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暗い空には都会ではまず見かけられない量の星が輝いている。山の開けた場所で僕は彼女の海梨とともに星空を眺めていた。周囲の木々たちは風に揺らされることなく、星空観賞に最適な状況が整っていた。
僕の目の前で空を仰ぐ海梨は平穏な眼差しで星空を満喫している。
海梨はなんで今日が最後の日だというのにこの景色を楽しめるのだ。僕には海梨の心境が理解ない。視界内の海梨を見続けるつれ暗雲が垂れ込める。星空に雲は疎らだというのに。
「渓心さん、星空綺麗ですね。今日ここに連れてきもらってわたし本当に嬉しいです」
海梨の涼やかな声が耳の穴から心にまで何事もなく届く。これで何百回目でだろうか。海梨に名を呼ばれたのは。アイドルの海梨に初めて名前を呼ばれたときは体中が沸騰して浮かれた記憶が頭の中に染み付いている。年を取って物忘れが激しくなってもその日のことはすぐに思い返してきっと涙を流すに違いない。
「まあ、今日が最後だからな。できる限り静かな場所で綺麗なものを見たかったからな。車をレンタルしたかいがあったよ」
海梨がこちらを見ていないこと把握しておきながら僕は一生懸命作り笑いをした。声も平静を装ったつもりだった。けれど胸中では早く涙が流れわずかながら震え気味な声だった気がする。海梨に強がっていることがバレなければいいが。
「今日が最後でしたね。実際そうですけど。なんだか寂しくなりますね」
海梨が言葉を並べていくが、やけに悲観的な様子がしない。なぜ最後の日だというのに先程から余裕でいられるのだろう。もしかして昔から僕に愛想を尽かしていたのか。それなら今の状況に納得がいく。駄目だ悪い方向に物事を考えると体中が苦しい気分になってきた。
僕は小さく息を吸って山の空気を体内に送り込む。都会の空気と違い爽やかな感じがして体に落ち着きが戻る。それでも五分経てばまた状態が元に戻りそうで怖かった。
「寂しいに決まっているだろう。一年間も付き合ってきたのだから。海梨と偶然付き合えて早一年。人生でこんな幸せな時間はなかったんだから」
僕はまくし立てるように本音を語ると海梨に抱きついていた。歳上なのに最後の最後で弱いところを見せるとは情けないと思う。けど体全体で感じる海梨の温もりだけは手放したくなかった。
「マスコミの人たちにわたしたちの関係が気づかれそうでしたからね。別れる決断は間違いではないですよ。もし熱愛報道が出たら渓心さんにまで迷惑かかりますから」
海梨が別れる事情を説明するのを耳にして僕は余計に別れるのが辛くなってより強く海梨を抱きしめてしまう。海梨は「もう少し優しくしてください」と苦笑いしているのが想像できるような口調で僕を窘めてくる。
アイドルと付き合っている以上この展開は覚悟できていたいはずだ。なのに僕はあまりにも覚悟が足りてなかった。熱愛報道が出てもいい。それでも海梨とは一生暮らしたい。けど売出し中のアイドルの熱愛を所属事務所が許さないだろう。だから僕たちは別れるしかないのだ。
そう自分を納得させようと心の中の自分に語りかける。けれど心の中の自分は両手で耳を塞いで聞いてくれそうにもない。やっぱり僕は海梨を愛しすぎた。離れられないぐらいに。
「渓心さん、わたしに抱きつくよりも星を見ましょう。今日の目的はそれでしょ。ほら、綺麗ですよ」
海梨が励ますように僕に語りかけてくる。海梨は僕がこんな状態でも平静のままだ。やはり大人数の前で歌ってきた人気アイドルのメンタルは屈強なのだろうか。
僕は仕方無しに海梨から離れ空を仰いだ。確かに星空は綺麗だ。けれど目の前にいる海梨の瞳のようが百倍は輝いているはずだ。彼女が魅了されている景色に関心を持たない自分が醜くて自己嫌悪してしまう。こうなるならロマンチックでない場所で最後の日を迎えるべきだった。
目の前の海梨が人差し指を立てながら星空を指差す。人差し指の方向に僕の視線を思わず釣られてしまう。だがその先には同じ光景しか広がっていない。海梨は何を指差したいのだろうか。そう思いながら僕は星空を見続ける。
「仕事で今まで星空を何度も見てきました。けれど今日見た星空が一番綺麗です。それはなんでかわかりますか」
