。そんな自分を彼女はいつも笑い、呆れ、手を貸してくれた。特に靴にはうるさかった。高校生の時に母親が買ってきた黒いスニーカーは、靴紐が汚れ、底が削れ、色あせていた。そんな靴を見かねて、彼女がプレゼントしてくれたのは、白地に黄色いラインが入ったスニーカー。少し派手じゃないかと伝えると、君は暗いから足元ぐらい明るくいろと怒られた。
だが貰った靴は中々履けなかった。それは靴を貰った嬉しさよりも、彼女からの贈り物だという事実が嬉しくて、汚したくなくて、嫌な事があった日には、クローゼットに仕舞われた靴を眺めては自分を慰めていた。それが彼女にバレた時も、使い方が違うと、また怒られたものだ。
冷えた床に座り込む。その冷たさが尻から全身に伝わる。彼女と別れてから、一度も開けることのなかった箱をゆっくりと開く。窓から差し込む夕日が、埃と黄色いラインを照らした。
汚れた靴下で履いたら、きっと君は怒るだろう。新しい靴は朝に履けと言っていたっけ。つま先からゆっくりと、あの日の空気を味わう。踵まで靴に収めた時、もう今の自分にはキツくなっていることに気が付いた。
「ああ、やっぱり怒られちゃうな」
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