海梨の質問はありきたりすぎてすぐに答えが分かってしまう。どうせ「最愛の人と一緒だから」だろう。答えが分かった以上すぐに返事をするべきだった。けどロマンチストになれない僕は答えるのを躊躇った。
口を開けぬまま一秒二秒と経過していく。その間にも頭を捻って気の利いた代わりの回答を探す。けど何も思いつかない。
ここは諦めてロマンチストになりきろう。戸惑いながらも答えを言うべく口を動かそうとする。そのとき耳元に小さな風の音が唐突に聞こえた。風は海梨の髪を僅かに揺らすとすぐに止んでいった。
普段なら気に求めないほどの微風だ。けれど気持ちが乱れている今日は些細な音でも気に障ってしまう。おかげで答えを言う僅かな覚悟も風の音とともに遥か上空へと消え去ってしまった。
「わりと簡単な問題だったと思うけど分かりませんでした?」
海梨は愛嬌のある声で不満げそう言うと体ごと僕の方を向いた。可愛らしい丸い瞳が目に映る。海梨は優しそうに僕を見詰めてくる。こうして海梨と見つめ合っていると幸せな気分になれる。このままだと質問のことを忘れそうだ。けど機嫌を損ねたくはないし誠実に話そう。
「答えはありきたりすぎて言わなかったけど最愛の人でしょ?」
「はいそうです。ありきたりすぎて答えるのも馬鹿らしかったですか?」
「ただロマンチストぽい答えだから恥ずかしくて言わなかっただけ」
海梨はドラマとかで言い慣れているだろうけど一般人の僕には「最愛の人」とはやはり気軽には言えないものだ。
海梨は軽く握り締めた右手を口元に近づけるとどこか楽しそうに微笑んだ。
「別に二人きりだけなので誰も聞いていないと思うのですが。それでも恥ずかしかったんですね」
最愛の人にこそ聞かれるのが恥ずかしいものだ。それを海梨が理解しておらず僕は少しだけ拗ねた気分に陥った。
「そうだよ恥ずかしいんだよ」
横を向いてやけっぱちに質問に対して認めてやった。全く最後の日だというのになぜこんな何気ないやり取りとしているのだろうか。自分にとっては下手に雰囲気が出来るよりかは楽でいいのだが。
右手をいきなり握られて僕は海梨の方に視線を戻した。海梨は両手で僕の片手を握っていた。僕の手には海梨の温もりを感じられて不思議と落ち着いてくる。
「冷やかしてごめんなさいね。けどわたしにとっては『最愛の人』といることが一番大切なんです。だからありきたりでもいいです。」
「海梨」
真摯に思いを語られ僕は「最愛の人」の名前を口にするだけで後は何も言えないまま目の前の海梨に目を奪われた。
海梨がそうであるように僕も海梨と一緒にいることそのものが幸せだった。なんでありきたりだからと答えるのに躊躇ったのだろう。そのことを僕は後悔した。
「だから今までありがとうございました。これからは新しい幸せを見つけてくださいね。わたしがテレビに映るからといってわたしにいつまでも惚れていたら駄目ですからね」
海梨は笑いながら話しているが目からはいくつもの涙が流れていた。海梨が今日沈んだ顔を見せなかったのは別れが寂しいから無理して気丈夫そうに振る舞っていたからだろう。
「出来る限り新しい恋を探すつもりだけど、もしかしたら無理かもね。海梨以外の人は思いつかいないし」
目頭を中心に顔中が熱くなっていた。もう目から涙が大量に出るのが察するのも簡単だ。案の定目の下の皮膚に熱せられた雫が感じた。駄目だ。また雫が両目から出てくる。やっぱ別れるのは辛いな。
「もう帰りましょうか。街まで。このまま二人でいるのは辛いので」
海梨は震えた声でそう提案してきた。僕は首を横に何百回でも振りたい衝動に駆られる。けれどそれは禁じ手でしかない。明日を迎えれば海梨と僕は赤の他人同士だ。明日来る滝のような悲しみに僕らは耐えなくてはいけない。帰ったら海梨の連絡先、消しておかないとまた電話しそうだな。
僕は右手で両目の涙を拭うと、
「わかった。車に戻ろうか。それと今まで付き合ってくれてありがとうな」
声を乱さないようにして言うのがやっとだった。海梨は無言のまま笑みを浮かべると僕たちは手を繋いで近くに止めてある自動車まで歩んでいった。
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